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45 2009-12-6(日)
ウィキペディア
 みなさんは、ウィキペディアというものをご存じでしょうか。
 インターネットに親しんでおられる方は、ご存知の方が多いと思いますが、いわゆるネット上の百科事典のことです。
 百科事典といっても、これまでの百科事典とは違って、執筆者は不特定多数で、だれもが執筆者として参加できるというものです。いわば、多くの人の英知を結集したネット上の百科事典です。もちろん、利用は無料です。
 誰でもが執筆者として百科事典作りに参加でき、自由に利用できるというのは、いかにもインターネット時代ならではのものです。ただし、その分、従来の百科事典のような監修責任者、執筆責任者という人は決まっていないので、信頼性という点で疑問視する人もいます。
 私も利用していますが、専門的な内容も充実していて、なかなか結構なものです。
サンデープログラマーという専門的な活動をしている人たちがいますが、それよりもハードルが低く、気軽に百科事典作りに参加できるのが魅力です。
 コンピュータのOSの流れにもWindows系に対抗するかのようなUNIX系の流れがあります。UNIX系では、ソースコードは公開しなければならないことになっています。より多くの人の叡智を集めて、よりよいものを作っていこうという考え方ですが、ウィキペディアもその考え方です。
 私は、インターネットのうまい利用方法の一つだと思います。内容的なことよりも、考え方として私は好きです。
 みなさんは、このウィキペディアをどのように感じられるでしょうか。
46 2009-12-7(月)
我慢の日々
 ここしばらく我慢の日が続いている。
 1〜2ヶ月前から痛めた片方の足の膝付近の靱帯が寒くなって痛み出している、それにもかかわらずやり始めた小屋の屋根のペンキ塗り替えも天気都合でなかなか進まない、さらには、一週間前、昼食に市販の焼きおにぎりを食べたところ、ご飯のぱりぱりになった部分が前歯の歯茎に刺さりこみ、前歯がぐらぐらしていて、満足に食事ができない。そのうえ、昨日は、私の開設しているHPの随筆日記のファイルが消失してしまうというアクシデントに見舞われた。手元にある元ファイルも削除してしまった。
 利用しているサーバーの会社に問い合わせたが、回復は不可能とのこと。自分のミスをせめるしかない。
 できないものは仕方がないので、消失ファイルの再現に取り組んだ。一年間余りしたためた日記ファイルの原文の残してあるものは何とか復元したが、その原文さえ残してないものが10本ほどあり、書いた当時の記憶をたどりながら、再度、文章を練り直している状態である。
 これまでも、パソコンのたいていのトラブルにはつきあってきたが、今回のケースは初めてである。自分の管理するサーバであれば、バックアップから復帰させることも可能であるが、無量HPサービスを利用しているので、業者の対応も十分でなく、痛い歯を抑えながらの修復作業である。
 人間、悪いときには悪いことが重なるもので、今回まさにそれを痛感している。
 しかし、がまんしてやっていれば、また明るい日差しが復活することもあるだろうと自分に言い聞かせてやっている。
 やっと、元のファイルの9割方は復帰できた。とりあえずやれやれである。
 読者の皆さんも、うまくいかないとき、かんしゃくを起こさず、じっと我慢の日々を送ることも大切なことだと思います。
 人生をあきらめず、気長にやっていきましょう。
47 2009-12-11(金)
ペンキ塗り1
 ここしばらく、時間の余裕があるので、家の修繕に力を入れている。現在は、ペンキ塗りに精を出している。
 きっかけは、ちょうど小屋のトタン屋根が少しさびが出てきていたので、塗り替えをしないといけないなと思ったことからである。
 小屋の屋根でも結構広くて70uくらいになる。トタンを打ち付けている釘もさびがきている。今まで気にとめなかったことが色々と見えてくる。そう思うと、これまでは仕事に目がいっていて自分の周りのことは放ったらかしにしていたんだなと改めて感じている。
 屋根のトタン塗り替えは、衆人の目にとまる。恥ずかしいことはできない。
