まんだら 第一篇〜記憶の町へ11 いつの頃のものかはわからないが、十分に時を経た木桶は、この畳部屋に備えられると見事なまで風趣に富み、恰好のワインクーラー代役を、いや、もはやそれにとってかわる役柄としての調和をみせていた。 あべこべに孝博が持参したフランス産のワインのほうが、浮いてしまっていたのだが、夕刻からはじめた晩酌はすでに全身へ酔い心地を染みこませてゆき、もうかれこれ何十年ぶりだろうと懐かしさで、このひなびた家屋への記憶を新たに構成し直すと云ったロマネスクは、一通り経過してしまったとでもいうふうに、あとに残された情趣は結局、自己沈滞へと降りていくめぐりあわせになってしまうのだった。 そうなると、しみじみとしたこころ模様は、いつの間にやらジグザクな斜線やら大小まばらの染め柄でほどこされ、それが酔眼に反映する、視野のせばまりかと云えばそうであったし、つい今しがた鳴りだした風鈴の音のように意味あり気に、合図を送る夜風の仕業か、不要な想念や現象を払拭するために吹き抜けてゆくだったが、突風が砂ぼこりどころかときには肝心なものまで飛ばしてしまうように、酩酊にいたる行程はこころのなかにある沈殿物を浮上させ、またもや脳裏のど真ん中まで持ちあげてくるのだった。 しかし孝博は沈酔に身もこころも任せていられるのは、今夜が特別な環境にいるからであることを忘れはしなかった。 ただ、目と鼻のさきほどの港の喧噪から霧隠れし、独り特別観覧席から物見へとこころ踊らす、この情況に感謝しなければならない、すると、どうしても親戚に対する親和と信頼が(いくら彼らが気さくであったとしても)孝博にとっては、薄皮一枚まで肉薄してくる過剰ななれ合いとして、そこには差し迫った意味など存在してないにも関わらず、それ自体の関係に対し敏感に反応してしまうである。 親族そろってエレベーターのなかでひしめきながら向き合う場面に、どこかむずかゆさを覚えて早く扉が開いてくれないかと願う、血縁ゆえの濃さからの得体の知れない逃避のような、それがわが国の家父長制が担ってきた圧迫でもあり、そこからの逸脱を希求する近代自我の名残として、核家族に分散した現代にまだ連綿と続く決して断ち切れないものとして、日常のなかにとけ込んでいることを、なぜか不気味にとらえてしまうのが不可解なのであった。 孝博はそんな自分を嫌った。つまるところは自分のひとり相撲に似た神経作用かとも考えてみたが、正式な講師として教壇には立ってないものの、宗教学の立場から察するにかつて研究を重ねた、古代宗教の原初形態をつぶさに考察したデュルケムによるトーテミズムの聖と俗の集団表象や、フレーザーの「金枝篇」で展開される王殺しの説話、モースや更にエロスと死に鮮烈な光芒を見いだしたバタイユの供犠論、わけても近親相姦を見据えたフロイドの功績をすでに古典としてではなく、新たな性欲論として読み直しを通してはじめて自意識、この近代がつくりだした脳細胞の解明へと、形而上学とくにデカルト以降の西洋思想らと比較省察のうえで、仏教哲学からの派生としての新興宗教を専門としてきた。 彼が中国語に堪能になったのは、若い頃から熱心に仏教を勉強し続けたこともあって、しかし実のところ宗教学のあまりの広大な領域に果たして寿命つきるまで到達地点が見いだされそうにもないと云う、諦観を抱いてしまったのも正直なところであり、もうひとつはかねてより有数の現代宗教に思わぬ魅惑を持ってしまい、本来ならば冷徹な視点で文献なり寺社なりに対峙しなければならないところ、祈りと云う、古来より人類の歴史の精神、いや、魂の土台である根本原理を学術的に極めるのは、ある意味片手おちではないかと、それには自らがたとえ偶像であろうが、政治的援用にまみれた体系をもつ一派だろうが、とりあえずは無垢なる気持ちで一度は接してみるのが大事なこと、世界中の広範な絶対神の歴史的異相を追い続けるよるよりも、ひとつでもいいから安息の地みたいなものを欲したのであった。 そしてその祈りを通して、深く、深く、知性を超えた時空へと誘われていくもの潔しと、大きく首肯したのである。 |
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