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1 2008-09-27
はじめの一言
ブログを始めてみることにしました。
きっかけは、Javaプログラムの勉強で「Web日記」プログラムをやったことからです。
どんなブログになるか自分でもわかりませんが、「草枕」風になりそうな気がしています。
よろしく。
自己紹介もぼちぼち入れていく予定です。
第1回目の今回は、いわゆる「団塊の世代」であるとだけ申しておきましょう。
ではまた。
2 2008-09-27
年齢(とし)を考える
2回目です。 今回は年齢(とし)について考えてみたいと思います。
小生、今年で60歳になります。いわゆる「還暦」です。「還暦」とは読んで字のごとく、暦(こよみ)が還る(かえる)、リセットされるという意味です。干支の考え方に基づいているようですが、120歳を「大還暦」、30歳を「半還暦」というそうです。
しかし、近年の寿命の延びやライフサイクルの変化の中では、人生の1つの節目と考えるのが至当なようですね。
3 2008-09-27
不老について考える(1)
3回目となりました。 今回は不老につい考えてみましょう。
近年の研究で、真核生物の染色体の端っこにあるテロメアという部分が寿命に関係しているという研究があります。
現在では、テロメアを修復する酵素「テロメアーゼ」も発見されており、細胞の老化と不死化の関係に関する研究は、ES細胞研究という新しい研究段階に入っています。
私は、自然科学の発展は大歓迎するものの、どう使うかという倫理面では人類は果たして進歩しているのかという疑問も持っています。
みなさん、どう思いますか。
4 2008-09-27
不老について考える(2)
4回目です。 千年以上の前の有名な物語に「竹取物語」があります。作者や成立年代不詳、また内容も不思議な物語ですね。
かぐや姫が月へ還ることになったとき、帝に「不老薬」を渡したと書かれています。そして、帝はその薬を高い山の上で燃やさせ、その山は不死の山(富士山)といわれるようになったというお話です。
ロマンのある物語ですが、古来より、不老は人間の究極の望みであったようです。
みなさんも、この機会に年齢(とし)や不老について考えてみてはいかがでしょうか。
5 2008-09-30
還暦(1)
私も還暦となりました。 いよいよ中老の仲間入りです。でも、気持ちは青春です。
私の好きな言葉に、「20歳には20歳の青春、60歳には60歳の青春」という言葉があります。
青春とは、人生を生きるその人が生き生きと生きている姿のことでしょう。ならば、いくつになっても青春はあるものです。
青春という言葉にはなんともいえぬ響きがあります。特に変化の激しい高度経済成長時代に青春を過ごした我々団塊の世代にとっては、今から思えば泡沫のような一時でした。
6 2008-09-30
還暦(2)
私たち還暦の世代にとって加山雄三さんの勇姿や堀内孝雄さんの歌は青春そのものです。
いくつになっても、かくありたいという夢は持ち続けたいものです。その象徴が加山さんであり堀内さんの歌なのだと思います。
私たちの青春時代は高度経済成長時代であり、変化(上向き)の激しい時代でした。その中で青春も激しくもまた短いうたかたのようなものでした。
自分のアイデンティティを追い求めもがいていました。
今となって思えば、懐かしくよい時代でした。
7 2009-4-3
季節を感じる
久しぶりの日記です。
約半年、芋虫のような生活を送っていました。
季節もよくなり、再び日記を書いてみようという気分になりました。
今、桜が満開です。日本人にとって季節はありがたいものです。人間が環境とともにある証拠ですね。
ところで、日本の四季の中で皆さんはどの季節が好きですか。
年を取ると寒さが身にしみるので、私は暖かい季節がいいですね。生物多様性の象徴的なアマゾン地域といい、人類の起源がアフリカにあることといい、どうやら人間にとっても暖かさは生きるエネルギーの源のようです。
生態系の研究で、熱力学的研究があります。生物多様性の宝庫の森林では、系全体の温度が高くなく(植物の蒸散作用に多くのエネルギーが使われる)、太陽エネルギーが系の中で効率よく循環しているようです。
寒い季節や寒い地方に住んでいると、暖かい季節の到来が待ち遠しくなるのは、人間のDNAからくるものなのかもしれませんね。
春になると、待ちかねたようにいろいろな花が咲き、昆虫を招き寄せ、昆虫による受粉の恩恵にあずかります。一方、昆虫もおいしい蜜にありつけるというわけです。共生というキーワードは、何も今に始まったことではなく、生物の進化と共に発展してきたようです。
春の陽気の中で、私も共生ということに思いをはせてみたいものです。
ではまた。
8 2009-4-3
一日の終わり
一日の終わりの日記です。
みなさん、一日の終わりをどのようにしておられるか、人それぞれだと思いますが、私は、晩酌をいただき、その日の出来事を振り返り、自分の気持ちの中で一日を評価・整理をして明日に向かうようにしています。つまり、その日のことはその日の内に処分し、明日に持ち越さないようにしています。いわば、一日一日を完結させるようにしています。
人間にとって、精神的な疲れは肉体的な疲れよりも長引くと言います。精神的な疲れを明日に持ち越さないようにすることが、健やかに毎日を過ごすもとであると考え実践しています。
それでも、自分の人生にとって大事な時期には悔悟や慚愧の念に駆られることもあります。そんなときは、酒を友とし精神の高揚に任せて思い切りハッピーな場面を空想し、そうなんだと自分に言い聞かせその勢いで寝てしまいます。
すると、不思議なことに夢の中で、自分にハッピーなことが展開されるのです。そのハッピーな気分でまた翌日をスタートしがんばるのです。
だまされたと思って一度実行してみてください。きっといいことがあるはずです(お酒の苦手な方は、代わりに自分の好きなことをたらふくしてください)。
深層心理学者のフロイトは、深層心理がその人の行動に深く影響を及ぼしているといいました。私も、若い頃、毎日日記をつけ、自分の深層心理を追いかけたことがありました。結論的には、フロイトの学説は当たっていることもあれば、当たっていないこともあるということでした。
最近は、脳生理学が進展し、生理学的な面から人間の心理を推し量ろうという研究が進められています。人間の精神の高揚を左右するのは、松果体から分泌されるドーパミンという物質であるといわれています。精神病に薬が効果があるとされて以来、精神と肉体との関係は脳生理学という分野で統合的に理解されようとしています。
私は、精神と肉体の関係は、一定不変ではなく、その都度都度の肉体と精神のバランスによって決まるのではないかと考えています。
最後は、少しくどくなりましたが、そんなことを考えつつお休みなさい。
また明日。
9 2009-4-17
鍬を打つ
久しぶりの日記です。
私だけじゃないと思いますが、私は特に書き始めると止まらなくなってしまうので、少しずつ日数をおいて書くようにしています。
約2週間ぶりです。この間、土に親しんでおりました。少しある畑を耕耘機が故障したこともあって、メタボ対策としてやってみようと思い立ち、鍬で耕しました。
それがなんと効果てきめん、これまで少しきつかったズボンがすこすこです。でも、その反面、手の平には水ぶくれができてしまいました。
それでも我慢して続けていると、水ぶくれが少し硬いマメ状になってきました。
歴史で、武士が帰農するという話を聞きましたが、土に親しむのは健康的にもいいですね。世の中の憂さを忘れて土に親しむ。おすすめの一品です。
10 2009-4-18
リアカー
皆さんリアカーって知っていますか。農村では一昔前の必需品でした。最近は、軽トラックにその座を奪われてしまいましたが、今でも我が家では健在です。
英語で後ろをリア、前をフロントといいます。後ろに荷物を載せて運ぶのでリアカーです。
小屋に眠っていたリアカーを引っ張り出して久しぶりに使いました。さすがに、片方のタイヤのムシがやられていて空気が入りません。どうやらムシ(ゴム)がぼろぼろになって張り付いていたようです。
ペンチでムシを無理矢理取り出し、ムシの入っていたところを突っついて、新しいゴムつきのムシに入れ替えたら、空気が入ってOK。