 そこで手始めに、さびのきている脚立の塗り替えから始めることにした。ところが、これがなかなか難問である。現在は販売していない円形パイプタイプの脚立のさびを落としがなかなか難しい。
 自分の小遣いをはたいて器具を入手し、さび落としに取りかかった。皮剥、サンドペーパー、やすりを使ってさび落としをしたが、円形なので力が入りにくく、かつ、細かい粉塵を吸い込んでしまう。細かい粉塵用の専用マスクが必要、早速専用のマスクを購入し着用。
 ところが、最初の脚立のさび落とし中、上を向いて作業をしている最中に、自分のめがねしかかけていなかったので、さびの一部が目に入った。すぐに洗面器に水を張り、洗浄したが、痛みが取れない。  早速、近くの目医者を探し、見てもらうことにした。
 目医者につくと、医者はすぐに目薬をさした。痛み止め入りの目薬で、すぐに痛みが引いた。その後、診察があり、異物はないが、角膜に傷が付いたままになっていて、それが痛みの原因であった。化膿止めの頓服を処方してもらい、治まっていけば大丈夫ですと診断を受けた。
 帰りがけには、痛み止めが切れてきて、異物が入っているようなコロコロ感がもどってきたが、異物はないと分かっているので、治まっていくのを我慢するしかなかった。その後、何回か頓服を服用している内に、コロコロ感もなくなっていき、作業に復帰できるようになった。
 防塵用のめがねがないので、目の保護と細かい粉塵を吸い込まない対策のために、風のある外で作業をすることにした。できるだけ風上で作業をするようにして、鉄の地肌が出るまでしっかりこすっていった。握力がなくなるまでこすり、二脚目、三脚目はうまくいった。
 これまでにしたことのない作業で、いい経験になった。ペンキ塗りの正否は、さび落としにあるとは、経験者に良く聞くが、まず第一段階突破である。
 皆さんもペンキ塗りをされるときは、さび落としをしっかりするようにして下さい。 
48 2009-12-12(土)
歯の治療
 歯茎にご飯粒の固化したものが突き刺さって、それが引き金となって前歯がぐらぐらになったことのその後の経過である。
 歯茎を損傷してから4日後に、いよいよ悪化してきて、ご飯を食べる時にあたると痛いので苦痛になり、歯医者に行った。
   医者は、急性歯周病ですねとの診断。ぐらついている歯の表面についている屑をとって検鏡し、通常の化膿止め(抗生物質)を3日分出すので、毎食後に服用して下さいということであった。
 医者の処方は、毎食後であったが、夜は晩酌をするので薬を飲むのを止めて、一日二回服用した。後から医者に聞くと、毎食後に服用することで、薬の血中濃度が一定に保たれて効果があるという。それでも、腫れが少しずつひいたのか、歯茎から膿が出てくるようになって、ご飯を食べるのも少しは楽になってきた。
 妻に言わせると、「すぐに医者に行かんから悪化する」と厳しい指摘。自分でも、眼医者の時は即医者へ直行したが、今回は、そうしなかった。言われても仕方がないかな。
 ともあれ、医者の治療と自分の自然治癒力に任せるしかない。
 少しずつ快方に向かっているが、どうなることやら。
 皆さん、医者は早めに行った方がいいですよ。
49 2009-12-17(木)
ペンキ塗り2
 脚立のさび止めと並行して、本来の目的である小屋の屋根の補修に取りかかった。
 まずは、屋根に上って見ると、長らく屋根に太陽熱温水器が設置してあったこともあり、温水器のあったところは以外とペンキが残っているが、それ以外の部分は雨風と太陽光に曝され、かなりペンキが薄くなっている。ところどころペンキがはがれ、しかも、さび止めもはがれ、さびが浮いている。
 屋根全体で、何段階かの修理前状態になっている。
 とりあえずは、最も気になっていたさびの浮いている箇所を軽くさび落としをし、買ってきた水性透明さび止めを塗ってみた。
 塗ってしばらくすると雨が降り、なんとか雨をはじいているのが確認できたが、何回か雨に曝された後を見ると、さび止めが薄くなっており、水性透明さび止めでは難しいと考えざるを得なくなった。
