残身


「突然このようなお手紙を差し上げます事、貴方様のご多忙中を慮れば甚だ迷惑千万かと存じます。
されど差し出し人であります私の名字と共に、倅の森田梅男という名前をもし、お忘れでなければそれなりの感慨を覚えになられると堅く信じてこの筆をとった次第でございます。ぶしつけながらの失礼どうぞご容赦下さいませ。
今からちょうど十年前の夏のことです。花野様の生まれ育った故郷でのあの事件は、けっして貴方様のなかで風化していないと祈りにも似た願いを、あれから今日までずっとずっと抱き続けてまいりました。同郷とは申しましても私のような年寄りの戯言、この十年の間に何度か、貴方様にご連絡をとりつけたい衝動にも駆られましたが、それは俳優として増々ご立派になられ数々の作品に主演されてるご様子を拝見するにつれ、さぞかし広大な人脈も形成されて、私らには想像もつかない高みまで昇りつめられたのではないかという、恥ずかしながら下衆の勘ぐりとお考え下さい、わらをもすがる思いなのでございます。
しかしその思いはただひとつ、あの夏の夜以来まるで神隠しにでもあったかの行方知れず、銃弾に倒れて命を落したのなら、せめてその亡骸をというはかない願いも能わず、然れば事件後に駆けつけて頂いた花野様のご厚意に甘えての切なる希望、芸能界のことは私らには門外漢ですが先程も申しましたように様々な業界、政界など著名人とのご関連も生まれていることと察しまして、あたかも花野様がどんどんと有名となられるお姿に、息子の梅男の安否の可能性が重なって比例して行くのでございました、、、梅男が不憫でなりません。
七年前に初の脚本、監督、主演された「東紀州欲情縦断ツアー」が公開された時には、ああ、まだまだこの町のことを忘却の彼方に押しやろうなどとはお考えではない、いや、それどころではない、演出家として作品を世に問うということは、矢張りあの事件の真相に少しづつでも迫ってらっしゃるんだと、私は勝手ながらそう解釈致しまして、その後の貴方様の動向から目を離すことが出来なくなりました。ところが以前のように帰省されることが、まるで禁忌であるかにように、この地に戻られることがなくなってしまわれるに及んで、私は知り合いを通し、貴方様の生家であります花野水産の会長(お父上でございます)にそれとなく近況を尋ねてみるよう、誠にもって失礼ながら斯様なことまで意欲を出したのであります。しかしながら返ってきたのは、芸能活動のスケジュールが過密して数年先まで自由の身がないと云う、予測通りの答え。まさか私がお父上に直接お会いするわけにもいかず、その予測通りの中にこそ貴方様ご自身の苦悩の痕を見る思いで胸が熱くなり、梅男が仮に強大な権力の手中にあるのならば、当時この町に戒厳令を強いた権力と同じくとても個人などの力の及ばぬところ、貴方様もそれを熟知されたらこそ、拙宅までお運び頂きながら、無念なる胸中で東京へと帰られたのでしょう。数日後、お電話にて花野様からお役に立てずとおっしゃられたその一言が、私ら夫婦にとってどれくらい励みとなりましたことか、あの時もお話させて頂きましたが、恐喝もどきの電話もありまして正直、亡父から小さい時分に聞かされておりました、先の大戦や満州時代の苦労話と共に軍事体制下の生活の難を彷彿させた次第です。
世が世なら時も時です、いつの時代も大きな流れがありまして、私が生を受けましたのは、敗戦からようよう立ち上がり始めた頃、国民全体をもって焼土となった日本が再建へと大きく飛躍していく最中でありました。当時は子供心にもまだまだ戦争の傷痕がはっきりとした意味ではありませんが、見聞きする事ごとのなかに感じとることは、年老いた現在より鮮烈な感覚だったと思われるのです。
どうも年寄りの長舌に片寄り過ぎました、お忙しい花野様にこのようなとりとめのない文章を綴るわけにはまいりません。本題と申しますか、この度の要件をお伝え致します。これは貴方様にとられても決して意味なき事柄でない思っております。今から二年前の事です、私は家内と相談いたしまして、直接に花野様にお訪ねし、ある品をどうしても受け取って頂きたく、その段取など腐心していた矢先に長年の持病を患っておりました家内が急逝してしまい、私も少なからず心身に変調をきたしどうにも思うように進まずにかと云いましても他の者(梅男には弟が一人おります)に委ねるのも気が引けてしまい、その理由は後ほどお話させて欲しいのですが、ともあれ今日まで日数を経ることになったのでございます。なるだけ簡潔にと書き出したものの、事情が事情だけに又十年という歳月がどうしても文面を簡素に表す術をはばむようです。どうか、どうか、最後までのお目通しを切にお願い申し上げます。」