まんだら第二篇〜月と少年41


孝博の目は渇ききってしまっていた。絶対の信憑などはなから存在しないことを承知であったし、あくまで夢語りとしての帰依とも云える王国は、絢爛たる色彩、つまりは忌諱されるべく反作用の極彩色で描きかれてこそ、そこに忠誠心が胚胎する仕組みであった。
自分と云う入れものに納まりつかず、こぼれだしてゆく悲涙と同じ感覚でありながら、その目からうるおいが失われてしまったのは他でもない、ひからびた杯の底を、すでに見つめていたからである。
もし純潔な作用が働いたとするなら、杯のしたに彩られた赫奕たる錦絵は、血糊でもって描かれているはず、せめてもの願いはそんな清流と流砂で混濁となったあかつきにきっと見いだされる、わずかの砂金のようなものであった。
息子の健全すぎる快癒は夢のなかでは悪行であった。それは凍りつく好奇で幽霊屋敷を訪れてみても何の異変も生じない現実性によるもの、または格闘技を観戦しても、一向に白熱せず引き分けの試合に終始して感興を肩すかしさせる悪質な縁どりのなかへ丁寧にはめ込まれている。
人恋しさから芽生えた素描は、最終的には肉欲にまみれ、愛憎に切り裂かれ、悪夢に溶けだすことで鮮やかな色に染まり、そうして描かれる風景をわれわれはこころのどこかで何か少なからず期待しているではないか。真なる美は夜の帳にいつもひそんでいるもの、そして漆黒の背景色がすべての現実性を被うことで、血は奔放にからだのなかをかけめぐり、勢いあまって飛び散る血しぶきは夢の地平まで届けられるさだめとなる。むろん血潮自体には罪はない、もしそれに罪科をあてはめるのであれば、夢の世界など存在しないほうがよほど救われる、、、が、そうなのか、それでいいのか、、、
巧妙に理性が顔をのぞかせたとき、孝博はすでに覚醒している自分に揺り起こされているような感触でかぶりを振った。頭皮に触れた霧は朝もやだった。もう一度まぶたを閉じようと念じる。

ここでは晃一を殺すことも出来る。がしかし、渇ききったまなざしには、もはや流血の赤色は似合わなかった。そのときである。終着駅に近づいた哀しみをくるんだ明るいひかりが差し込み「教授さん、これはどうですか」別段甘くもなく、媚びたふうでもない富江の言葉つきが目覚めを沈めた。夕陽にようにあたりを黄金色に包み込んだ。あまりの光輝にすべてがかき消えてしまいそうだった。
彼女がとった姿態は夕焼け空を瞬時にして暗転させる昏睡への導きであり、奇跡と呼ばなくてはならない天女の降臨に違いない、暗幕とともに降り立った無垢なる夢の精であった。
富江は看護士が身につける白衣を着て、孝博のまえに毅然とした面で対峙した。それからおもむろにスカートをたくしあげて、真っ白なパンティを惜しげもなくあらわにし、そのまま腰のうえまでまくられた。
孝博の視野は急激にせばまり、遠い洞窟のさきへ目を細めてしまう希望と怖れに支配され、富江の表情をうかがい知る余裕もなくしてしまった。喜びも怒りも悲しみも、笑い泣きも、悔し涙も、それから遺恨や羨望も、猜疑で呼び起こされる種々の感情、居直りの砦として自己嫌悪がもたらす悪心さえもが、彼のこころから蒸発してしまって、そこに顔色を識別する必要がなくなったのである。
ただ、生命の起源を封印したことに沈黙でこたえようする、堅牢な氷柱がいっさいの不純物を排してこの空間を形作っている静けさに厳かな気配を、死への門口に横たわる晃一の真新しい敷物のような姿態が知らしめる鼓動を、感じとってしまうだけであり、何よりも富江の白衣があらわににて見せる隠されざる箇所に晃一とは異なった赤い染みを発見し、そのともしびのような明るみに頬をゆるめるのであった。
氷の大地は少しづつ溶けだそうとしている。そう、ゆっくりと時間を刻み、空間を ? 夢を霧散させようとしている。まるでここは純白にひろがる広野であり、白煙によってそのすがたを失ってしまう、魔法の国のように。
富江の股間に色づく小さな花弁は、太陽よりもまぶしく、あたたかく思えた。長いトンネルを抜けて浴びる光線とどこかよく似ていた。