今日は、我が家の竹林に金網の不法投棄がしてあったので、それを引きづりだしてリアカーに乗せ、我が家へ運んできました。なんで私がしなければいけないのかと義憤を感じつつ作業しました。途中で会う農家の方々にとても懐かしがられました。
自分が見直されているような気分でした。今や便利便利の世の中ですが、ちょっとしたことには、人力がいいですね。やはり、労働の原点は自分の肉体を使うことでしょう。
今日はリアカーと共に、労働の原点を味わいました。みなさんもどうぞ。ではまた。
11 2009-4-20
お酒について
酒を特徴づける成分はエチルアルコールですね。アルコールには、このほかにメチルアルコールという有毒なものも、また、イソプロピルアルコールなどというものも。
私が小さい頃、質の良くない酒にはメチルアルコールが含まれていて、視神経をやられるので、目散るアルコールといわれていました。私の経験からも、質の低いウィスキーを少し飲みすぎると、翌朝頭が痛いことがありました。メチルのせいかなと思ったものです。
私は、20歳台に、世界各地のアルコール飲料について調べたことがありました。そして、ウィスキー、ジン、ウオッカ、バーボン、リキュール類、ワイン、ブランデーなどいろいろなものを飲んでみました。それぞれに色々なアルコール飲料の味が楽しめました。日本酒の冷やの悪酔い成分は杉の樽材からしみ出すフーゼル油という成分であり、燗をすると鼻につんとするいやなにおいがフーゼル油の蒸気成分で、これが燗によって蒸発するので悪酔いしないのだとか、酒に関するうんちくをたくさん仕入れました。
ところで、いろいろなアルコール類の違いを知る最良?の方法は、飲み過ぎて二日酔いになったときに、どのような状態になるかによって判断するのが、最も確かなようです。例えば、ビールの飲み過ぎは腹が張って気持ちが悪いし、ワインの飲み過ぎは体がほてっているような感じだし、酒の飲み過ぎは戻しやすいというような感じです。アルコール飲料には、大きく発酵酒と蒸留酒があり、それぞれ酔い方があります。一般的には、発酵酒は長く酔い、蒸留酒は急に酔うという違いがあります。酒の始まりは、サルが集めた実を木の股に蓄えておいたものが、いつの間にかいい香りのするものへと変身していたことが始まりだと聞いたことがあります。真偽のほどはともかく、微生物が糖を発酵させてアルコールに変換させているのです。
だから、酒をいただくときは微生物さんありがとうというのがよいのかもしれません。
12 2009-4-23
メタボリックシンドローム
 最近、メタボリックシンドロームという言葉がやたらと目につくようになった。日本では、尼崎市の市職員の健康診断から始まったと言われている。
 男性は、腹回り85cm以上、女性は90cm以上が対象となる。これに、血清脂質異常、血圧高値、高血糖のうち2つ以上を有するとメタボリックシンドロームと診断する、と規定されています。
 私も、最近の健康診断メタボリックシンドロームと診断されました。
 退職を決意した一因でもあります。
 一度しかない人生を穏やかに健康に過ごしたいと思うのは誰しも同じです。
 体をいとわず、仕事に自分の一生をかけるというのも一つの生き方でしょう。また、仕事で命を縮めるよりも、自分の一回きりの人生をこそ大切にしたい思うのもまた真でしょう。
 私は迷わず後者をとりました。
 皆さんはいかがでしょうか。
13 2009-5-1
野草
 私のHPに野草のページを新設しました。
 私の住んでいる地域は、自然が残っていて、四季折々の野草が楽しめます。
 雑草といわれることもありますが、雑草とひとくくりにするのではなく、私は、一つ一つの野草として見ていきたいと思います。
 同じ種類の野草であっても、一本一本表情が違います。まさに、自然の不思議さを感じます。
 皆さんも、身近な自然に咲く野草を愛で、命の尊さや自然の豊かさを愛でられてはどうでしょうか。
 詳しくは、野草のページへどうぞ。
14 2009-5-14
アイデンティティ
 マシントラブルにより、元の文が飛んでしまったので、2010-5-23(日)の「虚像と実像」に統合するような内容で書きました。
 そちらをご覧下さい。
15 2009-6-8
職業について考える(1)
 トラブルにより破損したので、文章はもとと変わっています。
 大学生の就職活動が盛んである。最近の大学生の就活は、年々早くなって、3年生にもなると、就活に駆け回る大学生の姿が目に付く。
 景気が悪くなり、大学生も早くから就活に取り組み、就職先を早く決めたいということだろうし、企業も優秀な大学生をいち早く獲得したいということであるのだろう。
 われわれの就職した時代から見れば、今の大学生は大変だなと思う。
 大学生諸君には、就活をがんばって欲しいものだ。エールを送りたい。
 ところで、最近の大学生の就活状況を見ていると、より条件の良いところを、という視点のみが強調されているように感じる。
 それはそれで、一概に悪いとはいえないが、問題は、自分の希望したところに就職できなかった時に、ここは、自分の希望したところではなかったという気持ちを引きずらないようにして欲しいと思う。
 どこに就職しても、そこで精一杯がんばるんだという気持ちが一方で欲しい。
 自分の希望したところが、自分に最も適しているとは必ずしもいえないからである。
 就活に励む大学生諸君には、最後に述べたことも心にとどめ、就活に励んでもらいたいと思う。
16 2009-6-12
職業について考える(2)
 トラブルにより破損したので、文章はもとと変わっています。
 就活大学生にエールを送りつつ、マックスウェーバーの「職業としての学問」に関連づけてコメントしたいと思う。
 マックスウェーバーの「職業としての学問」は、学問を職業とする大学への奉職についてドイツの学生に向けての講演である。
 ここで、ウェーバーは、第一次世界大戦後のドイツの状況を憂い、学生に対して、マルクスの革命思想やニイチェの文明批判などのドイツ社会否定に対して「仕事に帰れ」と檄を飛ばしている。
 ウェーバーは、学問を職業とするならば、それなりの立場につくのは僥倖が支配するとしている。また、学問の追求は終わりのない徹底的な情熱によって全身を打ち込むべきものであり、常に新しい理論に取って代わられる運命を持つとする。
 また、学生の前に立つ教師は、指導者としてではなく、教師として学生に、「価値からの自由」を教えなければならないとしている。
 マックスウェーバーの「職業としての学問」は、第一次世界大戦後という時代背景の中での思想であり、現代の日本においていかに評価されるべきかは意見の分かれるところであろう。
 しかし、就職を控えた学生に、職業として学問を選択するのであれば、かくあれかしというウェ−バーの考えは、さまざまな職業に就くであろう学生諸君に、今一度職業の持つ意味を考えさせるという意味では、意義を持つといえる。
 就活学生諸君は、この書物を通して、職業倫理を今一度問い直して、就活に励んでもらいたいと思う。
17 2009-6-26(金)
水泳
 トラブルにより破損したので、文章はもとと変わっています。
 夏の一番の楽しみは、なんといっても水泳である。水泳というよりも水遊びと言った方がいいかも知れない。
 われわれが子どもの頃は、プールなどはなく、従って、夏は川へ水遊びに行くのが最高の楽しみであった。
 河の水は流れているので、冷たく気持ちがいい。今は、ダムができて川の水も汚れているが、当時は、きれいな水だった。
 深いところを選んで、もぐったり、流れに乗って泳いだりした。
 最近は、川の水が汚れているのと、市民プールができているので、プールを利用することが多くなっている。
 何十年かぶりに市民プールで泳いでみた。久しぶりであるのと、年齢がいっているのとで、なかなか以前のようにはいかない。
 それでも、気力を出して50mをクロールで泳いだ。ところが、息が苦しく、あがろうとすると、太股に倦怠感があり、足が棒のようになっていた。
 よく言われることであるが、気は昔のつもりでも、体力が落ちていた。まだまだと言うつもりでいたが、その実態にがっかりもした。
 今後も水と親しみたいが、無理をすることなく、水中ウォークも含め、水遊びの精神でいきたいと思っている。
18 2009-6-27(土)
蚊との格闘
 トラブルにより破損したので、文章はもとと変わっています。
 夜中、何時頃だったか、耳元でささやくような「プーン」という蚊の羽音に目が覚めた。
 晩酌を頂いた私の体表からは、多量の二酸化炭素が排出されている。吸血昆虫が動物の排出する二酸化炭素濃度を感じ取り、吸血をすることは動物生理学で証明されている。