 ちょうどそのころ、並行して一つ目の脚立の簡単なさび止めが終わったので、透明さび止めを塗ってみた。塗ってみて分かったのであるが、水性は乾きが遅く、一日経っても、さわると手にくっつくような感じがある。
 ペンキを売っている材料店に出入りしている内に、トタン専用ペンキがあるのを見つけた。
 11月の最初の日曜日、屋根に上って補修している最中だったので、釘の補充と合わせてさび止めの購入を妻に頼むと、妻は、ステンレスの釘と同時に油性の超速乾性で少し値段の高いさび止め1.6L缶を買ってきた。
 結果的には、これを屋根のさび止めに使うことになるのだが、その超速乾性さび止めには安価な14L缶はないので、おかげでかなり割高についてしまった。
 また、この後は、さび止めから上塗りまで油性が主流となった。妻が買ってきた油性用がきっかけである。妻には感謝しなければならない。
 面と向かっては言いにくいので、この場を借りて、ありがとうとお礼を言っておこう。
 みなさん、人生、たまには他人の力を借りるのもいいかも知れませんよ。
50 2009-12-23(水)
ペンキ塗り3
 脚立の鉄生地が出るまでしっかりさび落としをした後は、さび止め塗りをする。
 私が使ったのは、ペンキ塗り2で述べた油性用赤さび色のさび止めである。
 しっかりさび落としをした脚立のパイプは、さび止めが塗りやすく、さび止めののりがよい。さび止めが鉄にしっかり吸着していく感じである。
 通常、脚立はさび止めだけで十分である。
 脚立は屋外実用向きなので、きれいに仕上げてもすぐに汚れてしまう。しかし、私の場合は、それでも、さらに赤さび色のペンキを上塗りした。
 さび止めは朱色っぽいが、ペンキは、深い赤色である。
 上塗りペンキも、さび止めがしっかり塗れているので、大変塗りやすい。
 うまくスムーズに塗れたと思っていたところ、翌日、白日の下で見ると、さび止め色が何カ所か残っている。いわゆる塗り残しである。
 この経験は、次の屋根のペンキ塗りに大変参考になった。
 それは、同色系統のさび止めと上塗りペンキを使ってはならないという原則である。同色ではなく補色のさび止めと上塗りペンキを使うことによって、塗り残しが一目瞭然に分かり、くまなく上塗りをすることができる。
 こんなことは、考えれば当たり前のことであるが、実際、ペンキ塗りをするまではまったく気がつかなかった。
 経験知というのはこういう事なのかも知れない。
 学問知と経験知、両方相まって本物の知識となる、良く聞く言葉であるが、そのことを実感させられた。
 これからも、色々な経験知を大切にしていきたいと思っている。
 みなさんも、経験知を大切にしましょう。
51 2009-12-27(日)
ペンキ塗り4
 脚立で要領が分かってきたので、いよいよ屋根のさび止め塗りにかかることにした。
 それまでに、トタンを打ち付けてある釘のさびているものは、抜いて新しい釘に打ち直しておいた。
 さび落としであるが、部分的にさびが浮いているところと、ペンキが薄くなっているだけのところとあるので、以前に水性透明さび落としを塗ったところを重点的に、再度さび落としをし、後は、水で埃をきれいに落とし、さび止めを塗ることにした。
 さび止めは薄め液で薄めて塗るが、どの程度薄めるのかが難しい。
 脚立の時は、それほど薄めずに使っていたが、広い屋根なので、のびをよくするために脚立の時より倍以上薄くして塗った。
 よくのびて塗りやすいが、下地が透けて見えている。薄めすぎか。
 雨が降った後を見ると、塗りむらが分かる。特に、塗りむらがひどいところは、再度、さび止めを塗った。
 一回目のさび止め塗りで、塗る要領や薄目具合が大体わかってきたので、二回目のさび止め塗りは、85mmのトタン専用ハケを使って、さっさと塗るようにした。二回目のさび止め塗りで、ほとんど均一のさび止め塗りができた。雨が降っても、塗りむらは出なくなった。
 これで完成としてもよいくらいの仕上がりになった。
 この後のペンキ上塗りで分かったのだが、さび止めとペンキでは液の濃さが異なる。そのため、両者の薄め方を変えなければならない。
 これも、やって初めて分かった経験知の一つである。
 でも、まずは一安心である。
52 2009-12-30(水)
ペンキ塗り5
