尾鷲幻想曲144

後記

季節は冬の終わりへとうつろい、やがて陽の光もその色合いを変えて行く。
「幻想曲」も最終楽章へと向って行った。
冬の空気はとても澄んでいたし、汗ばむ事がない故に妙に落ちついた気分で、町の中を彷徨したような気がする。否、彷徨ではないのかも知れない。今から思えば、自分でも意識しない何かに突き動かされているような、そんな奇妙な目的みたいな計画性があったように感じられてしまう。
けれども冒頭でも述べたように、この写真集は尾鷲の観光案内でも、名所紹介を意図したものではなく、あくまで自分自身の「生活世界」と郷愁に彩られた「記憶としての情景」を、再確認していく行程に他ならなかった。そういう意味では、まぎれもなく私小説そのものだろうし、実際、他者から見れば整合性のない画の羅列に映っているのだろう。それでも、個の中では変容する心理や、気ままにあふれ出す情感を 無意識的ながらも捨象してきたように思える。又、逆にあえて情念むき出しのまま直截に表現した箇所もあって、渾沌の中であるがこそ、夢見な道標を想い描きたかったのかも知れない。
本来、幻想曲とは夢うつつの極めてロマンチシズムに満ちた楽曲である。時間の許す限り、夢幻の旋律の彼方へと、甘美な意識のままに流星のように溶解していく宿命にある樣式でもある。
当初は市内各地を巡れるだけ、細やかに歩く試みであった。おそらく大部な作品になるであろうと、考えてもいた。が、しかし意外に早くも今回の幻想潭には終焉が訪れてしまった。
写真は最終撮影日に中村山公園でしばらくぶりに再会した、パンダの置き物である。知っている方もいるだろうが、これは公園として整備された、幼年時代よりかの場に鎮座している。個人的には非常に愛着のある存在であり、出来ることなら家に持って帰りたいくらい、子供ながらに執心したものだった。
手にしたボールは過去には赤い色だったが、現在は青に塗りかえられ、頭部も色が剥げ落ちてまるでナイフか斧で切り裂かれたような無惨な姿に変貌してしまっている。
大袈裟と失笑されるかも知れないけれども、この瞬間、幻想は撃たれたと、痛切なものが押し寄せてきた。
パンダに限らず、町には年老いた顔見知りの人や、今は空家になった無人の空間、様変わりしてしまった路並、そして新らたな建造物や見知らぬ少年少女や小さな子供たち・・・やはり時間は確実に経過しているし、自分の記憶すらも歪曲してしまっていた。切実な郷愁がすでに風化していく領域を、もう気負いしてまで幻想化する必要はないと感じた。あらかじめ知っていたのだ。そう、幻想曲が持つ、はかなさは私にとって冬の花火のようなものでしかなかったことを。
同様にカメラを通して、向こう側を見る行為も、幻想に違いない。レンズの中から覗くのは別世界であり、今回、中村山の砂場の土管に横ばいでもぐりこみ、光をとらえた時なども、写真自体が覗き窓のような機能を背負った特種な身体感覚であると実感してやまなかった。
幻想とはイメージである。人はイメージなしには生きては行けないし、厳密に言いきってしまえば、リアルそのものなどもそれ抜きには決して存在しえない。ただ、それぞれが、どうイメージして行くかの差違があるだけだろうし、その行き先は私にはわからない。これから先も明解はありえないと思う。
広大な青空や視界の及ばぬ海原、あるいは深い深い、山林の奥地や遠い異国。又、隣近所の家屋の部屋や押し入れの中。そして何よりも不可思議なものは、人の心であろう。幻想に果てなどはない。
夏の強烈な日射しと蝉や虫たちの合唱が今から待ち遠しい。だが第二の「幻想曲」は未来というよりはもうすでに、今、始まっている。


2005年 冬