 また、蚊柱が立つ時間帯は、夕刻と明け方の二回である。その時期をはずせば蚊に悩まされることはない。
 今回は、明け方であろうか。前日までは、就寝前に殺虫剤を噴霧し、蚊の存在がまったくなかった。今宵は昨日までのことから、殺虫剤を噴霧することなく就寝した。
 ところが、どこから蚊が入ったものか分からないが、たった一匹、めざとく、耳元の動脈をねらってきた。
 灯りをつけ、その一匹をねらったが捕まえ損じた。仕方なく、風上に蚊取り線香を置き、5分ほど経っても蚊の羽音が聞こえてこないことを確認して寝入った。その後、蚊が吸血したかどうかはわからない。
 そういえば、江戸時代の大田南畝という人の作った狂歌にこんなのがあった。「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶ(文武)といいて夜も寝られず」。
 蚊いやね。
19 2009-7-2(木)
コンピュータの故障
 最近、父親を総合病院に連れて行く機会があった。先日連れて行った日は、受付がずいぶん混雑していた。
 すると、しばらくして館内放送で、「現在、コンピュータのトラブルにより大変混雑しご迷惑をおかけします。」とお知らせがあった。
 多少、コンピュータの知識があるので、どんなトラブルか考えてみた。受付処理が遅延していることから考えて、トランザクション処理のトラブルかなと思った。
 トランザクション処理とは、データベースへのアクセスを制御するもので、例えば、同じデータに複数のアクセスがあると、不具合が起こるのを防ぐために、どちらかのアクセスを一時不能にし、その後、待った処理を続行させて、トラブルを回避するシステムである。
 今回のような総合病院では、種々の部門があるので、オンライントランザクション処理を採用していると思われる。
 そのトランザクション処理にトラブルが起こり、受付や集金処理に遅延が生じているのであろうと推測した。
 ハード的なトラブルなのかソフト的なトラブルなのかは興味のあるところであるが、そこまでは聞き出すことはできなかった。
 受付嬢は、「お待たせしてすみません」と平謝りであったが、一番反省を要するのは、病院の上層部の人たちの考え方であるかも知れない。
 トラブル対応は直接利益を生むものではないので、コンピュータ処理に対する知識が不十分であると、このような大きなトラブルに見舞われることが起こりうる。
 トラブルを未然に防ぐシステムやメインテナンスに力を入れ、トラブル発生時には迅速に対応できるスタッフや体制を整えておくことは、病院経営者の重要な役割であるが、システム管理スタッフを十分配置しなかったり、待遇が十分でないと、システム管理者の役割が十分果たされないことにもなる。
 今回のトラブルの原因がどこにあり、今後に向けてどのような対応がなされるのか気になるところである。
 みなさん、コンピュータはあくまでも機械です。コンピュータ処理に期待をするのはよいとしても、コンピュータ処理に振り回されることのないよう、しっかり使う人が管理するようにしましょう。
 私も、コンピュータに親しんでいますが、コンピュータを使い回すことを考えています。
 この機会に、わがパソコンライフのページも参考にご覧下さい。
20 2009-7-11(土)
プロバイダーの容量UP
 今日はうれしい知らせが届いた。私が入っているプロバイダーからのもので、HPの容量が今までの15Mから100MにUPしたというのです。実は、このHPを開設するときに、当該プロバイダーに問い合わせをして、「15Mでは、すぐパンクしますね。」という意見を言ったことがある。そのとき受付嬢は、「今、容量UPの見当をしています。」というようなことを言っていたので、本当かなと思いながらも、内心少し期待ももっていたのです。なので、やったという感じですね。
 さらに、メールアドレスも今まで1個だったのが3個まで無料になり、HPをもう二つ設置することも可能になりました。世の中いいこともあるものですね。
 私の入っているプロバイダーはCATVなので、20011年7月25日以降地デジに移行することもあり、そこもにらんだサービス向上の一環かなと思います。自デジにどう対応するか、各家庭でも、CATVでもそろそろ本腰を入れて考える段階に入ってきたように感じます。我が家では、地域的にテレビの写りが悪いので、CATVに変え併せてインターネットサービスも使ってきています。
 私自身もまだ地デジ対応については十分検討していないので、今後、ぼちぼち地デジのことについても勉強していきたいと考えています。自分が獲得した知識については、消費者の立場から皆さんにも発信していきたいと思います。
 地デジのこの流れは、止められない流れなので、竿をさすことはできません。そうではなく、流れにうまく乗る竿の使い方を探らなければなりません。
 みなさん、地デジへの対応を一緒に考えましょう。 
21 2009-7-13(月)
一期一会について思う
 仏教用語に「一期一会」という言葉があります。一生に一度かぎりの機会という意味です。
 私はこのことを自分に当てはめて、果たして一生で何人の人に出会えるだろうかと考えたことがあります。
 一日に平均して一人ずつ新しい人に出会うとすると、人生80年として、29,200人です。少ないですね、一日10人ずつ新しい人との出会いがあるとすると、約29万人です。そう考えると、自分の人生というのは、本当に限られた人とのつきあいの中で成立していると言えそうです。
 だから、人々は色々な出会いを求めて外国などへ旅をするのかも知れません。本人は気づいていなくても、実は人間として新しい人との出会い「一期一会」を求めているのではないでしょうか。
 そう考えると、この「一期一会」の持つ意味が少しは分かるかも知れません。
 何も自分にとって都合の良い人とではなくても、一度きりの人生と考えれば、できるだけ色々な人と出会いたいと思うのは、人間の本性と言えそうです。限られた短い人生の中で、一回一回の出会いを精一杯大切にしたいというのは、欲得抜きの大切にしたい視点でです。
 私が、このHPを開設したのも、心底には、「一期一会」の精神が知らず知らずのうちに出たものかも知れません。
 みなさん、「一期一会」の精神を大切にして、いろんな人との出会いを大切にし、1回切りの人生を豊かなものにしましょう。
22 2009-7-17(金)
ピカドン(稲妻・落雷)
 ピカドンといえば、日本に悲惨な結果をもたらした原子爆弾の別名であるが、ここで言うピカドンは、自然現象のそれである。つまり、稲妻・落雷のことである。今日未明、激しいピカドンに見舞われた。私は、小さいときに、家のすぐ近くの電柱にピカドンが落ちたのを経験している。この話は、回想編でまた紹介したいと思う。
 とにかく、今日未明のピカドンももう少しで落ちる勢いであった。ピカっと光ってすぐにドンと来ると、科学的に言えば発生源が非常に近い、ご存じのように、光と音の速さは、約300万倍の差がある。発生源が遠ければ、速度の差により、光ってからの時間に音の速さを掛ければよい。
光ってからt秒後に雷の音が聞こえたならば、
V=V0 + 0.6T で求めたその温度での音の速さに、時間を掛けて、
S=Vtで求められる。
例えば、気温15℃、光ってから2秒後に雷の音が聞こえたとすれば、発生源は、約680m先ということになる。
 今日未明のピカドンは、強い稲光の後、程なく大きな落鳴がとどろいていたので、かなり近距離でのものであった。幸い、ドンと落ちることはなかったものの、ひやひやものであった。
 また、科学的に言うと、ピカドンは空気中の窒素をNOxの形態で捕獲する。その量は、
年間で54,000,000トンになるとされている(この辺の詳しいことは、修士論文で紹介している)。昔から、落雷のある田んぼは収穫量が多いと言われている、それは、自然の窒素肥料が施肥されることによる。
 自然現象というものは功罪両方があるが、この稲妻・落雷もその一つである。
 しかし、臍(へそ)をとられなくて良かった。
23 2009-7-26(日)
京大霊長研公開講座に参加して
 7月25・26日(土・日)の両日、京大霊長研講座に参加した。今回で3〜4回目であるが、参加するたびに新しい発見がある、私の楽しみにしている講座の一つである。