 二回目のさび止めを塗っていると、ペンキ塗りに詳しい近所の人が見に来てくれた。屋根に上がってきて、状態を見て、これくらいの薄め具合ならよいと言ってくれた。
 また、上塗りは補色系の青色がよいのではともアドバイスをしてくれた。
 その時点では、脚立で試した赤さび上塗りペンキを塗るつもりでいた。
 しかし、その話を聞いて、なるほどと納得できたので、妻とも相談し青色にした。
 14L缶を購入し、ハケは70mm上級用と85mm一般用を用意した。
 ペンキの缶を開けると、さび止めよりも薄い感じであった。薄め液を少なめにして用意した。
 さび止め塗りで感じが分かっていたので、同じ要領で塗っていった。ところが、さび止めはべたべたしなかったが、ペンキはべたべたする。感じが違う。
 最初の部分を丁寧に塗っていると、塗り始めたところは乾き初めている。塗りむらができる。さっと塗るために85mm用ハケを使うと、毛が荒く均一に塗りにくい。さび止めとは感覚が違う。そこで、70mm上級者用ハケ一本でペンキをケチらず、さっさと塗るようにした。さっさと塗っていくと、ペンキの性質上、重ね塗りがスムーズにできて、均一にうまく塗れるようになった。
 しかし、ここでまた新たな問題が発生。
 うまく塗ったつもりが、翌朝見てみると、塗るむらがある。午後4時をすぎて太陽が沈んでから塗ったところは、夜露に濡れてうまく乾かなかったようであった。太陽が沈むまでには作業を切り上げ、夜露が降りるまでに乾くようにすることが必要と分かった。
 ここでもまた経験知の大切さを実感した。
53 2009-12-31(木)
ペンキ塗り6
 今年の締めくくりは、なんといっても屋根のペンキ塗りである。
 私にとっては、人生初の経験であり、かつ得ることの多かった出来事である。
 さて、いよいよ最後の仕上げ、二回目の上塗りである。
 新しい一斗缶を購入し、良くかき混ぜ、早速二回目のペンキ塗りにかかった。天気にも恵まれ、三日で完成した。
 一日目、二日目と順調に進み、前日から寒くなってきたが、乾きも速いので絶好の仕上げの日となった。陽が陰ると肌寒いのと、風が強くなってきたのが気になっていた。
 順調に進み、後少しで終了という時に、ペンキが底をついた。新しいペンキを採りにはしごを伝って下りようとした時、アクシデントが起こった。
 降りる時に、先ほど塗ったペンキに足を下ろした瞬間だった。地下足袋が滑った。思わず尻餅を突き、あわやそのまま落下という状態になった。足の踏ん張るところがない、後から振り返ると、とっさに樋に足をかけていた、おかげで何とかもう一方の足が踏ん張れて、落下は免れた。しかし、樋の一部を破損してしまった。
 おまけに、慎重にはしごを伝って降りようとすると、今度ははしごの地面についている足が移動した。二回目の危機。はしごをセットし直して、なんとか二・三段下りることができた。そのとき、はしごの屋根にかかっているところを見ると、なんと、一回目の上塗りで使っていたハケが、先ほどのショックでずり落ち、ちょうど屋根とはしごの間に挟まり支えになっていた。天の助けだった。
 はしごの二・三段目から塗り残しの部分を手を伸ばして塗りおえ、無事に終了した。
 これまで、長くかかって何事もなくきていたが、最後の最後にあわやというアクシデント、改めてペンキ塗りの怖さを知った。
 ペンキ塗りが終わって無事終了の予定であったが、余分な作業が入った。
 破損した樋の修理である。樋の雨水を集める部分の突起部分が割れて落下していた。
 接着ボンドで接着を試み、その上からガムテープで止める方法を考えた。
 目立たないように、灰色の布製ガムテープを購入し修理開始。
 ところが、破損時のショックで樋の位置がずれ、破損部がうまくはまらない。仕方がないので、少し隙間があったがボンドを押し込んでおいて、その上からガムテープで押さえつけ補修した。何とか補修が終了し、ペンキ塗りの終了となった。
 屋根のペンキ塗りを思いついて、トタンを固定している釘の打ち直しを始めたのが11月7日、1ヶ月が経過していた。
 人生で初めてのトライであったが、いろいろな経験ができ、経験知をたくさん得た。
 これからも、一回切りの人生、いろいろなことにトライし、たくさんの経験知を得て、知識知とセットにして自分を高めていきたいと思っている。
