れいめい塾25時2002年前半 2002年後半

れいめい塾戦記

2004年度 その参



3年前の高校入試、すなわち15期生の高校入試はウチの塾の歴史のなかでは珍しく津西に生徒が集中した年だ。国際に加奈子、普通に大森と直嗣と拓也と紘と真子の計6人。一方、津高といえば菊山たった一人だった。

津高の合格発表では横綱相撲で合格した菊山を、古西(名古屋大学2年)が添乗員よろしく引率。菊山を取り囲むように村瀬(横浜市立大学2年)、砂山(青山学院2年)といった先輩がテニスコートの脇まで引っ張っていった。そしてひっそりとたった一人のコーラかけ大会が始まっていた。多勢に無勢、イジメとも思える愛情に通行客は視線を合わさないで通り過ぎる。菊山にコーラをかけていた砂山(青山学院2年)がつぶやいた。「今年の津高はたった一人や。来年はもっと賑やかにやりたいな」 そんな光景を後に俺は津西へと車を走らせた。途中で大森の兄から携帯に連絡、「先生、弟が合格しました! それと直嗣も!」「拓也は!」「・・・番号がありません」

拓也の謙虚さも加奈子に匹敵した。ポテンシャルでは津高を窺うことができる力を持つものの、「津高でどないや」という俺に、拓也は頑なに恐縮しては拒絶した。「僕が津高なんて・・・、津東で行きます」 拓也のネックは内申、2年の3学期の段階で10段階の9教科90マックスで56しかなかった。この内申では津西は難攻不落、なんとか津高ならギリギリか・・・。かといって津東では拓也の力を考えると惜しかった。中3進級あたりに俺が考えていた戦略・・・拓也の何につけ消極的な態度では内申の伸びは期待できない。ならば津高勝負・・・というもの。しかし夏休みに至る何度かの話し合いでも、津高にはひたすら尻込みし、津東志望を繰り返した。いつしか俺もまた本人がそこまで言うならば津東で良しとしようかとの結論に落ち着く。それが土壇場の2学期になり一転・・・よりによって最も可能性が少ない津西で勝負! どうやら家庭内での話し合いのなかで決まったようだった。確かに力だけを見れば津西国際はともかく、普通なら十分に合格圏に入っていた。しかし肝心の内申の伸びは60程度で頓挫していた。こんな内申では勝負にならない!再び拓也を説得する日々が続いた。「内申で落とされるのなんてシャクやん! どうせやったら実力で落とされた方がスッキリせえへんか」 しかし相手が津高となると、拓也はどうしても首を縦に振らなかった。俺の悲願である全員合格は翌年に持ち越された・・・。

冬休みが過ぎ、拓也は三重県の公立入試過去問でも200点前後を叩きだすまでになった。得点だけを見れば、着実に内申を積み重ねてきた直嗣や大森(弟)よりも、拓也の方に軍杯が上がった。しかしやはり内申の問題が大きく横たわっていた。

俺が津西の正門に車を駐車した時にはコーラかけが始まっていた。大森と直嗣が、隆也や佑臣などの先輩に囲まれてコーラでずぶ濡れになっていた。ともに全県模試偏差値53前後、奇跡と呼んでもいい合格に二人とも歓喜の声を上げていた。そして当然のことながら、そのなかには拓也の姿はなかった。「拓也に会ったか」と俺は大森(兄)に聞いた。「いや・・・探してはいたんですけど見つからないんです」 俺は津西から延々と駅に続く一本道を見た。津西から津駅に戻るにはこの道を歩くことになる。自分の番号があろうがなかろうが、この道を歩いて行く。俺は去年の光景を思いだした。去年、この道を自分の番号がなかった允(浪人)が友達と二人とぼとぼと歩いていたっけ・・・。

1年前の14期生の合格発表・・・允も拓也ほどではないが内申が足らない状況で津西に勝負に出た。あすか(星城大学1年)や佳子(星城大学1年)や花衣(三重県立看護大学1年)などが嬌声を上げてコーラから逃げ回っているなか、俺は允の姿を求めて車のエンジンをかけた。津駅までの一本道をゆっくりゆっくりと走らせた。津東を少し過ぎたあたりで允の姿を見つけた。允は友達を二人で歩いていた。二人で歩きながらお互い顔を見交わすでもなく、ポツポツと二人は歩き続けた。俺は二人を追い越し、美術館近くのファミマで車を止めた。允が近づいてきて俺に視線を這わせ、コクリと頷いた。「送っていってやろうか」 しばしの沈黙、つぶやくように允は言った。「いや、結構です。電車で帰ります・・・」 通りすがりの登場人物にかなれない大根役者、どうしようもなく無力な塾の先生がそこにいた。

