れいめい塾25時2002年前半 2002年後半

れいめい塾戦記

2004年度 その四



大学の時のダチの息子がウチの塾に密航してきた。3年前のアキラ(関西大学3年)、去年のタカシ(どっかの短大2年)、そして今期はブーちゃん。この3人兄弟、やっかいなことにブーちゃんが長男、この4月で23歳になる。高校卒業後に就職、ところが弟たちが大学に進学するのを見て変心したのか、22歳にして大学に進学することを決意。ちょうど1年前にウチの塾に姿を見せた。原風景を重要視する俺は、これからの1年に備えて三重大学の合格発表に連れていった。三重大学では卓が合格し、佳子と橋本が落ちていた。来たばかりで感情輸入できなかっただろうが、落ちた受験生の風情が何がしかの感情をブーちゃんの心の内面に植え付けられたらいいと考えていた。

ブーちゃんの初期の目標は京都教育大学、高校時代に得意だった数学の先生になろうと思ってのことだった。しかし高橋講師から手渡された高校数学の問題集は遅々として進まない。ブーちゃんが得意だと思ってはいても、進学校ではなかった高校の数学ができる程度では大学入試のリングにすら立たせてくれない。それに教育学部といえども理系の先生を目指す以上は物理や化学などを選択する必要があった。どうしても理系勝負に首を立てに振らない俺に業を煮やしたのか、ブーちゃんの姿は塾から消えた。

家出というべきか、塾出というべきか、とにかくブーちゃんは1週間ほど姿をくらました。修学旅行でもしたかったのだろう。京都の友人宅に泊まっていたことを後になって聞く。弟のアキラの下宿から塾に戻ったブーちゃんは私立文系にシフトすることに納得した。となると残ったネックは言わずと知れた英語、ターゲット1900の英単語どころか、鈴鹿高校の入試問題を新中3と解かせてみても最下位。正真正銘、中2の夏休み程度のレベルだった。英語がこのレベルだと国公立は到底間に合わない。国語の現代文はともかく、古典に漢文、さらに社会、極めつけは理科・・・。英語にかなりの時間を割く必要がある以上、やはり私立文系で行くしかなかった。

高校を中退、2002年度の大検に受かった響平も大学入試まで1年を切った。学部ははっきりしていた、社会学部。しかし大学が決まらなかった。大西君と二人で誘(いざな)ってきた立命館、そして同レベルの関西学院、この2大学を主軸にして産近甲龍をかませるのが順当なラインといえた。

響平が始めてウチの塾にやって来たのは高1の夏休みのこと。この時には2歳年上の兄貴もいっしょだった。兄貴は宇治山田高校の3年、聞けばバスケットで鳴らし充実した高校生活を送っていた。どうやら響平の親父さんの狙いは響平よりも兄貴にあり、高3のこの時期になっても受験モードに突入する気配のない兄貴に受験生としての自覚を覚醒させるためにウチの塾に寄越したようだった。しかし俺の視線は響平に注がれていた。不登校気味の響平になんとか自信を持たせたい・・・。そこで一計を案じる。現代文担当の大西君がウチの高3と響平の兄貴に授業をする日だった。俺は大西君に響平も授業に混ぜてくれるように頼んだ。俺が描いた絵は、過去のセンター現代文を実施して響平が、兄貴やウチの高3に勝つこと。大西君、それを聞いて驚愕、「先生、そりゃ無理や。響平はまだ1年ですよ。2歳上に勝てるはずあらへん」「でもさ、響平は今まで高校を辞めようかどうか悩んできた。いろいろ考えたはずなんや。自己と他者とかな・・・だから挫折を知らない兄貴やウチの高3になら勝つチャンスがあるんとちゃう?」 