 今年の最後なので、私にとって今年最大イベントとなったさび止め塗り終了時とペンキ上塗り完成時の写真を掲載します。
 さび止め塗り完成時   ペンキ上塗り完成時
 今年、私のHPを見て下さった方、ありがとう御座いました。
 来年もよろしくお願いします。
 読者の皆さん、良いお年をお迎え下さい。
54 2010-1-1(金)
新年特別号
 皆さん、新年おめでとう御座います。
 今年も、よろしくお願い致します。
 新しい年が始まった。
 ここ何年かの正月の楽しみは、「箱根駅伝」の視聴である。
 何がよいかというと、大学生ならでは気力に充ちた走りと何としてもたすきをつなぐんだという連帯感が感じられることである。
 自分の大学生時代を思い起こし、自分の体力・能力の限界に挑戦する、純粋で真摯な姿に共感する。
 たすきをつなぎたいが、無念の繰り上げスタートもジーンとくる。
 私にとっては、私見る人という見るスポーツではあるが、大学生ならではの体力の限界を超えた走りには拍手喝采である。
 母校の伝統という今は失われつつある連帯感を感じさせてくれるのが心地よい。私の住む田舎の地域社会でも、連帯感が失われつつある。だからこそ、連帯感を感じさせてくれる「箱根駅伝」に共感するのだと思う。
 人間は、字の如く、人と人の間、つながりがあって初めて人間となる。「箱根駅伝」はまさに、そのことを思い起こさせてくれるものである。
 走っているのは大学生であるが、気持ちは走っている自分であり、走りの中に自分の気持ちを移入して、自分の気持ちを確かめている。自分ならここでくじけてしまわないか、まだがんばれるか、そんな風に、自分を感じている。
 こたつに入ってのんびりとおとそに親しむのも正月の過ごし方なら、寒風吹きすさぶ箱根路を自分の体力・気力の限りを尽くして走るのも、また正月の過ごし方であるだろう。
 大学生ならではの正月の過ごし方の一つではないだろうか。
 また、この駅伝の運営は大学生が中心となっている。大学自治は、昔からのテーマであるが、それもこの取り組みの中で実践され、彼らのこれからの社会生活への経験知として蓄積されていく。
この駅伝に参加する大学生にとっては、いろんなことを学び感じとる取り組みであるだろう。
 今年も、大学生諸君の走りに期待している。
 皆さんにも、「箱根駅伝」を視聴されることをお薦めします。
55 2010-1-4(月)
箱根駅伝
 今年も「箱根駅伝」を見た。
 いつもながら、大学生のいきいきさが心地よい。
 今年も、感動的な場面がいくつかあった。
 昨年、自分の体のアクシデントから、途中棄権した学生が再び出走していた。昨年の悪夢を取り払うのは大変だったと思う。それには、自分自身の努力はもちろん、支えてくれた監督、大学生の同級生・先輩・後輩の支えがあったことであろう。その学生は、満を持して今回の走りに望んでいた。
 無事、全力を尽くして走り抜き、去年の屈辱のリタイアから立ち直った。自分の区間を走り抜き、たすきを渡すと倒れ込み、うれし涙が溢れていた。感動した。
 また、逆に、屈辱の繰り上げスタートもあった。その学生がたすき渡し地点に着いた時には、すでに繰り上げスタートが行われた後で、たすき渡しの相手はいなかった。その学生が渡す相手は、自分の一年後輩であり、先輩としての役割を果たせなかった自分がくやしかったのであろう、走り終えると、くやし涙が溢れた。気持ちがよく分かる。
 彼は三年生なので、来年は学生時代最後の悔いのない走りを見せてくれることであろう。
 また、今年は、三重県出身の学生の走りも良かった。解説者の瀬古氏も三重県出身であり、こんな時には、自分の出身県三重県を意識するものである。
 今年も感動をありがとう。
 来年も「箱根駅伝」を楽しみにしている。
56 2010-1-14(木)
HDの故障
 1月12日以降、大変な状況になっている。
 昨日まで順調に何の不具合もなくアクセスできていた外付けHDが、12日の朝いきなりアクセス不可となった。
 HDは器械であるとは頭で分かっていたが、こんなに早くやられるとは思ってもいなかった。
 青天の霹靂というやつで、がっくりしている。
