まんだら 第一篇〜記憶の町へ25 孝博から発している独特の雰囲気が富恵をまず朝もやのように包みこんだのは、彼自身の接しかたによるところも貢献したのであるが、富江からしてみると現実の大人たちに否応なしに結びつけていることと云えば、絶えず日常のくり返しと些事によってでしかなく、大学教授が持つ研究室や書斎での浮世離れした所作に一般社会から隔絶した秘密めいたものを、走りゆく線路の余情としてからめとったからであった。 しかも若輩の身であることが瞭然にも関わらず孝博の口調はいたって礼義正しく、かつてこれほどまで紳士的なあつかいを受けたことのなかった富江にとっては、多少なりとも胸のたかまりが増してくるのを認めないわけにはいかなかった。 これまできた辺りがずっと不透明だったとしても、この教授は現実から遊離した透明人間であることで反対に鮮明に浮かびあがってくる、ちょうど逆説を目のまえにした奇妙な展開に溺れながらも酔いしれてしまうように。 「そうですか、木下さんは、あっ、木下さんと呼んでいいでしょうか、ジッドが描いた敬虔な物語を額面通りに受けとらないほうがよいと考えたわけですね。僕もそう思います。ジッドは近代の作家です、少なくとも天上の世界を信じきっていたとは言いがたい、これは信仰と思想の両面においてのことですが、かといって地上的なる愛、この小説では婚姻に収斂される制度を前提とした愛欲と解釈してもかまわないと思うんですけど、アリサはその平凡な結婚生活をはなから悲観しているんです。木下さんの言う厭世感ですね、ところが現世を超えた境地にあこがれはするものの、最終的にははかなくいのちが尽きてしまいます」 「あこがれと信仰は別問題ってことなのでしょうか」 「いえ、天上とやらも最初から信じていないんですよ、だからあんなつかみどころのない日記がしかもとぎれながら綴られる」 「そうかも知れません、肝心な箇所は破り捨てられたとかいってはぐらかそうとしているのも、そんな不信心を証明しているのじゃありませんか」 孝博はそれから、「狭き門」を逆説的に読みくだくことのつまらなさを言及しながら、「だまされたと知りつつ最後の夢物語として含んでしまえば、それはそれで豊かさがひろがるものです」といったん話しを停止し、アリサの件はまた違った角度で語られるでことだろうと、意味ありげに口角をあげるのだった。 この路線特有なのか、それとも他の単線鉄道を知らないだけだろうか、間断なくしかも性急なリズムをもって刻まれる車輪と線路の響きがとても心地よい、孝博の言葉も同じように富江の裡へと振動していった。 列車がトンネルをくぐる頻度が高まるにつれ、もやがかった透明度は気圧の変化にも影響を受けたのか、やがてすっきりと視界がひらけてくると、あたまのなかの不純物質が消えてなくなり、代わりに沸々と泉がわき出るように富江は臆することなく、まるで友達にでも気楽に話しかける調子であれこれ孝博に語ってみた。それは天然水が流れゆく清冽さを彷彿とさせた。 次第に語尾へ遠慮がちにまとわりついていた物おじした言葉使いもまるみを帯びてくると、富江は本来の快活さを取り戻した様子で孝博のことを「教授さん」と呼んでみるのだったが、「さんは余計ですよ、教授でいい」とたしなめられても「だってそのほうが堅苦しくなくて言いやすいから」とやわらかな我をはるのだった。 孝博にしてみても、日常が切り離されながらも現実に即した仮面を被ったようなこんな女性に出会ったことはある意味奇跡のようであり更にうがてば、あたかも受け持つ女性徒をひとり誘っての交遊にも想像できた。しかし行き先が同じ町であることを知ったことで、彼の自由の翼はひとまわり縮小されたのである、と云うのもこれから訪ねる親戚にあたる家に報告しなくてはならない難事を考えると、富江でさえまったく関わりがないにしても同郷である、ただそれだけの観念が釜のそこにこびりついためしつぶのように頑固に付着して孝博を悩ませたのであった。 |
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