響平は兄貴に3連勝、ウチの中井にも勝っちまう。現代文は年齢を問わない。本を読まないよりは読んでいる方がマシだろうが、本を読むから現代文ができるとは限らない。現代文ができる奴は、いろんな事を考えている奴である。つらい事や悲しい事に対し真摯な姿勢で対峙する奴、これが現代文のできる奴の条件。ちなみにアキちゃんで早稲田に勝負できると踏んだのは、中学時の全県模試の偏差値50強の国語の成績というよりは、津東に行きたかったのに久居にせざるをえなかった断腸の思い・・・この怒りや憎しみの方を買ったというのが正解かな。

響平は高1の2学期の最後に高校を中退した。そして兄貴は浪人した。名古屋の河合塾まで通う毎日となったが、浪人への導入に問題があった。高校3年間勉強をやってなかったから当たり前のように浪人。この意識は怖い。伸びる浪人と伸びない浪人はこのあたりの意識次第だ。合格すると思って勝負、結果は落ちて悔しさ満面で浪人生活に入ったら伸びる。しかし高校4年生のノリで浪人しても伸びない。なにしろ浪人をして成績が上がる生徒は全体の30%ほどしかいない。結局は響平の兄貴は翌年も浪人、二浪が決定した。これで2歳違いの兄弟が大学受験で同じリングに立つことになった。

毎晩ブーちゃんと『すき屋』や『ガスト』に出向いては、ターゲットの例文の試験をやった。しかしなかなか進まない。毎日課題を出すものの、計画はなし崩し的に遅れた。気になったのは課題をどうあってもこなそうという焦りすら感じられなかったことだ。そこそこ勉強はしている。しかし熱さがない。森下に言わせると「成人式を過ぎてから大学受験に賭ける重さがない」となる。やってはいるが、人に感動を与えないままに時間が過ぎていく。

大森の推薦入試は小論文と面接だった。大西君が京都から駆けつけ、森下と俺ともども三日ほど徹夜で課題作文を仕上げていく。内容に関しては関西学院の関係者からA゜だと後に聞いた。そして内申は関係ないと歌っておきながらやっぱり関係あってC。この段階で18人の受験者が11人に減った。後は面接と小論文、面接は大森のキャラなら安心できるが問題は小論文。高校を休ませ大西君の計らいで1週間ほど立命館大学で勉強させた。俺は全てをこの試験に賭けていた。この試験がこけた場合はきつい。英単語と日本史の一問一答は最低限させてはいたが、ひと月のブランクは一般入試に関していえば致命的とも言えた。ここで決めるしかない!

ブーちゃんが日本史を量の多さに断念、政治経済にシフト。そこで仁志(立命館経済インス2年)の登場、夏休みに集中講義。夏休み明けの全国統一模試で偏差値60を叩く。これでなんとか得意教科ができたわけだ。しかし英語に変化はなく偏差値40あたりを徘徊する。

大森が推薦入試に落ちた。大学関係者によれば合格者は関西学院の地元・兵庫県の高校の男子。決め手は剣道の実績、なんと全国8位だったとのこと。これで大森はきつくなった。新しい塾に呼び、中3の授業終了後、午前0時過ぎから毎晩のように俺が授業をした。しかしひと月のブランクのためか、英単語が腐っている。スピードもない。授業が終わった後、誰もいない教室で俺は暗澹たる気持ちで酒を飲んだ。何の確信もないのにいともイージーに推薦を薦める顧問を恨んだ。このひと月さえなければ大森の約束の地・立命館大学はその姿を見せていたかもしれない。しかし今となっては・・・砂を噛むような時間が過ぎていく。

菊山が京都大学模試の数学で0点を取って大笑いしたのは夏休みだった。そして2学期実施の次の京都大学模試でも数学は壊滅的な点数。さすがにシャレではすまなくなった。順当に大阪大学にすりゃいいのに・・・。学歴信仰が皆目無い菊山が、なぜそこまで京都大学に固執するのか? 物理は中塚(三重大学医学部3年)、化学は横田(三重大学医学部5年)の指導で京都大学で勝負できるレベルに完成しつつあった。英語の趨勢を分ける京都大学特有の英作文では森下の指導を仰いでいた。「なんとか間に合うかな」との森下のコメント。最後の鍵を握るのは数学・・・これは衆目の一致するところだった。しかしなぜ京都大学なのか・・・いずれの講師も首を振るばかりだった。