 3〜4回目であるにもかかわらず、一日目、行く先を間違えてしまった。犬山市ヘ向かうべき所をどういうわけが一宮市にしてしまった。思えば、昨日、列車の時刻を確認するために電話した鉄道会社への問い合わせの時点から、開催地を一宮市と間違っていたようである。
 私自身は、昨日確認した通りの電車に乗り、到着駅に降り立ったが、これまで来たのと全く感じが異なることに気付き、霊長研から送られてきた通知書に目を通すと、なんと行く先は犬山市であることに改めて気が付いた。人間の思いこみとは恐ろしいものである。そのときまで、私の意識の中には、京大霊長研は、一宮市という意識が刷り込まれていた。何の疑念も感じないまま、一宮市に降り立ったのであった。
 その時点で、開講10時に30分前である。駅員に犬山市への最短必要時間を確認すると、どの路線をとっても、犬山市到着は10時30分を越える、という。
 やむを得ず、霊長研に遅れることを連絡し、岐阜経由で犬山市へ向かう列車に乗り込んだ。この列車は岐阜駅乗り換えであったが、その岐阜駅でも乗り換え時間をロスし、結局、目的の犬山市に着いたのが10時45分であった。講座が開始されて45分が経過している。
 駅を出てタクシーを拾い霊長研に向かった。霊長研に到着したのが11時であった。あらかじめ遅れることを連絡してあったので、丁重な出迎えを受け、講座に参加したのが11時10分であった。
 蒸し暑い日であったが、冷や汗が混じって、講座に参加した時点で汗が噴き出し、落ち着くころには、午前中の講義が終わっていた。
 いやはや、記憶に残る霊長研の講座一日目であった。
24 2009-7-31(金)
温故知新と不易流行
 温故知新は、故きを温ね新しきを知ると読みます。意味は昔ながらの古いものの中に現在にも通じる新しいものを見出すということで、こうすれば師になれるという論語の一節です。
 私は、この言葉ともう一つ、不易流行という言葉を大切にしています。その意味は、不易即ち永遠に変わらないものと、流行即ち時代とともに変化するものの両者は、ともに大切にされなければならないということです。こちらは松尾芭蕉の言葉のようです。
 私は、これらをセットにして本質主義の考え方ととらえています。私のHP全編を通じて、これらの言葉の精神が貫かれているかも知れません。
 特に、教育の面では、この言葉の持つ意味は重要です。
 人間が人間を教え育む、それには昔も今も変わりなく大切にされなければならないものがあります。生きている者同士の真剣な中にも温かさのある営み、それこそが教育であるのでしょう。
 この大前提から生まれてくる、尊敬と感謝と意欲、これらの感覚を身につけることが教育の基盤だと思います。極限すれば、教師は生徒のやる気を引き出し持続させ、そのことを通して、生徒が尊敬や感謝の念を持てれば、その教育は成功していると言えると思います。
 例えば、しつけの大切さやしつけの仕方については、三つ子の魂百までの言葉を借りるまでもなく、昔ながらの親と子の一対一のふれあいの大切さが基本になっています。
 昨今、親子の殺傷沙汰が日常茶飯事のように報道されていますが、今一度、これらの言葉の持つ響き、意味をじっくりと考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 私は、便利さや流行ばかりを追いかけるのはいかがなものかと考えています。その反面で見落としている大切なものがたくさんあると思うからです。
 便利さや流行を少し犠牲にしてみる、現代社会で生きていくのには結構難しいことかも知れません。しかし、あえてそうすることで、「温故知新」「不易流行」の持つ意味を問い直してみるのも大切ではないでしょうか。br>  私自身は、古い人間なので、温故知新の温故、不易流行の不易の方にやや重きがいっていますが、これらも字義どおりバランスが大切です。
25 2009-8-6(木)
蝉(ヒグラシ)の生きざま
 今日は、私の住んでいる隣家のおばあさんが亡くなって葬式の日であった。
 生まれて初めて、葬式日の日の出前に鉦を叩く役を仰せつかった。
 朝、4時45分に起きて5時から鉦を叩くことになっていたので、寝過ごさないかとうつつのまま4時45分を迎え、鉦を取りに行った。
 屋外は灯りがこうこうとついていたが、まだ家人の人は寝入っていた。
 そこへつく間、出会った動物は、城山の木立から聞こえてくるヒグラシの鳴き声であった。ヒグラシとはよく言ったもので、夜通し鳴いているようである。
 蝉は土の中で8年間、外に出て鳴き始めて2週間の命であるらしい。ヒグラシは一日中鳴き通しで短い一生を終えるのであろうか、すさまじい人生である。
 お寺の前で鉦を打ったが、その場所へ行くとお寺で飼っている黒猫が私の方によってきて、「にゃあお」と歓迎してくれた。お寺さんだけに、良く仕込まれている猫だなと思った。
 おかげで初挑戦は大成功。その代わり、今後しばらくは、私が鉦を打つ役にあてられそうである。やや複雑な心境であるが、今日のところはやれやれである。
 人生60年にして初経験。これからも、死ぬまで人生修行が続きそうだ。
26 2009-8-9(日)
シカン展から
 東京へ出張のついでに、国立科学博物館で行われている「特別展 黄金の都 インカ帝国のルーツ シカン展」を見学した。このシカンの発掘には、日本人の考古学者 島田 泉教授が精力的に取り組んでいる。
 このシカン文化はインカ帝国があったと同じ南米ペルーにある。シカンとは、島田教授が名付けたものであるが、「月の神殿」という意味である。また、この発掘には、TBSテレビが協力しており、「世界、不思議発見」という番組でも取り上げられている。
 展示によれば、ピラミッドの地下発掘により、王様級の墓が発掘され、その人骨や1トンを越える装飾品が見つかっている。そして、人骨からCGにより、王様と思われる人物の顔が再現されている。
 人骨のレプリカも展示されていたが、後頭部が人工的に絶壁頭になっている。
 私が見た感じでは、今から1000年以上前のシカン文化は、トウモロコシを主食とし、ラクダ、無毛犬、ザリガニ、ヘビ、イモガイ、ウミギクガイ、マメ科植物アルガロボなど、自然の動植物との共生が感じられる。ちなみに、マルがロボは空中窒素を固定する。
 シカン文化だけに限らないが、古代の文化は、生き物の命を神聖なものとして扱っている。しかし、それは、国王を頂点とする権力構造のなせるわざである。
 すなわち、国王は自分の命を長らえるために、自分のために祭り上げた神に神聖な命を捧げさせる形で、動物や人の命を生け贄とし、自分の延命を図ったものと考えられる。
 それは、国家権力が発生する以前の文化には、動物や人の生け贄という風習はないことからも伺い知ることができる。
 人間社会に権力構造が誕生して以来、色々な意味づけをして、生き物の命が軽く扱われているのを見る思いである。
 8月9日、長崎原爆の日の今日、展示見学をしながらそんなことを考えさせられた。
27 2009-8-17(月)
人間はどれくらい速く走れるか
 世界陸上選手権で、素晴らしい世界新記録が達成された。日本時間の8月17日午前に行われた100m決勝で、ジャマイカのウサイン・ボルト選手が9秒58という驚異的な世界新記録で優勝した。
 昨日の中継の途中まではテレビを見ていたが、なかなか準決勝が行われないので、寝てしまった。また、今日は朝刊がなかったので、気になって帰省している息子に聞くと、インターネットニュースで世界新でウサイン・ボルトが優勝したということだった。
 早速、ネットニュースで確認すると、9秒58という驚異的な世界新記録で優勝とあった。二次予選までは、テレビで見ていたが、力をセーブしておどけて走っていて10秒を切る記録は出していなかったので、驚きである。
 よほど自信があったのだろう。むしろ、自分の本当の力を封印するのに気を使っていたのではないだろうか。
 今、ちょうど、身体論のことを取り上げているときだったので、このニュースはタイムリーであった。
 陸上の最速動物はチーターで100mを3.2秒で走るといわれている。なぜ四足動物はあんなに速く走れるのであろうか。さまざま研究者がさまざまな研究をしている。
 そういえば、競馬の馬を見ていると、歩くときの足の使い方と走っているときの足の使い方は異なっていることに気づく。馬の足の使い方には、常歩(walk)、速歩(trot)、駆歩(galop)などがあり、馬術競技では、これらがうまく行われているかを判定する。
 この馬の例のように、四足動物では、速く走るときには足の運び方を変えて最も効率的に走るようになっている。二足のダチョウも時速50kmくらいで走るらしい。
