まんだら第二篇〜月と少年42


孝博のからだにぬくもりが伝わってきた。
「まだ、出たらいけないのよ。あと、十数えるの」
母の声には陽炎みたいなあやうさがあった。あの頃はまだ薪のにおいが通りを漂いながら、夕闇にひろがっていった。
「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、ここのつ、、、」
見覚えぼえのある、いや、その素肌にも想い出のある河口が列車の窓から見えてきたとき、孝博は川遊びで冷えたからだの感覚がめぐってくるのであったが、車両の移動が思いを乗せて走りさる調子で、夏休み、川水で体温を奪われた郷愁は、反対にふたたび晩秋のなかのぬくもりとなって彼のところへと届けられた。
押し黙ってしまったのは、いまこの耳に聞こえてくる、頼りなげに数を読みあげる声色とは別の、もっと性急なときへの密着があったからだと思えてしまう、、、昼夜はこどもに木綿のような肌触りで庭先から路地へ抜けいつもの広場へと時間を分配していた。垣根は家屋や土地をはばむものではなく、やわやかに行く手を垂れ幕となって目くらませしているだけ、それからさきは汚れることを畏怖する神妙なこころをつくりだしている。どんなに衣服が汚そうとも洗いながせない、未知なる魔手があたりにひそんでいることを感じていたから。
あの夜の母の言葉もそんな魔の先行きから訪れた余韻だったのだろうか。浴槽の深みを思い返そうとすればするほどに自分の背丈も曖昧となってしまい、年代的に想定出来る感覚もあくまで数値の域から脱することなく、それ以上の体感を甦らせてはくれない。しかし、母のもつ背丈で湯船にひたっている光景、膝をおりまげ向かいあっている具合から、何故かしらその深みを思いはかれるのであった。それは大人になった身体から直結して投影されるだけでなく、もっと、形になりそうでよく見定めの出来ない、沈めるもののような、不確実でありながら、知らざるを得ない恐怖に近い宿命でもある。
無言でうつむく瞬間に目にした、母のきびしいくちもとと、やり場のない情感が湯気にのぼせあがった不思議な哀願として、こうしていまめぐってくるのを孝博は、ぬくもりが沸点に達したことでふたたび夢想してしまう。
するとあの黒い蝶のイメージもあのとき母の裸体から生み出された奇妙な妖精なのだろうか、まだ性的な観念など育んではいない証拠に真昼の校舎を羽ばたく様相からも、それは自由な、無邪気な、資質で保護されている。だが、白昼夢が編み出す奔放さの裡に閉ざされた幽門のごとく、不確かな年代記など軽く飲みこんでしまう陰のちからをやはり見通すことなど不可能なのだ。
孝博は車窓を流れていった河口付近から鉄橋にさしかかったあたりで、
「なんだ、まだおれは夢のなかにいるんだ。ほんのわずかだった、そんな、点みたいな時間のなかでおれは白日夢を分析しようなどとしている、夢をみている」
もうろうとしかける意識は懸命に、奮闘している己を知ろうとするのだが、薄目が開かれた車内はまだトンネルを通過中であることも、現実なのかどうか量り知ることが出来ない。
富江が天女のごとく、あらわれてからどうしてしまったのか、そんな堂々めぐりも錯綜とした、しかし、おそらくもっとも美しい傾斜に沿ってからだごとすべりだすよう、孝博の夢想は意志を孕んだとも云える。
気がつくとあの氷の国の一室と思われた部屋のベッドに横たわっていた。しかもほとんど魂をもっていかれた晃一と入れ替わりとなっている。とすれば息子を助け出すことは無理だったか。
「何ということだ、いくら夢にしろ、肝心の問題から脱線して見失ってしまうとは、、、」
ところが杞憂を吹き飛ばしてしまう鮮やかな展開によって、孝博は更に捕縛された。
「そんなことないよ、父さん。よくそこまで目覚めを我慢してくれたんだ。もうあと少しさ、その証拠に」
そこまで言いかけた晃一の明朗な声を聞くと安心したのか、それとも不意をつかれての反応にすぎないのか、いかにも挑戦的な口調となって安否を尋ねることも忘れてしまい、
「証拠に、、、晃一、どういう意味だ、それは、おまえにはわかるというのか」
息子は焦る気持ちを察したのか、的確に素早くこう答えた。
「そうだよ、その手にした木の枝が証拠さ。富江さんは先に行ってるからその枝を持って川に飛び降りてみてって。まえに話しただろ父さんにも。彼女は夜の川に落ちて生死のさかいをさまよったんだ。そこまで行けば何かわかるはずかも。さあ、時間がないよ、ここはほんとうに時間が長くて短かすぎる」
孝博の胸中に何とも形容しがたい渦巻きが発生した。それは憤怒でも驚愕でもない、どちらかと云えば脱力とともにやってくる、呆れはてた安堵であるのだったが、その底辺には初めて結婚話をもちだされたときのような、あの複雑な困惑が、小さな芽生えとしてすでに誕生していた。
「これはまったく、どうしようもない現実さ」