允は高田U類に進学後もウチの塾を続けた。夏休みには高校1年にして桐原2章の試験をミス1でクリア、再び大学受験で勝負するだけの自信を取り戻したかのように思えた。しかし高2の初夏、突然塾を辞めた。俺や先輩連中が説得するものの、允の決意は固かった。「あいつは絶対にウチの塾の生徒なんやけどな」 ウチの塾で2年目を迎える大西君(立命館大学研究員)が言った。俺もまたそう思いたかった。

允が塾を辞めた頃、高田U類に進学した拓也もウチの塾を続けてはいた。しかし大森や直嗣、加奈子など津西に合格した連中がたむろするなかで塾を続けることは苦行だったに違いない。拓也も允と同様に、幾度となく塾を辞めたいと思ったのではないか・・・。

志望校に合格した生徒より、高校入試に落とした生徒に俺の視線は向く。俺は拓也に京都府立大学をイメージした。拓也の英語は偏差値65以上は期待できた。そして日本史はマニアと呼ばれるような偏差値70以上をハナから叩きだしていた。懸念は国語、これもまた大西君の薫陶を受け徐々に上昇していた。しかし高校入試の頃と同じように拓也の尻込みが始まる。「京都府立大学なんて到底無理です!」 再び同じような平行線が続くことになる。拓也は長男として国公立を考えていた。数学と生物は古市が担当、古市がよく嘆いてたっけ。「加奈ちゃんと拓也に数学を教えていると、その日は拓也の方が理解力があるんよ。だけど一週間後には加奈ちゃんが完全に理解している」 何度も何度も高校入試のリベンジだ!とハッパをかけるものの拓也は穴倉から外に出てこない。数学と生物を切って、私文3教科に絞れば立命館から早稲田にまで手が届く・・・俺のそんな説得は卓也の心の襞にまでは響かない。実力はあるのに・・・自分の実力に自信が持てない。公立入試の後遺症が拓也の身体を蝕んでいた。

允が全ての大学に落ちて浪人したことを聞いた。それとほぼ同時に久居高校から早稲田に合格したアキちゃんが挨拶にやって来た。「さっそくやけどな、アキちゃん。允が浪人したらしい。どない思う?」「允の性格を考えると危ないですね。ついつい誘われてゲーセンやパチンコ通い、あげく勉強よりそっちのほうで実力を発揮しちまうタイプやな」 アキちゃんは秘密裏に允に接触、河合塾に通いながらウチの塾で勉強することを薦めたらしい。そして允はほぼ2年ぶりにウチの塾に姿を現した。どうしても允に聞きたいことがあった。「なぜ塾を辞めたのか?」 ためらいがちに允は言った、「塾にいると課題なんかがあって、次から次へと計画が組まれていたでしょ。高校入試が終わってすかさず大学入試・・・疲れてたんです。僕や卓(立命館大学理工1年)や橋本(近畿大学生物理工1年)など、高校入試に落ちた奴らをなんとかして大学受験では合格させたい・・・先生のその気持ちは十分によく分かっていたつもりです。でも・・・あの頃は全てのことから自由になりたかったんです」

允がウチの塾で勉強するにあたって俺が言ったことはたった一つ、「英語では菊山に負けるなよ・・・と言っても今のオマエやったら負けるんやけどな。正直言って実力差はかなりある。しかしいつだって菊山に勝つつもりでやれ。少しずつでもいい、絶対に縮めろ」 塾を辞めてから勉強をしていなかったんだろう、塾に在籍当時の偏差値60は50前後に下がっていた。後は1年後輩の菊山相手に先輩のプライドを武器にどこまで縮めることができるのか・・・それが允の勝負の趨勢を決めるはずだった。