 このHDには、ここ20年来のデータがすべて入っている。バックアップコピーを取っておかなければと思っていた矢先のことである。まったくバックアップがとってない。最悪のケースとなってしまった。
 2〜3年前に、マザーボードがやられて、そのときに入れ替えた外付けの320GBのHDであり、これまでのすべてのデータを移行して使っていたものである。
 まだ、何年も経っていないので、壊れるということは私の頭にはなかった。
 しかし、現実に起こってしまった。
 なんとかファイルを回復しようとアクセスを試みている内に、ますます症状が悪化し、最初は、OSがアクセスしようと試みていたものが、ついにはアクセス不可、つまり、マイコンにもドライブが認識されなくなってしまった。
 HDドライブからは、かりかりという変な器械音が約8秒間隔にしている。アクセスしようと試み続けているがアクセスできないという状態のようである。
 こうなると、HDを組み立てた時の状態に立ち戻り、部品の何処がやられているのか、そのためには、どうすればデータにアクセスでき、データをリカバリできるのか、という段階である。
 HDを組み立てるくらいの技術が要求される。
 マザーボードがやられた時もそうであった。液漏れしているコンデンサを交換し、ハンダ付けするくらいの技術が要求された。今回はさらに、機器の修理よりもデータ回復が何としても求められる。微妙な技術レベルの問題である。
 だめもとで、とりあえず、良心的な補修業者にHDを送りリカバリ可能かどうか見てもらうことにした。
 メールのやりとりでは、機械的な故障からのリカバリはその業者ではできないとのことであった。
 薄い望みに希望を託して待っている段階である。
 しばらくお休みしていた「パソコンライフ」のページに追加記入しなければならない状態となっている。
 幸い、HP用は残っていたので、何とか難を免れ、今回の記事をアップできるのがせめての慰みである。
 この後の展開を読者の方にもお届けしたいと思っている。
57 2010-1-15(金)
データ復活
 今日は外から帰ってメールを見ると、嬉しいメールが届いていた。
 HDの修理を頼んだ業者から全データの復活が終了したというメールだった。
 半分あきらめていたが、完全に復活できたというので、よけい嬉しい。
 さすが専門にしているだけのことあるなと感心もした。
 これを良い教訓にして、大事なデータ等のバックアップを心がけたいと思う。
 私は、今回の件で、二つのことを考えた。
   一つは、私だけかも知れないが、人間、そのときにならないとなかなか実行に移さないところがあるが、早め早めの対応が大切だということ、改めて肝に銘じたい。
 二つ目は、パソコンはやはり機械であるということ。特に、HDは機械部品であり、必ず壊れるものである。それが早いか遅いかは、使い方やその機器の状態によって異なる。今回も、まだ3年ほどしか経っていないHDであったが、このようなことになってしまった。今更ながら、HD、パソコンは機械であるということを思い知らされた。
 みなさんも、パソコンを使っておられると思いますが、私のこの二度としたくない経験を参考にしていただいて、バックアップをこまめにとられることをお薦めします。
58 2010-1-29(金)
技能講習
 昨日(1月28日)、アーク溶接の三日間の特別教育を終えた。
 私が、この技能講習に参加したのには、理由が二つある。
 一つは、このHPの「随筆日記 現在編」でも紹介したように、脚立や屋根のペンキ塗りをしたが、ペンキ塗りをした脚立の一つの溶接がはずれていて、それを何とかしたいということからである。
 ガス溶接の資格も持っているが、ガス溶接は設備が大変で、例えば、一般的なアセチレンガスを使う場合、アセチレンガスと酸素ガスのボンベ、それに、溶接機が要る。ガスボンベの設置はなかなか大変である。
 それと比較すると、今回講習を受けたアーク溶接は、それよりは設備が簡単である。新聞のチラシにも、簡易溶接機の広告が載っているくらいである。ガス溶接に比べれば敷居が低い。事実、最近の事業所では、ガス溶接よりもアーク溶接がよく使われているという。そんなこともあって、アーク溶接の講習を受けることにした。