 これら他の動物(特に、二足走のダチョウなど)の走るメカニズムや骨格・筋肉などの運動生理学的研究によって、人間が更に速く走るためのヒントを得ることができるかも知れない。
 みなさん、こういうニュースを聞くと、科学的な分析のおもしろさを感じませんか。
28 2009-8-18(火)
世界陸上選手権大会に思う
 世界陸上の男子100m決勝、女子100m決勝に残った選手は、すべて黒人であった。DNAのなせる技かもしれないと思った。
 人類がアフリカ大陸から始まったことを思うと、それもありうることかなと思う。
 なぜなら、人類が類人猿から分かれて人類になったとき、おそらく、自然の中で走り、跳び、投げなどの人体動作を発達させていったと思われるし、その後、世界の各地に渡っていった人類は、そのような人体動作を残しながらも、文明を発達させ、より人力を必要としない道具・機械を発達させ、その分、身体能力を衰えさせていったと考えられるからである。
 男子100m決勝で優勝したボルト選手と二位のゲイ選手、三位のパウエル選手の記者会見があった。三人とも黒人であるが、結果は結果として、三人ともそれぞれ一律に切磋琢磨しあってきたことをたたえ合っていたのが印象的であった。
 私は、スポーツの良さは認めるものの、勝ち負けを最大の物差しとするやり方には必ずしも賛成ではない。上述したように、このような競技の場で活躍することが、自己のアイデンティティを表現する唯一の場だとしたら、それは寂しいことでもある。
 三人とも会見の中で第二次世界大戦前最後のヒトラーによるベルリン大会でのジェシー・オーウェン選手や最近のカール・ルイス選手のことを思い浮かべていたのかも知れない。
 USA大統領に初の黒人大統領が誕生したことと併せて、彼らの活躍がかけ値なく正当に評価させることを望みたいものである。
 それにしても、私にはできない走りで興奮を与えてくれたボルト選手には拍手喝采である。
29 2009-8-25(火)
身体論(1)
 このごろちょっとしたきっかけがあって、身体論のことを調べている。身体論という言葉は聞き始めだったので、ちょうどいいきっかけだと思って調べ始めた。やってみると、なかなかの難問である
。  身体論という言葉は、英語では「body theory」と言って、身体とは何か、身体はわれわれ人間にとっていかなる意味や価値を持つのかを研究する学問領域である。
 そのきっかけは、私が「読書のページ」で取り上げたデカルトの心身二元論が発端となっている。ちょうどデカルトのことを見直していたところだったので、その延長線上で「身体論」を少し研究してみようということになった。
 私は、広く浅くつまみ食いするのは性に合っていないので、やるからにはある程度のレベルまでやりたいので、今回も少し深入りしそうな気がしている。
 しかし、われわれ人間自身の肉体と心の関係論のことなので、興味のある課題である。
 ここでは、代身体論の発端となったメルロ・ポンティの理論を中心に私なりの解釈でときほぐしてみたいと思っている。
30 2009-8-28(金)
 8月18日以来、我が家の住居部屋に入り込んだネズミを捕獲した。8月28日(金)午前零時をすぎた頃であった。
 昨日の時点で、私のパソコン部屋から応接間に移動したことが分かっていたので、昨日の夜、応接間に粘着式のネズミ捕り器を三個通り道と思われるところに設置しておいた。
 そして、一日経って、妻が仕事から帰ってきて、早速、応接間を覗くとまだなんの変化もなかった。それが、午後7時半頃のことである。
 そして、夕食をすませ、次女が帰ってきて応接間に入ると、いきなりけたたましい声が聞こえた。「お母さん、ねずみがつかまってる」と言うのである。
 それを聞いた妻は、「お父さん、ねずみがつかまったって」とこちらへ振ってきた。いつものパターンである。
 応接間へ駆けつけると、据え式エアコンの近くに置いた粘着式ネズミ捕り器にネズミが引っかかっている。ついでに、コードも巻き込んでいる。
 私は、ティッシュで自分の手に付かないように注意しながら、絡まっているネズミのしっぽとコードを離した。
 そして、新聞紙や紙のゴミと一緒に、焼却炉に向かい、下に新聞紙を敷き、その上にネズミの捕まったままのネズミ捕り器を載せ点火した。
 これまでにも、ネズミ捕り器に捕まったネズミを水につけて見届けたことがあるが、今回は火での見届けとなった。
 命というキーワードが微妙な感覚で私の頭の中をめぐる。
 自分自身が命を持つ生物であることが複雑な心境にさせる。
 とにかく、ネズミに合掌。
31 2009-8-29(土)
身体論(2)
 身体論二回目です。
 現代身体論の提唱者メルロ・ポンティは、身体論に関わる病的事例を検討し、健常者との比較研究から、身体論を組み立てたようである。
   メルロ・ポンティの身体論は、デカルトの心身二元論を批判的にとらえ、実存という概念を用いて、実存は主体のダイナミックな統合体であると論じている。
 私の理解したところでは、デカルトをはじめとするいわゆる近代哲学者は、心を身体と切り離し、心(意識)のさまざま側面を時間軸を考えに入れず、すなわち、今ある自分の意識の有り様を深く考え論理を展開している。
 それに対して、メルロ=ポンティは、心にも身体にも時間軸を重要なパラメータとして取り入れている。
 心と身体を一体のものとしてとらえたことと、時間軸を重要な論点として入れたところにメルロ=ポンティの独自の視点があると思われる。
 即ち、われわれはいつも明瞭な意識によって対象を表象したり概念を思考したり、また人格的な態度によって行為を決断しているわけでなく、それに先立つ有機体としての生の営み、身体の運動によって他人や対象を知覚し、さまざまな振る舞い方でそれらと交流している、としている。
 従って、メルロ=ポンティによれば、どのような場合にも実存とは、心的でもあり身体的でもある。即ち、ある意識が実現されるにはそれにふさわしい身体的な構えが必要であり、また、どんな身体的な振る舞いにも意識が含まれている、とする。
 そして、サルトルのいう客観的思考が前提とする即自と対自の二分法から実存という心身統一体へ溯るには、まず客観的身体として定立する以前の自己の身体経験がいかなるものであるかが解明されなければならないとして、身体図式を解明に必要な概念として提案している。
32 2009-9-4(金)
30年前の思い出
 懐メロ歌謡番組に「菅原都々子」さんが出ていた。1927年生まれというから、齢80才を越えていると思われる。1955年のヒット曲「月がとっても青いから」は、私も知っている歌である。
 「都々子」という名前が変わっているのと、歌い方が変わっていて、印象に残っている。
 今から、30年ちょっと前、私は、きっかっけがあってアメリカに1週間旅をしたことがある。そのとき、出会った人の中に「◯◯都々子」さんという人がいた。姓は違うが、珍しい名前なので聞くと菅原都々子さんはおばであるという。
 そのときから、「都々子」という名前に親近感を感じるようになった。
 アメリカ旅行の時、その人は私と一緒くらいの年だったので、たぶん、今は60才くらいになっておられるであろう。今も「菅原都々子」さんと行き来があるのがどうか分からないが、菅原さん共々、元気でいてほしいと思う。
 ついでに言うと、この旅行で仲良くなった人が何人かいる。
 皆さんそれぞれに活躍しておられる。
 午前2時頃まで一緒にウォッカを飲み合ったある人は、今や自然食品の大家となっておられるし、また、別のある人は単身大学教授として九州でがんばっておられる。
 時の歩みというものは不思議なものです。
私はと言えば、こうやってHPの更新に向かっている。
 みなさん、それぞれに過去を含みながら今を生きている。
 たまに、立ち止まって振り返るのもいいものですね。
33 2009-9-6(月)
地デジ対応
 先日、法務省が主催する巡回地デジ説明会に参加した。
 地デジについては、ある程度の知識はあったが、不確かな点もあるので、確認するために参加した。
 私の現時点での理解は、以下の通りである。
 世界的な趨勢の中で、電波の再割り当ての必要性から、今回の地上デジタルテレビ放送が日本でも開始されることになった。全面開始は、2011年7月25日の予定である。この地デジに割りあてられる電波は、これまでのアナログテレビのUHF放送で使われていた帯域の再割り当てである。この帯域を有効に使うために、アナログからデジタルに移行するというものである。従って、これまでのVHFのテレビ帯域は全面廃止となり、他に割りあてられることになる。