大森と直嗣は成績は悪いがどことなく余裕があった。鼻につく余裕ではないが、努力したら報われると信じている余裕・・・陽のあたる道を歩んできた生徒、言い換えれば高校入試で達成感があった生徒が共通して持つ余裕だ。俺はそれに水をかけてやろうと孤軍奮闘するが、どうしても払拭できないでいた。直嗣の大阪府立大学に大森の立命館・・・しかし約束の地はなかなか見えてこない。いっぽう拓也は私立文系教科の英語・国語・日本史では強みを発揮するものの、数学と生物が偏差値50に遠く及ばない。「いいじゃねえか、このあたりで私文にしよや。数学と生物を切れば早稲田まで届くかもしれへん。順当やったら立命館、そして京都府立大学・・・」 しかし強情な拓也、国公立の都留文科大学、愛知教育大学にことさらこだわる。

夏休みとなり、菊山と允を相手に英語の試験を毎日のように実施する。このあたりから允は菊山に負けるものの、僅差での名勝負数え歌を演じられるようになる。允の本命・立命館大学、約束の地はすぐそこにあるのを俺は感じていた。

2学期に入り大森は関西学院大学の推薦を受けることになった。小論文でひと月のブランク、後に控える一般入試を考えれば無謀。しかし剣道部の顧問からの強烈なプッシュ。俺と大西君は顧問の先生にそれなりの勝算がある上でのプッシュと考え、シブシブながらも受諾する。この瞬間から大森は小論文の海に漕ぎ出すことになる。

この時期、直嗣はというと数学TAUBに手間取り、数Vにまで手が廻らない。また英語の仕上がりが遅く高3までもつれ込んだために物理や化学に支障をきたしていく。理系なのに一番得意な教科が地理という皮肉な展開が続くことになる。
そして知早は依然として古市の前に針の筵状態。講師と生徒という関係を常に保ち、一切の潤いある会話を避けてマンツーマンでの授業は続く。古西や中井(アジア太平洋立命館2年)などが興味本位に古市の授業を覗くものの、すぐに戻ってきてひとこと・・・「めちゃくちゃ、こえ〜や」 「なんなの、その点数。中学からやりなおしたら」 こんな台詞、それも怜悧な声が静寂のなかで知早の心を突き刺す。ヒリヒリするような授業が続いていた。

ちなみにウチの奥さんの一番のお気に入りは古市である。「昔クリスマスパーティをやったときにね、舞ちゃん(古市)はたった一人で食器の洗物をやっていたの。誰も気づかなかったようだけど、助けも求めずに自分のすべきことをキチンとやってたわ」 イジメとも思える知早の風当たりの強さに俺は俺で知早が一人の時は慰め、古市にももう少し優しく教えるわけにはいかないかと頼んだ。「だってね、先生。今年の講師のなかで去年までの小田さん(四日市市民病院勤務)のような怖い人いないでしょ。かといって、小田さんのように演じられるだけの人があるかしら? 塚崎さん、横田さん、山岸さん、中塚さん・・・みんな女の子には甘いわよ。そんな甘い授業で今の知早ちゃんのボロボロの数学で三重大学勝負できると思ってるの!」 俺は一言もなかった。ウチの塾では生徒同様に講師もまた成長する・・・そんなエラッそうな台詞を吐いたのは俺だったのに、いつしか女の子に甘いだけの俺がいた。軟弱な俺って、いつしか古市に抜かされてるじゃん・・・俺は一人ごちた。

そんな俺が怜美(伊勢女子3年)の小論文の担当をすることになる。志望大学は愛知医科大学。作文と小論文の区別さえも分からないレベルからのスタートだった。怜美には俺が担当するとは言わなかった。怜美があてにしていた講師、言い換えれば自分に優しく接してくれる講師が多忙のために怜美を教えることができなくなった。ゆえに中3の指導で多忙な俺が時間を割いて、めんどくさいけど見てやるよ、というスタンスに持ち込んだ。情けない話だが、古市が知早をしごいている姿、悪役レスラーを演じる姿に触発されたわけだ。アシストには征希や森下など優しい面々がいて、俺にヘタクソを罵られ、泣かされた後で、怜美は正義役レスラーに泣きついていた。

怜美をボロクソにけなすひと月に忙殺され、俺はついつい允の存在を見逃す。最近では高1もやかましくなり、大森や允は勉強場所を古い塾に移していた。そのこともあって俺は允が当然、古い塾で勉強しているものだと思っていた。しかし允の姿は古い塾にもなかった。


すんません、ここまでを勢いでキーボードを叩いてきたわけですが、体調が思わしくありません。しばらく休憩させてください。この項は続きます。
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