 もう一つは、アーク溶接に限らないが、私の歩んできた職業からすると、まったく異質の業種のいろいろな人たちとふれあえるという楽しみがある。
 今回も、たぶん私が最年長であったと思うが、アーク溶接技術を使って仕事をしている、または、するであろう若い人たちとのふれあいがある。
 不景気な時代、若い人たちも大変だろうと思う。今回のような技術を身につけ、少しでも、仕事の幅を広げがんばって欲しいと思う。
 参加した人たちは、そのせいか、みんな、大変意欲的で、三台しかない溶接機を取り合うように、次々と溶接の技能習得に取り組んでいた。
 そのような姿にふれ、また、会話を交わし、私自身の視野が広がるのを実感する。
 一回きりの人生、自分の視野を広げ、より幅広く人生を歩んでいきたいと思う。
 人間まだ捨てたものではないな、というちょっとさわやかな感覚が残っている。
 みなさんも、いろんなことにチャレンジし、視野を広げてはいかがでしょうか。
59 2010-1-31(日)
映画鑑賞
 このごろ、少し時間の余裕があるのと、妻が無料鑑賞券をもらってきたので、映画を見に行っている。
 最近では、「アバター」と「サロゲート」を見た。両方とも、題名を聞いただけでは、どんな映画なのかさっぱり見当が付かない。これも、最近の映画の特徴を表している。
 二本とも、CGを駆使し近未来を映像化しているが、二本見終わっての感想は、両方ともストーリーも映像技術も似通っているという感じである。
 「アバター」も「サロゲート」も、人間とは、人間の価値とは、ということを映画を見る人に問いかけているように感じる。
 両方とも、近未来のフィクションであるが、現在の状況から推して、近未来は今よりもさらにコンピュータ化やロボット化が進むことは間違いない。そのときに、人間とは何かを問い直す時期がくるかも知れない。そのことを先取りするような内容の映画である。あるいは、設定は近未来としながらも、すでに現在見られる現象を映像化し、訴えているのかも知れない。
 映像技術では、CG技術にますます磨きがかかり、現実の映像と見わけがつかないほど精巧に出来ている。両方とも、人間の脳の働きがもたらす現実とまがうほどのバーチャルな場面がCGを駆使して迫力ある画面をもたらしている。
  この画面を見ていると、バーチャルと現実との境目がなくなってしまう錯覚に陥る。
 両方の映画とも、死、老いは避けることのできない人間らしさの象徴として取り上げられている。「サロゲート」の最後では、年をとらない美貌の妻が消え、年をとった本物の妻と抱き合う場面が象徴的であった。
 学問の世界でも、ジェロントロジーという分野が広がりつつある。老年学と訳されているが、長生きを心から喜べる社会を作るための学際科学である。高齢化が進展し、元気なお年寄りがふえてきて、年を取ったら家でじっと隠居生活というスタイルから、年寄りになっても、元気に外に出て活動し質の高い生活を維持し追求しようというサクセスフルエイジングの考え方からきている。
 誰しも一度きりの人生、うまく老いて人生を全うしたいと思う。
 自分自身も含めて、ジェロントロジーが進展し、だれもがいい人生だったと思える世の中を作りたいものである。
60 2010-2-10(水)
日本の相撲に思う(1)
 朝青龍が引退した。しかも、半強制的な形の引退である。
朝青龍らしい引き際ともいえるが、私は、いろいろな意味を含んでいると思っている。
 私が社会心理学の論文で取り上げたいと思っていたテーマにも関係するので、そのことを書きたいと思う。
 元々相撲は、日本古来のもので、いわゆる国技と言われている。
 そこに、外国人力士が参加してから久しい。
 本格的な外国人力士は高見山が最初ではなかったかと思う。
 もちろん、それまでにも、昔、力道山がいたが、この人は国籍を明らかにしていなかったので、いわゆる外国人力士ではない。そのことは、その後もあり、玉の海、三重の海もそうである。
 高見山が相撲界に入って活躍するようになると、その当時は物珍しさから、高見山人気が高まった。
 その後、現在に至るまで、小錦、曙、武蔵丸、朝青龍、白鵬と続く。
