まんだら第二篇〜月と少年6


想い出のなかに保存されていた比呂美のイメージは多少の華飾でくるまれていたのか、、、それは二十歳そこそこで結婚すると云う初々しさが前置きされていたせいもあるだろうし、また少年時代ちょうど中程の年頃の、釣り合い人形のように不均衡な安定で起立している目線でしか判じることが出来ない好奇心は、消極な恥じらいになって来たるべき発芽へと見送った結果だったのかもしれない。
いずれにせよ、三好と一緒に車で駅まで赴いた晃一の目に立ち顕われた彼女の印象は、どこか荒んだ雰囲気を消し去ることを忘れているようだった。
「ただいま、お迎えまでしてもらって、、、」
まぶしそうな目で笑顔をつくり三好の顔を見てから、わずかに小首をかしげ晃一のほうへ一瞥をくれ、そうあまり明瞭でない第一声が放たれた。
陽のひかりは有頂天なくらいに開放的なのだが、合唱に近づいてきた蝉の声に抑制されたような遠慮勝ちの響きであった。と云うのも、三好と並んで民宿の客を迎え入れる際に、いまでは無意識的になった相手の手荷物への配慮が同じく比呂美に対しても発揮された様子が、その地面へと印された動作の影の濃さのように、鮮やかに映ったのだろうか、
「晃一くん、おうちで住みこんでくれてるんだってね、しばらく見ないあいだに大きくなっちゃって」
と言いながら、いっそう目を細めながら見せた八重歯がこころなしか一瞬かがやいたふうで、しかもその反照によって結びつけられたのは、かつて東京の自宅での挨拶の光景であり、過去から現在に至る夢想さえされなかったこの場での対面が、反対に未来像のなかへと投射されていたのではと云った、放埒な思いになりよぎったからだった。
比呂美の肌はあのときと変らず、夏日を忘れさせるほどに白かった。だが湿疹なのかにきびあとなのか分からない赤みがかったふきでものが目立つ面に、晃一はやるせない憧憬みたいなものを覚えたのである。

放物線の高まりが強く激しければ、その軌道は遠く描かれることになる。
比呂美の帰省は予てより晃一の胸の裡へと放たれた衛星であった。彼の進路が、都会脱出が、比呂美との邂逅に則したわけではない、要は重力から逃れることを意識しなかったまでのこと、月がこの地球から離れ去ろうとしないように。
天空の果てまでの遠望はさて置き、ひと夏のストーリーにふさわしく、ここからめくられる顛末はのびあがる入道雲のように一気呵成に蒼穹を覆うことになる、純白の汚れをもって、、、

曇りなき鏡がひび割れたのと、比呂美が実際に帰って来たのは、時間的にみればほぼ同時進行であった。
晃一は東京にとり残してきた自分の童貞に煩悶していた。両親やまわりの説得や忠告にも決然とした意志をつらぬき通した体裁を整えるには、垂れ流しこぼしてしまうように初体験を済ましてからなどど云う、甘い理屈づけは装着されるべきではなかった。
自ら非社会的な可逆性を模索しなければいけないのだ、そこに親族の助力があるにせよ、少年が少年であるためには、もっとも生臭い衝動である性をコントロールしなければならない。男になる必要など、ことばのうえの綾で上等、そして何より男になることは社会へと溶けこんでいく摩擦を意味している。
永遠の少年はこうして、すべての時間を最小限の意味のなかに閉じこめた。父の書斎から抜き読みしたエーリッヒ・フロムの著作に感銘し、自らを実験台にして性欲が社会的実現への発芽となる威力の是非を試みようとした。
だからこそ人口と緊張が飽和に達していない緩やかな密度が要求され、ちいさなこのまちは彼の恰好の檜舞台となったのである。
過密人口と煩瑣な日々のうちでは集中は不可能だろう、、、明確な論理と実践術がまずあるのではなく、深山に身を隠し世俗とは縁を絶つことによって大悟を得る修験僧のごとく、ひたすら三昧の境地に入ってみたかったのだった。
父とはまったく異なる手法をもって、、、宗教学者なる名称が彼にとっては、そもそもまがいもののように察せられ、それは釣り学者とかカラオケ学者とかに違和感を覚えるのと一緒で、確かに膨大な古今東西の思想書は実り豊かに書架と脳裏を飾るだろうが、いつか父がこぼしていたように、万巻の書をひも解くだけで生涯を終えてしまう憂いはぬぐいきれない。
実験は失敗を許すのだろうか、、、晃一のなかには明日と云う字は存在しかった。ただ、都合よく聞こえてくる青春と云う、青白い月のひかりにも似た寂寞のあかるさに、優しく包みこまれているのだった。