まんだら第四篇〜虚空のスキャット25
秋風が静かに吹いてゆく夢の波間をさまよった。どんよりとした念いから逃げ去ることは無理であったが、寝入り際に遠のく旋律へとすべてを沈みこめる滑らかさのお陰で悪夢には苛まれず、意識は薄明のなかで半ば好個な書物を読んでいるようなぼんやりした感覚を残しつつ、まばたきの度に引き潮となって、すっかり目が覚める頃にはやや煤けている障子紙がありありと夜具の足先に眺められた。
「父さん起きてる」カーテン越しに朝陽は部屋に満ちていたけれど、晃一の声は遠慮勝ちに耳に伝わった。
「ああ、ちょうど今な、どうだ、よく眠れたかい」
「いやあ、何か次から次と夢の洪水でさあ、さっきから妙にリアルな光景で突然飛び起きたままぼんやりしてたんだ」
「そう、でも今は夢の話しはやめておこう、いつかあらためてな」
「まったくだね、ぼくも同じ意見だよ」
外はよく乾燥した空気がみなぎる晴天だった。朝食まえ、孝博は三好に東京から連れが来ることを言い忘れていた手落ちを自分のせいとして詫び宿泊を願った。それから九時をまわった時間に遠藤の家に電話をしてみた。別に昨日でもそれ以前でも連絡くらいはいつでもよかったはずなのに、どうしたわけか四十九日の翌朝とまるで儀式を司るよう使命を微動だにしなかった。
常識的な配慮からもさして昵懇でもない、いやたった一度だけしか面会していない人間が法事のさなかを訪ねるわけにはいかないし、かと云って悲報からは日にちを経てないので前もっての連絡も同様に遺族を不安に落としかねない。いずれにせよ遠藤の妻とは面識もないし訪問は不謹慎であろう。ならば、どうしてせめて半年なりの間をおいてから彼の家に赴こうと思慮しないのか、、、法事の翌日だって家の者からすれば心労が募り、不運の死の悲しみから決して癒されているはずなどないのに。
己の業がそこに土足で踏みこんでいる忌まわしさは分かっていた。四十九日にこだわるのも、ある不透明な思惑がまるで幽冥界から唱えられる風の音のようにこの胸に届けられるのであって、それは遠藤が聞かせた妙に筋道の通った昔話しに感化された、初対面とは云え夢見の裡にかいま見た不思議さをも現実に成立されてしまう論理に魅入ってしまったからなのだが、そんな判断をしめやかに戒めている彼の物言いにはやはり魔性が棲みついているのか、それとも自らの息吹が魔性を呼び寄せているのか、死者に口はなし、気炎はあの夏の日よりあがり始め自制心を失い、親子間に横たわる不義なるものを一層あばき立てようとさえなりうる逆転の道を滑り落ちているではないか。間接的ではあれ、ぎこちない合わせ鏡であれ、日々の連鎖に倦み疲れた脳みそは何を望んで新たな気だるささえ生み出す小細工を仕掛けたがると云うのだ。
しかし孝博は目を細めいとしいものを見遣る心持ちで、「遠藤さん、あなたの予言をはずすわけにはいきませんから」握りしめた砂を川底に返すときの流れに沿うようささやいてみた。この手に不確かだけれども少しばかりの力加減を求める謎を握らせたのは紛れもない遠藤その人であった。だから今度はこうして、自身の夢に忠実であるためにも夜の川底に不確かなるものを放たなくてはならない。例えそれが空気のように、水のように希薄で透明であろうとも、裡なる幻想の果てである夜の川へもう一度戻らなくては、、、そう、突然の死に戸惑い怖れた感情を糊塗するべく惚けてみせた、あの児戯をあれからもひたすらに念じていたのだから。
美代には必ず会える。葬式には参列しなかったそうだが、この法事には必ず顔をだす。なるほど遠藤の予言も彼自身にとっての幻想であったとしても、不純であれどうであれ、いや、それならば尚のこと妹である美代に残される情念として残滓は濾過されて、赫奕たる双眸が亡き兄を映しだす未来を言い当てたのだ。その場に美代は留まっているに違いない、そして遠藤が陽気な素振りで昼食をもてなしてくれたように、軽やかな儀式を首を長くして待っている。だが、機会は今日しかない、、、「どうです、遠藤さん、あなたがわたしに示したかった不可能性に案外たやすく達することが出来そうです。学術的と言われた方法論もこの日取りの計算だったとしたら、算術的と呼びかえた方がいいのでは」
孝博の空洞には独り言が限りなくこだましていた。それと鉛のようなおもりを忘れてはならない、興味本位なのだろが晃一の存在は、ちょうど真空に重力を発生させる役割を担っている。それが微力であるのか強力であるのか、ましてや中空に浮かぶ月のような引力を秘めているなら、すべては、夜空も青空も草木も山々も砂浜も河原も家並みも国道も林道も風も香りも波も鳥たちも、あらゆる動物たちも、想い出や作り話も、手穴も爪先も、人々も眼球も、そこに映しだされる。
受話器に手をかけた刹那ことさらにためらいはなかった。遠藤と名乗った女性に孝博は淡々とした、けれども地の底から伝わって行くような優しさで用件を述べるのだった。
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