まんだら第四篇〜虚空のスキャット31


波紋が消え去るよう永瀬砂理の笑みがようやく細面から遠のいた。
「何だよ、折角彼女だってここまで来たんだよ。ぼくだってそうさ、手を取り合って突き進むためにこうしてここにいるんじゃないか、それを土壇場になって考え直せはないだろう」
晃一の憤慨は同時に邁進への確信であり、そして砂理の悲しみのみなもとでもあるようだった。
「そうか、それならいいんだ」孝博の声は低音にくぐもったが肯定のちからは損なわれていなかった。
手を取り合ってと云う、言葉が意味するところは何故か反対に散り散りに離れゆくイメージが脳裏をよぎる。が、今はそんな陰画で意識を乱されたくはなかった。
「砂理ちゃん、着いてすぐで申しわけないが、このまますぐに遠藤さんのところに行くよ。それでいいかい」
すると、今しがたまでの砂理の華やぎは瞬時にして枯れ尾花のごとく生気が失われた。口もとがきつく結ばれた連動によってつり目が増々冷ややかになり、うっすらと滲み出した涙とも見える潤いがかえって白濁した瞳を形成する。肉感を秘めていた唇は、陸上げされた二枚貝みたいに頑な抵抗で色艶が剥奪してしまって、もはや清純ささえも見出せず、まるで反抗期の少女のごとくに無感情な顔つきへと変貌している。
敏感に晃一が反応した。「やっぱり疲れているんだよ、父さん。東京から初めて来て、いきなり吸血鬼と対面じゃあ、、、三好荘で一休みしてからにすればいいのだけど。どう砂理ちゃんそうする、それとも今回は見送りますか」ふて腐れた子供をあやす言い方で砂理に打診する。
孝博の危惧はまだはっきりとしたかたちを為していなかったが、やはり彼女を同伴させるのは無謀と云うより何ら意味合いがなかったし、徒に悪しき不安の種を瑞々しい感受性の根へとまくようなものだった。晃一にはそれが共感出来るのだろう、決して自分も一緒に辞退するとは言いだしてはしない。むしろ時間に忠実であることを本願とした意気込みにすべてを託している。そう、息子はこう話したではないか「自意識過剰気味ではあるけど、みんなそれぞれのこだわりのところにそれを発揮してるんじゃない、ぼくだって今は違う箇所に意識がなびいているから」
晃一は単に血を分けた子であるだけでなく、すでに共犯者とも呼ぶべき意志で繋がっている。それが後戻り出来ない忌まわしき事態だけに結ばれようとも。
「だいじょうぶよ、ただこんなに急とは思わなかっただけだから。ちょっと焦ってしまって、、、わたしも連れて行って下さい、お願いします。迷惑にはならないと思います、黙って見ているだけですから。遠藤さんの家からは許可をもらったって聞きましたし、、、」
表情は見事に反転された背景画のように曇り空の下へ佇んでしまったふうであったが、案外芯のある口調が孝博の胸を打った。許可と云う言葉もどこか奇態な響きがあってか、自分でも理由がつかみ取れないまま、何やらぐっとこみ上げてくる情に思わず目頭が熱くなり、そんな戸惑いを隠すため不本意な叱責を晃一にあたえてしまった。
「おまえ、何時に先方を訪ねるのかきちんと伝えてなかったのか」もちろん晃一はそんな伝令を受けていない。「ごめん、ごめん、うっかりしちゃってた」健気にも父が吐いた咄嗟の取り繕いに対応する。更に目頭が熱くなるのを孝博は禁じ得なかった。その顔を覚られるのを避けるためにも、早く車に乗り込む素振りを示した。後部座席には若いふたりが。エンジンをかけたときにバックミラーを反し砂理の顔色をうかがって見れば、幾分かは落ち着きを取り戻したふうにも思えた。そして一緒に映った隣の晃一の表情がまるでこま送りみたいに変化するのを見逃さなかった。
優しく砂理をなだめるまなざしは、彼女の横顔をすり抜けながらガラス越しにどこかをぼんやり見つめた刹那、それが次にはその隻眼が孝博のほうに、まるで狙撃手を思わせる真剣な鋭いひかりを放ったのだ。
「こいつは何かおれの知らないことをつかんでいる。もしくはおれのことを何もかも知りつくしている」
孝博の直感は反撃を命令する司令官のように冷酷であった。だが、冷めた愛情より百倍くらいは親密だった。車は走りだす。伝わったのはエンジンの振動ばかりではない。
晃一の意識も緊迫して来たのだろうか、ふと思い浮かべたと云う調子で、
「そういやあ、砂理ちゃんのお母さんって旧姓は何て言ったんだっけ」そう先程、孝博に問われたことを訊いてみた。
「山下有理って言います。それと母方の叔父も叔母もこのまち出身ですけど、今はそれぞれ離れてます」
「山下有理、、、」振り向くことなく、そうつぶやいた父の背にじっと片目を固定しまま、車はすでに目的地への道のり半分をすでに通過している。
「父さん、その名前どう知ってる」
「いや、知らないなあ」ため息つくより簡単にそれだけ答える。「年齢は、出身校は、、、、」実際のところそんな質問が口をついて出るのだろうが、磯野親子にとって深追いする必要などまるでなかった。大事な問題はすぐそこに迫りつつあったから、、、