 このテレビの地デジ化によって、現在、デジタル機器の中心であるコンピュータとテレビとのコラボレーションが話題となっている。それは、コンピュータ側からのものと家電側(テレビ側)からのものとがある。
 コンピュータはデジタルであり、テレビはアナログであるという違いがあるが、これは今回のテレビのデジタル化で解決される。
 もう一つの視点は、コンピュータはパソコンと言われるほどパーソナル化(個別化)しているが、テレビはマスコミ(大衆媒体)の代表である。
 両方デジタル化されることで処理方式は統一されるが、それぞれの持つ社会性の違いをどうしていくかが問題となる。
 これまでの様子を見ていると、家電側(テレビ側)は、パソコンの持つデジタルの便利さをテレビにも持ち込もうとしているし、パソコン側はテレビの持つ報道性や大衆媒体機能をパソコンでも利用しようとしているようである。
 しばらくの間は、テレビとパソコンそれぞれが相手のメリットを自分の側でも活かそうとするであろう。それが一段落した後、どのような展開が待っているか楽しみである。
 教育的には、小さい時からデジタルで育った世代が、その後、アナログ的な人間関係の作り方やコミュニケーションの作り方に影響がでないかどうか心配がある。
 これまでにも、テレビで育った世代、パソコンで育った世代にさまざまな教育上の問題点が指摘されているが、それ以上に大きな今回の地デジへの移行は、この後の世代にどのような影響を与えるか注視したいと思う。
34 2009-9-16(水)
身体論(3)
 身体論三回目です。  ここでは、現代身体論の唱える具体的な問題点やそれに対する取り組みの例を紹介してみたい。
 現代身体論が人々の意識に上るようになったのは、子どもの体格は向上したが体力は低下しているという調査結果がきっかけではないだろうか。例えば、躓いて倒れるときに現代の子どもは手を出すことができず顔から倒れていくとか、小さい時から子どものからだが硬いなどという現象である。
 その原因を探っていくと、食料事情が良くなった、生活スタイルが変わった、外で遊ぶことが少なくなった、などさまざまの原因が考えられる。
 これらをもう少し深く、歴史的に考えると、現代身体論の唱えるものと重なってくる。
 そのときのキーワードがメルロ=ポンティに始まる心身一元論の考え方である。
 例えば現代少年の身体の問題は、身体の問題だけでなく、心の問題も含んだ大きな社会問題、教育問題、医学問題あるいは政治問題でもあると考えられるのである。
 少し前になるが、旅客機のパイロットが心身症という病気が原因で墜落事故を起こしたことがあったが、これもまさに身体論の問題である。
 これら現代の身体問題に対する切り口としてさまざまなことが検討されているが、その中の一つとして「歩行」問題が重要な身体問題として取り上げられている。稲垣正浩氏の「身体論−スポーツ学的アプローチ」という著書を参考に取り上げてみたい。
 稲垣氏は、日本人の現代歩行の基本となっている右手と左足、左手と右足を交互に出す歩行は、明治政府の富国強兵策の一つとしてドイツから輸入された軍隊式歩行法からきており、日本古来の歩行形式ではなく、このことが、現代に至る日本人の身体問題に大きな影響を与えていると指摘している。
 そう思えば、小学生の歩行練習で、時々、右手、右足を同時に出す歩き方をする子を見かける。学校教育では、これを右手、左足の歩行法に矯正するのである。
 私自身も、そんなことは気にもとめず、小学校時代は、ただひたすら右手、左足の歩行法に精通しようと一生懸命になったものである。
 この知らず知らずのうちに右手、左足歩行法が日常生活にまで入り込み、身体問題の遠因になっていると稲垣氏は指摘している。
 つまり、日本人全員に強制的に一律の歩行法を持ち込み、日本古来の精神文化まで変えてしまったというのである。
 ナショナリズムというのではなく、それぞれの国のアイデンティティを捉え直すという視点でこの稲垣氏の指摘を捉えれば、なかなか鋭い指摘ととらえられるのではないだろうか。
35 2009-9-22(火)
方言を考える
 今、いろいろな影響(特にテレビの影響)によって、各地域の生活に根ざした〜弁といわれる方言がどんどん忘れ去られようとしているのを感じる。
 私の住む地域にも、特有の方言がある。たとえば、ヘビのことは「くちなわ」、生い茂った草むらを「ごそわら」、座ることを「しこる」などという具合である。
 例えば、生活の一場面としてこんなことがある。
 私が20才くらいまで住んでいた古い木造家屋には、「つし」(家の屋根と天井の間)があって、そこにはアオダイショウという無毒のヘビが住んでいて、ネズミを捕って食べてくれていた。従って、年老いた父母に聞くと、アオダイショウは殺してはいけない、という。
 また、渡り鳥の代表であるツバメも玄関などの巣を作るのを妨げてはいけない、それは、稲などにつく害虫をとってくれる益鳥であるからである。
 このように農村生活に密着した中から派生してきた方言は、その土地の歴史を含み、長い時間をかけて育まれてきた、その地方独特の文化である。
 それが、最初に述べたような影響によって、小さいときから耳に入る標準語と言われるものが一般的となり、生活の中で地方語を覚えたり、使ったりすることが少なくなってきている。
 我が子も、時々、私の母親(祖母)と会話しているのを聞くが、我が子には祖母の話す言葉が理解できず、「えっ何?」という返事を返している場面に時々出会う。
 学校の先生も標準語が当たり前になってきていて、地方語(方言)での授業は見かけない。
 このように、科学技術の進歩、東京一極集中などさまざまな社会の変化に伴って、すべてのことが標準化している。
 確かに、私が小さい頃の生活から見れば、現在の生活は便利・快適であり雲泥の差がある。
 しかし、経済的な豊かさはここまでくればもう十分ではないかとも思う。
 戦後復興の先人の努力に感謝しつつ、これからは、もっと、戦前の日本文化にも目を向け、その中にひそむ良さを見直すことも大切な時代ではないだろうか。
36 2009-9-25(金)
身体論(4)
 身体論4回目です。
 1回目にお断りしたように、やっぱり深入りしてきました。
 今回は、若い女性に人気の「ダイエット」にかかわる身体の問題を考えてみたいと思います。
 ここ近年、若い女性のダイエットブームは異常とも言えるほどである。
 我々男性から見れば、もっとふくよかな方が女性らしくていいんじゃないの、という疑問を挟む余地がないほどに、痩身願望は神話となっている。
 ダイエットの魔にはまる人は、極めて真面目で、努力家の人が多いと言われている。
 数値化された目標設定は、克服すべき具体的なハードルとして示され、体重が落ちなかったり、体型が理想的にならないのは、自分の努力が足りないせいであると思い込み、さらなる努力を重ねることになる。
また、他者からの評価や言動がその行為に拍車をかける。
「最近太ったね」
「痩せればもっときれいなのに」
というような無責任で破壊的な言葉が、体型を気にする人の心にしこりとなって残る。
 永遠に終わりのない戦いは、今日もあちらこちらで繰り広げられている。新聞記事の中にも、一つや二つは必ず痩身のすすめのような記事がある。
 自分の身体は、自分で決める。
 メルトポンティ流に言えば、身体は、自分の歩んできた歴史を反映しているのだから、今ここにある身体を否定されることは、今までの自分の生を否定されることと同じだ、ということになる。
「太った身体を否定し、痩せた身体こそ美であるとする単純な神話構造」と「他者の体型に関して否定的な言葉を投げかけるという無神経な行為」が相まって、ダイエット信仰に拍車をかける。
 ゆえに、身体論的立場からは、今の自分を肯定的に捉え、自分は自分でしかない、周囲や社会の意識に踊らされることなく、今の自分を基点として、自分らしく生きることを探求することが大切である。自分の身体は、彫刻のように思い通りに切り刻むことはできないのである。
(昔の自分と今の自分の写真を見比べたとき、どう思うと思わざるとに関わらず、今の身体になっているのです。意識・考え方も過去を含んで今になってきているのです。ならば、これからも、そのようになっていくのです。)
