断章


恋するわたしは狂っている。そう言えるわたしは狂っていない。わたしは自分のイメージを二分しているのだ。
―ロラン・バルト―


大橋性也がまだ大学を卒業していつくかの就職を経た頃の話だから、当然、この町で展開される物語ではない、大都市東京に於ける小さな恋のメロディー、あるいは大きな欲望のリズムである。
この若き青年が不夜城をあくまで人工的な密林と捉えていたのか、似たようにただ単に夜の帳に同調する資本主義のデコレーションと割り切って、足を踏み入れて行ったのかは推測出来ない。どっちにせよきっかけに根源的な意味を求める必要などいらないからだ。後に性也が語ってくれたように、大切なのはプロセスであり、まさに今現在そこに緊縛されつつ咆哮をあげながらそれを振りほどかんとする、野性味に浸る馬鹿馬鹿しいほどの狂騒にすべてはある。
さて密林だろうが草原だろうが、地に足を這わして進まない限り欲望の鼓動に忠実に即すことは不可能であった。知的判断がもたらす日常への適度な湿り気は、とりあえずは希望という名の指針を彼に与え精一杯の努力を要求する、まるで日々の就労によって心身から流れ落ちる汗と転化することで、見事な循環を可能とさせるように。
しかし性也は、そんな独楽がまわり続けるような、あるいは歯車が回転してどこかに連動していく単純性に大いに疑問を抱いたのである。朝・昼・晩と規則ただしく時が過ぎていくのは、自然の摂理なのだろうが、そこに自身の躍動を正直に即すことは我慢がならなかった、否、我慢は出来るがその連続性を嫌悪したと云った方がより明確だろう。
ある春先の夜、性也は自分がどうやら恋に落ちたのではないかと、かつてない身震いする予感に襲われ、その鳥肌立ついつもと異なる皮膚感覚に絶大な信頼を寄せる自分へと陶酔した。小さな湿疹のようなものが身体に溢れ出すことがこれほどまでに鮮烈な感触をもたらすとは夢にも思わなかった。そして夢にもありえなかったからこそ恋をしているんだと、余計なものを引き出しに仕舞い込むようにして、残りの生きた感覚を観念に置き換えてみた。すると漸く股間が溌剌といきり立ってきて、恋を呼んでいたあの感情は愛へと進化してゆくことで、肉欲が大きく鎌首をもたげだした。後は自然の成り行きにまかせれば、恋愛に悩む必要はこの時点ではない、性也はいつしか仕事に対する意欲が朝・昼・晩と性欲に裏打ちされているのだと云う、あの古典的な理論を都合よく再確認するように、更に余分な意識を押し入れの中に放りこんでしまった。そして代わりに布団を引っぱりだすと、始めて性也のアパートを訪れた恋人をその上にまるで、押し倒すような風情でもって、衝動に忠実であれとばかりにがむしゃらに性的な優しさを表現して見せたのである。
「いつかこんな時が来ると思っていたんだ、Y子さん、そんなに嫌がらないで下さい。こんなに優しく抱いているじゃないですか」
それでも彼女の面に現われる不審と警戒の眉間に皺寄せられた記号を見てとった性也は、Y子がここまで、つまりは深更に自分の部屋まで臨んだ以上、今ある抵抗はきっと羞恥が支えるためらいであると判断して、一度身体を離して立ち上がり部屋の電灯を消してから、「さあ、もうこれで本心を取り戻せる、安心して欲しい」と泣く子を諭すような甘い口調の中にも躾けで正す威厳を匂わす語気で懇願してみた。するとまるで消灯が魔法の術であったのか、何とY子は黙って自ら衣服を脱ぎ出したのだ。照明を落したといってもカーテン越しに都会の夜景は微かな明かりを提供してくれる。はっきりとは目にすることは無理だが、その艶かし衣ずれのような脱衣の雰囲気は、まるでY子の気持を露にしているようで、性也の胸は激しく高鳴った。夜が流れていく、、、たおやかにせつなく、、、先程までの野蛮な性欲が引き潮の如く、さっと引いていくのが分かった。それでも下着姿になった神々しくも聖女を思わせる肉体へと手は伸びていく、お互い全裸になり、一通りの交情の末に果てる刹那、歓喜の吐息が激しくなるY子の姿態から想像するものとは異なるであろう、奇妙な罪悪感と虚しさが入り交じった感情に支配された。そう、誰かに謝罪したくなるようなむず痒い、どこか情けない不謹慎な情感の絡まりとして。