まんだら第二篇〜月と少年25 過ぎゆく四季への目配せ、、、晃一がこのまちで体感し想像した一種の儀礼。 それから彼が東京から持ちこんだ、徹底した自慰の精神。これはある意味ではおごそかに存続され、ある意味では両親の提案を受け入れたこと同様、形式的には妥協のうちになかば解体されてしまった。 だが、よく振り返って考えてみれば最初比呂美がもたらした禁断の香り立ちに煩悶してみせた自分のすがたには、鋭利な刃物に近い禁欲精神が屹立しており、徹底した自慰へともう一度、降りてゆくための受難劇を成立させる気概がまだまだ見受けられるではないか。 やがて太陽の高まりは、そんな孤影を大地にしらしめ叱咤激励するとでも云うように、はやくもこれが寸劇であることを証明してみせるかの如く、自分をとりまく役者たちも、強烈な陽射しを浴びながら、速度を増す季節のうつろいに応答し、すばやくまわる舞台のうえで、肌理こまやかな律儀な演技を披露させる。 森田に誘われた一夜、、、後々で判明したことだが、やはりあの勧誘は婚前の青井好子への気遣いもあったのだろうけれど、何よりも麻菜の傷心を、、、それは森田や花野らの男性陣が、女性特有の愁いにほだされ意識の深みと云うよりも感性の共鳴で、ついつい遊びごころの振幅を拡張してしまったまでのことに帰着される。 それが悪戯と呼ばれるのか、好意と呼ばれるのかは、それぞれの思惑のなかでただただ意味づけられる。 森田自身もまだ離婚の痛手を完全に振り払っているとは言えなかったし、あの晩、麻菜からそっと耳打ちされるように知らされた、三好荘との関わり、、、幼なじみとして比呂美とは懇意であったこと、、、それから、ことさらに声を低めして、 「森田さんの童貞ってひょっとして、ひょっとしてよ。わたしにはわかるなあ、おんなの勘よ、いまでも想ってるんじゃないかって。でも、揃ってバツイチじゃ、世間態もあるんだろうし、あっ、わたしはそんなのあまり気にしないけど、三好のお父さん頑固もんだしね。森田さんもものすごく繊細なとこあるでしょ」 そう聞かされた片方の耳朶には、おとなの世界だけで共鳴すべき哀愁の音色が流れていった。 このまちの人間模様など及びもつかない晃一ではあったが、思えば、森田が比呂美に今も懸想していたとしても、それが互いに離縁の身上であると云う境遇でより深く、より揺るぎないものとして、地下で目覚めていることは決して夢物語ではないはず、、、 借りに世間と云う障壁にはばまれていたとしても、おとなの男女が織りなす気高さと危うさの交わりには、見てなならない爬虫類の腹のような不気味な色彩がほどこされるゆえに、背伸びするわけでもない、そこにはあの何とも淫らな空気が沈滞し続け、なおかつただちに視線が釘付けになってしまったようしばらく身動きがとれなくなる。それが官能と云う、機能とあきらめをつけるまでは。 実際に森田の口から、まるでおとぎ話の如く壮麗な、悲劇の如くやるせない、胸襟を開ききった哀切に満ちた説話を聞かされることになるが、その顛末はいずれ章が代わって、舞台模様が変転したのちに物語れるであろう。 ここでは晃一の童貞を見抜いた森田があたかもかなわぬ己の愛欲を、晃一のすがたに仮縫いするように、意趣ばらしを講じてみたと云うことと、そんな企図を察知するまでもなく、戯れのこころでもいくらか癒されることを、恐ろしく無邪気に振る舞った麻菜の天真爛漫を述べておくだけにする。 無論、このふたりは計画的にことを運びだそうなどとはしておらず、何ら相互に指示もなく、あくまで晃一をとりまく役者として、そうした役回りを演じたまでであり、その一挙一動は本人たちが観想する枠を越えたところで立ちまわれ、陽がのぼり夜のとばりが降りる自然でもって、もはや超越的な書割りの裡でのおごそかな演目になったのである。 更には彼らの演技もすべて晃一の脚本であったとすれば尚のこと、、、自慰の精神はそんな驟雨のような寸劇に想いを馳せた。 四季への一瞥、、、富江との出会い、進行形の跳躍。演出家のいない自然の感情表現。さようなら夏の日よ。 晃一は以前の彼ではなかった。 |
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