断章9 どこか取り澄ました内心がかすかに動揺したY子の一瞥が見て取れて、ほくそ笑んだ性也の微妙な期待感はすかさずそのテープに凝視が寄せられるのを、実際よりも過剰に了解した。 「へえ、何の曲かしら?性也くん、前に音楽はあまり聴かないほうだって言ってなかったけ」 「確かに、懐かしのアニメソングやテレビドラマの主題歌は好きだけど、最近どんなのが流行っているのか全然興味ない」 性也は最後の否定形の箇所をことさら強調する語感でもってそう答え、手にしたカセットをカーステに差し入れようとした。車の速度は彼の指令通りに減速された。テープのリードの部分が巻き始める数秒の間、性也はY子に向かってこれから鳴りだす音像のいわれと、そもそもの入手に至る経緯を心のなかで瞬時に凝縮し語って聞かせる開放感をその無音のうちに得た、それはその後にY子が抱く疑問符というよりも自身の体感する流れにおいて開陳される説明へのリハーサルにも思えた。 版画らしき装丁の紙ケースによく目を凝らせば、歌舞伎役者が配された右横に長唄名曲選と記されている。緩やかなスピードに反比例するかの如く、Y子の手先は思いもよらぬ早さでそれを左手で取り上げるようにつかみとり、不意をつかれた時に現す、いぶかし気な口元と不敵な目つきを同時に顔面につくりだした。 「何よこれ、、、」内心の声が現実の肉声となるその時、すでに長唄名曲選とやらの音が車内にこぼれだす。 冒頭、どこかで聞き覚えのある、そう能楽特有の鼓笛がおもむろに繰り出されたかと思いきや、続き早に一聴して三味線の音色とわかる演奏がリズミカルに独自の間を配しながら淡々と進行してゆき抑揚が極まったあたりで、次第につま弾く三味線の奏法と横笛らしき二重奏がこぼれ落ちる雫にも似た静謐を醸し出し始めた。 「この曲もわるくはないけど、もっともよいのは勧進帳だというんだ」 Y子は紙ケースの裏面の書かれた曲目を見やる。越後獅子というのが最初の曲で第二面の初めに確かに勧進帳と印字されている。 「巻き戻しておけばよかった、早送りするよ。どうしてもこれがいいと薦められたんだ」 そう独り言に近い口調で性也はこれから自らが演奏者になったとでもいう勢いで、まるで十八番を奏でる喜悦のような苦笑いを口辺に浮かべながら、耳元は開演を心待ちにする聴衆の高揚に支配され、すでに来るべき新境地の到来に先走っている。 再び音像は立ち上がる。今度は拍子木とかけ声に導かれ霊妙な笛の音と木魚にも似た鼓動からかけ声も溌剌と細やかなバチさばきが鮮やかに展開され、先ほどの越後獅子よりも確かにダイナミズムを持ち性急な疾走感さえ漂わす。 性也はすでに横目ではく首先、否、半身を窓枠に乗り出す態でビルとビルが、ゆっくりと交差して行く様を食い入るように、しかし底の方では程よく冷めた茶をすする時の安楽さを横たえながら、その巨大な建築物が生き物みたいに浮遊しお互いの身を名残惜しみながら交換しているかの光景に見えてきて、隣で怪訝な表情に固まりつつあるY子の存在さえ一時、忘却してしまったのだった。 陽光の照りには幾分が時間があると思われるが空はすでに明るみに染まりはじめ、林立する途方もない縦長の物体には空間ともコントラストが見目にも明確に示されて来た。手のひらを重ね合わすように、今度はその左右の遠近が惑わされるくらい入れ替わるように、自在に、不明瞭でいながら的確に、危う気ながら気概を備えながら、あくまで滑らかに映り過ぎてゆく。ビルとビルの谷間は文字通りの清澄な広がりの彼方へとあたかも安息の空域であることを主張している。 勢い車の窓ガラスを開放し、目の前に展開する絶景に身を乗り出そうとして、我にかえった、「いけない、音響が拡散してしまう」この密閉された空間から眺めるからこそ、今、双方のまなこに映しだされるものが幻灯機のように何処かはかなく美しいのだ、そして鳴り響く長唄の、過ぎ去りし江戸時代を薫らせる歴史的なイメージも又、しっかりとこの車中に閉じ込めておかないくてならないから。何故なら今、現在のこの場面は紛れもない玉手箱の中身そのものだからである。それにしても何と見事なまでの調和なのだろう、こんな三味線や太鼓の音色が鉄とコンクリートで積み上げられた建造物に何の抵抗もなく受け入れられ、あまつさえ、この時点すべてが、ひょっとしたらまだ見ぬ未来像にまでこだましているとすれば、、、 性也はそこで一息ついたとでも言いた気な目つきでY子の顔をうかがった。別段その面に大きな変化は見せていない。より正確にいうなら無表情と形容したほうがいいだろう。そんな雰囲気を、どことなくまわりを寄せ付けない気高さを性也はとても愛おしく思うのであった。 |
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