直嗣が文転すると言いだしたのは11月初旬。物理も皆目理解できず、どうしても数Vまで手が廻らないという。俺は私立理系で突っ張れとハッパをかけるものの粘る直嗣。「名古屋市立大学でのセンター勝負、僕はこの選択が一番合格する可能性があると思うんです!」 確かにこれだと直嗣の得意の地理も生かせるし、数学は1A2Bだけで数Vを使わないですむ。しかし中学時代から苦手としていた国語がある・・・。「先生の言う通りに私立理系に絞った場合、どうしても勢いに乗って勉強できない気がするんです。名古屋市立大学、あるいは大阪府立でならチャンスがあると思うんです」 結局、俺は折れた。俺の直感は警報を鳴らしていた、しかし所詮勝負をするのは直嗣なのだ。

直嗣がセンター勝負に臨むことから俺は急遽、征希を漢文の講師に頼んだ。征希の漢文はかつてのウチの塾では一級品、なにしろセンター国語で200点満点を叩いていた。しかし征希を起用するのには他の理由もあった。

征希は私生活が順当に行き始めると、何がしかをしでかし、今まで築いてきたものを葬るのが常だった。
昔話だ・・・。征希を兄貴のように頼っているのは現在では古西だが、かつては7期生の正知だった。正知の勉強は不器用、さしたる記憶力もなく、一つ一つ知識を積み上げていくようなタイプだった。こ奴が目指したのは関西大学、そしてそこには兄貴のような征希がいた。征希も正知を塾の後輩としてこよなく愛していたと思う。俺は征希に正知を託し、征希も二つ返事で引き受けてくれた。しかしいつしか征希は大学生活に埋没、そして正知は関西大学に落ちて龍谷大学に入学した。

別段、征希を責めているのではない。ウチの塾の上下関係の暑苦しさを駆使して、なんとか正知を合格させたかった。征希以外にいくつかの画策をしている。それがうまく機能しなかったというだけだ。しかし、中3からの付き合いだった征希の今まで気づかなかった側面を見たように感じたのも事実。その側面・・・醒めやすい。

征希はその後、関西大学院に進学。卒業後、いろいろと職を変えた。その節目節目に塾に姿を現し、しばらくするとキャリアがひとつ増えていた。そして2年前の春、カイロプラクティクの白衣に身にまといウチの塾に姿を見せた。「治療を施したおじいちゃんやおばあちゃんが、脚が、腕が動くようになったって涙を流して喜んでくれるんですよ」と感動の面持ちで語った時、俺は征希が安住の地を見つけたと思った。今までのジプシーのような生活を考えると、素直に嬉しかった。ところがここ最近、この安住の地に醒めそうになっているんじゃないか・・・杞憂と思いつつも、そんな気配を感じる瞬間があった。今度だけは醒めてほしくなかった。俺はカイロプラクティクを征希のプロミスドランドと認めていた。またジプシーに戻ってほしくはなかった。そこで考えあぐねた結果が、征希をウチの塾の講師に抜擢することだった。これなら最低週に一度は会える、様子を窺える。

今年の高3で最も心配だった怜美が愛知医科大学に合格した。これだから受験は麻薬なのだ。

允がウチの塾にも河合塾にも姿を見せていないと聞いたのは健太(浪人)からだった。後ろから袈裟切りされた気分、精神が泡立った。怜美に小論文を教えていた間隙を衝かれた。携帯には繋がらなかった。ゲーセンか、パチンコか、ダチがらみか・・・クソッ!クソッ!クソッ! やられた! 見事にやられた! もう一歩、ほんのもう一歩まで迫っていたはずなのだ、約束の地・立命館に・・・。大森の失われたひと月を嘆いていた俺は、允の失われたひと月に思いを馳せた。これで振り出しに戻った・・・。



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