まんだら 第一篇〜記憶の町へ17 宙に浮かびあがった感覚は抑圧される行動をなだめすかしているかの、こころもとない足どりとなって一歩一歩づつ踏み出していったのだが、ガタンと音をたてて真横に倒れこんでしまったとでもしか言い現せない空間をなぞりながら身を運ばせるわざは思ったより容易ではなく、体感的には重力に抵抗するときの奮起が要求された。 しかし筋力として負荷を直に受けているわけでもない、例えれば体操選手が十字懸垂の姿態をまざまざと見せつけるときに、自ずとこちらも手に力が入って気持ちそのものが大きくりきんでしまう、そんな緊迫した情況であった。 床に足がついているのやらさえ危うい自覚のなさは、反動として焦燥をかりたて増々あたまのなかを空まわりさせる。そして、ちょうど加速度のついた勢いが最後の全力疾走へと燃焼されていくように、脳内の不均衡はいびつな空間処理を消化し終えたと云った具合で(それは手放せば奈落の底へと吸い込まれてゆく際どさから解放される賭けを思わせる)無心のまま気がつくと、すでに障害を乗り越えてしまっているのだった。 あとはふすまに手をかけ、大きく傾いた額縁をもとにただす案配でこの部屋を出ればよかったのだが、ふすまが開かれるやいなや、その先にあるはずの廊下の向こう側から、まるで闇が手前まで土砂くずれで押し寄せてきたように、目の前には暗幕がはられているのを一瞬見てとったと同時、次に意識したときにはあろうことか、時間が瞬時に巻き戻されたのか、再度布団の上で寝ている自分に帰っているのであった。 おそるおそる双眸を開けると、やはりそこには歪曲した室内が待ち受けていて、そうなればひとりでにさっきと寸分違わない行動をとりはじめ、少々変化が現れているのは、焦る気持ちだけが心持ち増加したかも知れないと、あたかも他人の不幸を脇で見届けている、高熱に浮かされた離人症患者を彷彿とさせる薄気味悪さがたなびいているのだった。 傍観者と歩む調子で、傾いた部屋を進みふすまの向うに暗黒を確認し、またもやもとの寝床に引き戻される、これが二桁を数えるまで反復されるのだった。それは死人が棺桶の底よりこの世に立ち返ろうとしては、望みがかなわぬままに自縛を潔しとする、光明を求めるあまり本来を忘れ去る、無辺世界に酷似していた。 がやがて、亡骸をそこに認めたのか、あるいは無限地獄にもいつかは終わりが訪れるのか、すべてが灰になって虚空がすすけた色調にわずかのあいだ変移したとき、そして曇り空が陰りを作り出すためにようやく日輪が顔をのぞかせたとき、一条の光線がちょうど鋭利な刃物になって自らを縛りつける縄を断ち切ったのだろう、富江は長い長い年月を経て故郷に帰ってきた囚人のごとく疲弊したまなざしを何度もこすり、さながら幾重にも連なる鉄条網をかいくぐってきた面持ちで部屋の外へと飛び出ると、廊下を踏みしめ平行感覚を確認してからおもむろに階段を降りてゆき玄関先へと向かった。 自分では深呼吸の仕草をしてみたつもりだったが、はやる気持ちは勢い屋外へと慌てふためいた足どりで突き抜けてしまい、悲願達成の折にひとが表す、培われ蓄えられた感銘の享受はあとまわしにされた、そしてついぞめぐってくることはなかった。 外は雨だった、いや、精確には雨模様だったと云ったほうがいいだろう、なぜなら夏空が気まぐれに暗雲を呼びよせ驟雨をもたらす景観を模倣したとしか言い様のない、このひとをたぶらかす光景、果たして何物なのか、、、 雨脚に映っているのは、実際には無数の笹の葉が空から舞い降りているのであり、辺りすべては竹やぶに囲まれ見知った隣近所の家屋は、蒸発してしまったように影も形もどこにも存在していなかった。 なすすべもなく呆然と立ちつくしたままの富江は、ややあって上空を見上げると、そこには相当な数のからすの群れが渦を巻くようにして飛びまわっているのがよくわかり、旋回するその形態はいかにもめまいを供応してくれているようで、いくらなんでもそんなと云う怒りに似た悲しみの震えに目を閉じると、改めて歪んだ部屋の寝床に仰臥する自分を発見するのであった。 |
|||||||
|
|||||||