まんだら第二篇〜月と少年24 吐息ととも熱気に冒されたあきらめを含んだとまどいが、遠い胸のなかで結晶のように成りかけるのをなかば知りつつ、また情念がことばとして紡ぎだされようとする今、秋風に吹きなだめられるやや渇きかけた晃一のくちびるに対し、富江は混濁した汚水があふれる様を想起してみた。 それは、人気の途絶えた山道に思わぬ人影を見いだしたときの木々のざわめきを序章とし、相手のほうから予期しない笑みが木漏れ日とともに投げられた際の、あの動揺があらかじめ裡にひそめていることを自覚し得ぬ、未分化な、だが気が薄らいでいくような曖昧さに包み込まれている感覚を甦らさせる。 「あのう、このさきはまだまだ山の上に続くんでしょうか」 ためらい気味と云うよりもそこには問いかけ自らが、まるでこれからはじまる冒険を冷ややかに楽しんでいる野心が勝っているふうに富江には聞こえ、 「はじめてですか、この道は山腹をぐるりをひとまわりするのです」 と、勢いよく通った口調はあきらかに彼の存在 ? たった今、発見したその姿態にものおじしない、それは晃一が醸し出した雰囲気によるものであったが ? それ自体がなにものかに先んじる感情を前面に押し出し、自身の気持ちを快活とした声色にさせた。 それからふたりが交したやりとりは、澄みきった天空から降りおちてくるような小鳥たちのさえずりに囲まれながら、ときおり頬をかすめてゆくひんやりとした山の冷気に火照った気分を解放させていくのだった。 伏せた目もとをほんの少しだけ開いてみると、自分と同じ高まりのなかに心情を捧げた晃一の閉じたまぶたが、すぐそこと云うより遠い遠い記憶から霧状になって現われているように思える。 あのとき、どんなふうに会話が弾んでゆき、気がつけば双方の名と年齢を告げ合い、しかし、それまでの時間としてもさして長くはないはずの、そう好意が互いに浸透している実感の渦中にあって、不意に訪れたその姓が持つ反響は、まるで余韻のほうが前にたなびいていると云う錯覚で後から脳裏に深いよどみをもたらした。 濃霧にさえぎられながらも、予想を裏切らない形状をそこに認めるであろう、あの願望の正当性のように。 富江のこころに目には映らない波紋がひろがっていたのだが、それは自覚しようとする意識がまだかろうじて、対岸の火事の如く物見ですまされればと云った、直感的な否定の作用が働いて、と云うのもこれ以上関わるより、ただ道ばたですれ違ったひとみたいにさり気なくその場を離れれば、たとえ耳に飛び込んだ異物であろうとも、別段これよりは実質的な責務を負うわけでもなく、悪印象だとすればそれが追々とわだかまることにもなろうが、一切を否定する保身のための逃走だって最善の手段ともなる。 「しかし、、、それでは、わたしのほうが悪者みたい、、、過去を捨て去ること、、、もっとも善い方法はそんなふうに日陰にくぐもることじゃなく、この日陰から飛び出してゆくことじゃないかしら、、、」 意志はいつもなにかに突き上げられる。 富江のよどみは確かに汚濁のなかにあり、それゆえ波紋の伝播もよく感じとることが出来なかったのだが、いったん意志のちからを宿したからには、そのさきの紋様は蜘蛛の巣のように、颯爽と夜気に白く張りめぐされ、執拗な邪気を眠らせながらも、毒素はとりあえず中和され、何よりも粘液をもってこれから編み込まれる賭けにも似た遊戯に甘い殺意を封じこませるのだ。 「あなたの閉じた目をわたしは、こうして薄目でぼんやりと見つめている、、、あなたの知らないことをわたしはよく知っている、、、それは、いつかあなたにさらされる宿命だとしたら、わたしの手のなかには、一個の鍵が握られている」 晃一は、自分のくちびるの渇きが富江のなかから湧出するもので充たされるのを願った。 その小ぶりなこれまで味わったことのない濡れた果実を思わせるぬめりの感触はこうして重ねあわせれることによって溶けだし、いつしか晃一自身の一部と変容していくのである。 彼はことの最中に、その筆舌にしがたいまでの味覚を何度も言葉に現そうとしては断念し、その代わりに本当に噛みついてしまいたくなる衝動を優雅に味わいつくそうと、反対に軽い、さながらあめ玉をしゃぶるときの愛おしさで口中に含んでしまった。 晃一は忘れてはいない、、、この相手の口を封じてでもいるかの加虐的な興奮の陰に、麻菜との初体験が夜霧の神話の如くひそんでいるのを、、、 そして、その悔恨と失意がねじれを生じ、夢うつつの肉感でありながら、のちにこの掌に収まった残された鍵の冷たさが被虐性を養い続けていることを。 |
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