 過去の身体図式の上に今の自分がある、それは、身体も心もです。
 同時に二つの身体は手に入らないし、あなたの身体は、あなたのものでしかない。
 そう思ったとき、あなたはあなた自身になるのです。
最後は何かの教祖様のような言い方になってしまいましたが、みなさん、自分を自分らしく生き、一度きりの人生を心も身体も穏やかに過ごそうではありませんか。
37 2009-10-1(木)
地域医療を考える
 先日、「◯◯の地域医療を考える」フォーラムに参加した。
私が今回、このフォーラムに参加しようと思ったのには、二つの理由がある。
 一つは、最近、自分と同じ集落に住む仲の良い同級生が、仕事中に急性心筋梗塞で倒れ、危うく一命ととりとめた。見舞ったときの彼の弁によると、総合救急病院の近くだったので一命を取り止めたが、離れていたら死んでいたかも知れないということだった。我々の近辺でも、救急患者の受け入れはなかなか難しいと聞く。この出来事があってから、これは人ごとではないと感じていた。
 もう一つは、私の高校の同級生が総合付属病院の病院長になっていて、病院長として今回のフォーラムに参加するということだったので、彼の発言を聞いてみたいと思った。
 従って、目的はパネルディスカッションを聞きに行ったのであったが、パネルディスカッションの前にアグネスチャンさんの基調講演があった。
 アグネスチャンさんの講演は知らなかったので、プラスαでラッキーだった。
 アグネスチャンさんは「明るくさわやかに生きる〜アグネスが見つめた命〜」と題して、自分の乳ガンとの闘いを熱っぽく語られた。
 自分の命や死期を意識したとき、人は変わるという。アグネスチャンさんはまさにその通りであった。
 あのアグネスチャンさんが、「私は、乳ガンの手術をしたとき、生理があった」といわれた。私は驚いた。当代一流の女性歌手が自分の秘密にもしたいことをあからさまに語ったのである。改めて、アグネスチャンさんは、この乳ガンとの闘いで自分を一個の人間として見つめ直したのだと感じた。
 それ以降、アグネスチャンさんは、これまで以上に色々な活動に積極的に取り組まれているという。ますますがんばってほしいものである。
   その後のパネルディスカッションは、時間は短かったが、それぞれのパネラーがそれぞれの専門的な立場で、地域医療について発言し中身があった。同級生の病院長も、大学現場での学生への取り組みや、付属病院の取り組みを熱っぽく語っていた。
 医者不足解消や地域医療の充実の実現には時間がかかるが、現時点で住民のすべきことは、プライマリケアとしてかかりつけ医師を持つことであるという医師会会長の言葉には長年の医師生活に裏付けられた重みがあった。
 午後は、具体的な三つのテーマで住民参加型の分科会が予定されていたが、私は「どうする!救急医療」で、死にかけた同級生の例を引いて発言してみようと思ったが、自分自身の経験ではないので発言に自信がもてず引いてしまった。
 しかし、このフォーラムは、自分のこととして地域医療を考えるよいきっかけになった。
 みなさん、自分の命を自分で守るきっかけとして、近くの医者と知り合いになっておきましょう。
38 2009-10-10(土)
身体論(5)
 身体論5回目、最終回です。
 今回は、現代身体論に対する一つの切り口として、中西悟堂氏とジャック・マイヨール氏を取り上げます。
 (二人とも身体論に関係する人物である。)
 中西悟堂氏は、(その名前の如く、)座禅を自分の主行とした天台宗の僧侶であり、「日本野鳥の会」を立ち上げた人である。
 ジャック・マイヨール氏は、伝説的ともいえるダイバーであり、素潜り105mの記録を持つ人である。
 この二人に共通するのは、座禅を修行とし、自然を大切にし自然との一体感を持つということである。
 中西氏は、森林の中で座禅をし野鳥と交流し、マイヨール氏は、船上で座禅をし海中でイルカや鯨と交流する。
 二人とも、常人から見れば超越的な境地に至っている人であるが、これは、現代身体論にも通じる内容を含んでいる。
 座禅・瞑想を通じて無の境地に至ると身体的にも変化が起きる。呼吸数や脈拍数が減り、体温が低下する。そして、心も身体もリラックスした状態となる。この状態で活動することにより、周りの自然(生物を含む)に対して開かれた心・身体となり、それらとコラボレーションすることが可能になる。その象徴が、小鳥やイルカとの交流である。
 デカルトに始まる近代哲学の論理は、心と身体を切り離し、心を個人的に閉じたものとして徹底期に探求するものである。
 その論理では、心と身体のアンバランスからくるさまざまな問題を解決する術とはなり得ない。それは、現代の複雑な心身に関わる問題を見れば明らかである。
 これら複合的な身体問題打破の一つとして座禅による心と身体の開放という手法が考えられる。その代表が、中西悟堂氏やジャック・マイヨール氏である。
 身体論的に言えば、自分の心と身体を開き周りと一体になるということが重要なキーワードである。
 彼らの過ごした人生をすべての人に広げるには無理があるが、その生き方を参考にすることは可能であるだろう。
 これまで5回にわたり取り上げてきた身体論に関する私のコメントが、みなさんの身体問題を考えるきっかけになればと願っている。
39 2009-10-25(日)
新型インフルエンザ
 このごろ、新型インフルエンザのことが大きな話題となっている。
 私は、この間の感染者もしくは感染の疑いのある人への接し方は、行き過ぎではないかと感じている。
 この件について十分な警戒を要することは認めるものの、報道を含めて、その扱われ方は、まるで犯罪者や容疑者のようで人権侵害にもなりかねない。
 なぜ、これほどまでしなければならないのか、私なりに解きほぐしてみたいと思う。
 インフルエンザは流行性感冒のことで、過去にも、スペイン風邪や香港風邪として大流行したことがある伝染性の強い風邪である。
 インフルエンザは、病原性ウイルスによるもので、ウイルスは、生物ではなく、生物と無生物の中間的な存在で、自分では増殖できないが、他の細胞に入り込んで、その中で増殖することができる。ウイルス生命起源説があるくらいで、生命にとって微妙な存在でもある。インフルエンザウイルスは、DANの代わりにRNAを持ち、DNAよりも変異を起こしやすいのが特徴である。今回の新型インフルエンザ騒動も、そのことから来ている。
 インフルエンザウイルスは、その表面にヘマグルニチン(Hと略称)とノイラミニダーゼ(Nと略称)の二種類の糖タンパクを持ち、これで、宿主細胞に入り込み増殖する。このHとNがRNAにコードされているので、変異を起こしやすく、種々のタイプのインフルエンザウイルスがあり得ることになる。
 現在分かっている範囲で、インフルエンザウイルスには、3種類あり、A型、B型、C型と分けられている。その中で、特に大流行する型がA型で、H16種類、N9種類あり、組み合わせによって理論上A型は144種類あることになる。最近、大きな問題となった鳥インフルエンザは、もともと鳥の間でしか伝染しなかったA型の一つが人への感染力を持つように変異しつつあるといわれている。この鳥インフルエンザは、人間にはまったく新しいタイプなので、人間に感染すると免疫がないので重症化しやすいとされている。この鳥インフルエンザが変異を起こし、新型インフルエンザになることが最も警戒されている。
 そのため、今年5月、WHOがフェーズ5を発表し、世界に衝撃が走った。フェーズ5とは、世界的な流行が差し迫っていると考えられるため、流行低減のため、組織的、計画的な対策、意思疎通を、迅速に行なうべき段階であるという内容である。現在まだ流行はしていないが、世界大流行の危険性があるというので、大騒ぎになった。
 現在、流行しつつある新型インフルエンザは、H1N1型の亜種で、これまでのいわゆる季節性インフルエンザに近いものであるが、新型インフルエンザの中に鳥インフルエンザの変異種が紛れ込んでいないか、かなりオーバーヒート気味に警戒が呼びかけられている。
 みなさん、この機会に、ふだんの手洗い、うがいなど予防を心がけるようにしましょう。
40 2009-10-28(水)
黄砂
 今回は、私のHPのリピータの方から「黄砂」のアレルギーとの関係について取り上げてほしいと要望がありましたので、その特集をします。
 ただし、私自身は医学者ではないので、医学的に厳密なコメントではないかも知れませんので、その点は差し引いて読んで下さい。
 ご存じのように、黄砂とは、中国大陸のタクラマカン砂漠あたりを中心とする複数の砂漠地帯の砂が偏西風などに乗って、日本などにやってくる現象です。
 地質学的な調査から、日本では7万年くらい前から黄砂現象があったことが確かめられています。
 黄砂そのものがアレルギーを引き起こすものではないという実験結果がありますが、黄砂粒子に種々の大気汚染物質等が付着して、それがアレルギーを引き起こすようです。
 日本に飛来する黄砂粒子は、3〜4ミクロン程度のものが多いようで(1979年の調査)
、この大きさだと100〜200ミクロンの肺胞に入り込み、さらに、7〜10ミクロンの毛細血管にも入り込み、全身を巡り、特に高い血圧のかかる腎臓の原尿を作る糸球体などを傷つけるといわれています。ただし、3〜4ミクロンの黄砂粒子は小さいので、肺胞にまで達するのは、濃度の3%程度といわれています(ちなみに、スギ花粉は30ミクロン程度)。
 従って、結論的にいうと、アレルギー症状のある人は、黄砂に付着している汚染物質等により悪化する可能性があるので、マスクを着用するなど対応が必要であるということになります。もちろん、黄砂に関する疫学的研究はまだまだ不十分で、これからの研究分野のようです。
 最後に、黄砂現象は色々な被害を及ぼすので、悪者のように扱われますが、古来から風物詩にも歌われています。春霞、おぼろ月夜など、特に春の風物詩としても有名です。
 最近、黄砂が問題視されるのは、人間による人災の側面がとりざたされているからですが、それへの対応はもちろんとして、日本で少なくとも7万年も前からあった黄砂現象とうまくつきあっていくことも大切なのかもしれません。
41 2009-11-3(火)
遠き落日
 妻がDVDを借りてきた。その中に、「遠き落日」という邦画があった。
 内容も知らず見ると、このHPの読書のページで紹介した野口英世博士の物語であった。
 そこで紹介したように、野口博士の物語は、私の少年時代にとって最もインパクトの大きかったものの一つである。
 野口博士の医学上の業績や名声を得るようになってからの個人の生活態度や業績については、異論の声があることも承知している。私は、敢えてそれを否定するつもりはない。
 私が共感を覚えるのは、やけどでくっついてしまった左手のコンプレックスから立ち上がっていく少年時代の清作少年の姿である。
 少年の多感な時代には、自分が引け目に感じることには人一倍敏感である。そのことを胸の奥に秘めつつ負けるものかと一心にがんばる姿に共感する。
 私も還暦を超え、今改めて自分の人生を振り返ってみると、自分に負けてなるものかとがんばってきた自分を思い出す。
 今回、DVDで改めて見て、野口博士の生き方は、母親の生き方そのものだったのではないかと思った。br>  自分の気持ちを我が子に託すのは、いつの時代も一緒である。野口清作少年に母親が託したものは何だったのだろうか。それは、自分ができなかった学問をしっかり身につけてほしい、そして、自分の持って生まれたものを生かし切る生き方をしてほしい、ということではなかったのだろうか。
 母親は学問を学ぶ余裕のない自分の置かれた境遇の中で精一杯生きた、それを見て育った清作少年は、学問に目覚め、そして、自分の就いた医師という境遇の中で、難病の克服に自分の命を捧げた。
 二人とも自分の人生を全うしたと感じさせられた。
 久しぶりに、感動する映画を見ておもわず落涙した。そして、HPにUPした次第である。br>  みなさんも、「遠き落日」を視聴されることをおすすめします。
42 2009-11-10(火)
不老不死
 今年のノーベル医学生理学賞にアメリカの三人の研究者の受賞が決まったと報道された。エリザベス・ブラックバーン氏、ジャック・ショスタク氏、キャロル・グライダー氏である。ブラックバーン氏とグライダー氏は女性であり、グライダー氏は、ブラックバーン氏の弟子である。研究そのものは、1980年代のもので、20年以上前の功績が認められたものである。
 研究内容は、この随筆日記 現在編で2008-9-27で取り上げた内容に関係する。
 彼らは、実験動物として、ゾウリムシに似たテトラヒメナを使い、染色体の端にあるテロメアが寿命に関係することを発見し、さらに、そのテロメアを修復する酵素テロメラーゼを発見した。
 テロメラーゼは、ガン細胞が盛んに増殖するときに使われる酵素でもあり、これを抑えることによってガン細胞の増殖を抑えることも期待されている。一方で、細胞の延命に寄与し、他方で、ガン細胞を抑える事に寄与する、夢のような酵素である。
 細胞のアポトーシス(プログラム化された細胞の自然死)については、これまでにも研究がすすめられており、2002年には、シドニー・ブレナー氏、ロバート・ホロビッツ氏、ジョン・サルストン氏の3人が受賞している。この研究は、線虫を用いて、発生時に起こるアポトーシスを記録し、その仕組みを解明したものである。その後、人間でも、発生初期に存在する指の間の水かきがアポトーシスにより消滅し、5本の指が完成することが確かめられている。
 このような生命そのものに関係する研究はロマンのある研究である。それは、研究するわれわれ自身が生命を持つ存在であるからであろう。
 このような研究がさらに進み、人間とは何か、生命とは何か、について解明が進むことを期待したい。
43 2009-11-14(火)
若返る
 妻がDVDを借りてきた。「ベンジャミン・バトン」という映画があった。
見た人もあると思うが、生まれた時は年寄りでだんだん若返っていくという男の物語である。
 私自身、小学生の頃、親に「死ぬってどういうこと」と問うたことを思い出す。
 人間の人生にとって最も大きな出来事は生まれることと死ぬことである。
 そのことを見事に描いたのがこの映画である。しかし、最後は、うまくごまかしてあって、痴呆症になって自分を意識しないまま死ぬことになっている。
 人間、永遠の命を得たいと願う反面、いつまでも命を長らえるのは神への冒涜であるという意識がどこかにある。
 この映画の中でも、そのテーマが取り上げられている。
 人間が生まれたときから若返っていくということはあり得ない、全くのフィクションであるが、この映画を見終わると何かしら心に引っかかる。
 それは、生まれたときから生き続けたいという願望とは正反対の結末を必ず迎えなければならない生命の持つ不可避の真理を、われわれは生まれながら知っているからではないだろうか。
 人間、自分の思うようにならないという真理の根源は、永遠に命を長らえることはできないということからきている。
 これを書いた作者は、若干26才時のフィッツ・ジェラルドという作家である。1922年の作品であり、今から90年も前の作品である。今まで邦訳されていなかったが、映画作成にあたって邦訳されたという。
 この本やフィッツ・ジェラルドの人生を見ると、ベンジャミン・バトンの中に登場する主人公の人生そのものである。また、妻や娘の生き方もその通りである。
 彼は、この書物を通して、自分の人生について感じたことを書き綴ったと思われる。
 映画は修飾されているが、映画のストーリーとなっている原作を貫く精神は、人生の無常が最大のモチーフとなっている。
 みなさん、この映画を視聴して、命や自分の人生について考えてみてはいかがでしょう。
44 2009-11-24(火)
阿弥陀堂だよ
 またまた妻がDVDを借りてきた。「阿弥陀堂だより」という邦画である。南木佳士の同名小説を映画化したものである。舞台は、長野県の小さな山村であり、自然そのもの、山村そのものが舞台となっている。ちょうど、私が育った頃の景色そのもので、とても懐かしく視聴できる。
 物語は、山村に起こる日常生活を題材としており、はでなアクションなどは一切ないが、心の落ち着く内容となっている。
 阿弥陀堂だよりというタイトルが象徴するように、月一回?阿弥陀堂だよりが住民に配られることになっており、その編集をしているのが、作家の卵の女性である。その女性の書く編集後記のコメントは、阿弥陀堂の主の老婆の話をもとにしたもので、中味がありすばらしい。
 配役も、寺尾 聡、樋口可南子の夫婦を中心としたストーリーで味のある自然な演技に好感が持てる。
 阿弥陀堂だよりというタイトルから伺われるように、人間の生・死を自然の中での必然として描いている。
 この作品もぜひ視聴をお薦めする。

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