 ちなみに、大横綱大鵬も父親がロシア人であるが、国籍は日本であるらしい。
 ともあれ、外国人力士の問題になると、国籍に関わる問題が微妙にからんでくる。
 私は、今日、外国人力士がふえてきた背景をただ単に力士志望の日本人が少なくなったからということ以上に、その背景を考えてみたいと思う。 
61 2010-2-11(木)
日本の相撲に思う(2)
 外国人力がふえてきた背景にはどのようなことがあるのか考えてみたい。
 社会心理学の分野で、文化変容ストラテジという概念がある。これは、移民が移住国に入ってどのように自分の持つ文化を変容させていくかの戦略のことである。大きく四つのストラテジがある。同化、分離、統合、周辺化である。
 外国人力士を移民として把握して良いのかどうかの議論は別として、状況としては、外国人力士は文化変容ストラテジのどれかをとって日本に住み、相撲に取り組んでいる。
 この変容ストラテジという概念で考えた時、朝青龍のこれまでとってきた態度や今回の引退劇はどう捉えたらよいのか、社会心理学的には大変興味深い問題である。
 私は、朝青龍関のとった文化変容ストラテジは分離ではないかと思う。彼は、モンゴル出身であるが、モンゴルに対する思い入れが大変強く、その態度はモンゴル的である。日本古来の伝統を重んじる世界で、相撲界の横綱という伝統的な地位を必ずしも厳格に守り、それに従っているとは思えない。
 彼の中には、自分はモンゴル人であり、日本の相撲界の横綱であるが、モンゴルの国を呈したモンゴル人横綱であるという意識があると思う。
 一方で、白鵬は日本に帰化し、日本国籍を取得した。彼の文化変容ストラテジは、朝青龍と違って、融合であると考えられる。
 朝青龍が文化変容ストラテジとして分離をとるのはよいが、難しいのは、横綱という立場についてまわる日本古来の相撲界の要求である。
 ストラテジとして分離をとるとしても、横綱としてモンゴルの文化に浸る場があるのであろうか。おそらく、ほとんどなかったのではないかと考えられる。
 横綱在位が長くなり、しかも、角界随一の横綱となりおごりも出てくると、彼のストラテジである分離が顔を出し、土俵を離れた場所での行動となって現れてくるということではなかったかと思う。
 ストラテジとして融合をとっていれば、このような形にならなかったのであろうが、朝青龍は、愛国心が強く、モンゴルをいつも強く意識していたのであろう。
 その意味では、日本の相撲界のこれからを占うエポックメイキングな出来事であると考えられる。
 現実的な問題としては、日本人の入門希望者が激減し、外国人入門者に頼らざるを得ないという問題があるだろう。
 また、社会の変化に伴って、新入門者を厳しく育て、一人前にするというこれまでのやり方だけでは通用しにくくなっていることも遠因としてあるだろう。
 親方も自分の部屋を維持していくのに、新入門者の獲得は最も大切な事柄である。一番大切にされなければならない入門者の獲得に大きな変化があるとしたら、それは、相撲界のこれからのあり方を左右する重大な事柄であだろう。
62 2010-2-13(土)
 先日、中学校の同級生から電話があり、今年、同窓会をするので恩師への案内状を書いてくれないかという頼みごとだった。
 10年前にふとしたことから、中学校の第1回同窓会立ち上げのお手伝いをしたことがあった。そのことを彼は知っていたのであろう、よろしくと言う。断る理由もないので、引き受け書き始めた。すると、中学生当時のことが思い出されて懐かしくなった。
 われわれの世代は団塊の世代といわれ、もう還暦を迎えた。還暦とは、暦が還ると書く。要するに、暦がリセットされるのである。
 還という字は、いろいろなところでよくお目にかかる。原点に還るということばもあるし、還流ということばもある。
 私自身も、還暦を迎えたからというわけでもないのだろうが、もう一度、振り出しからという気持ちのこの頃でもある。
 よしだたくろう氏の歌に「落陽」がある。
 なかなか味わいのある名曲であるが、この歌の中にじいさんにもらったさいころのことが出てくる。
 人生をさいころになぞらえた歌である。「みやげにもらったさいころ二つ、手の中でふればまたふりだしに、戻る旅に陽が沈んでいく」。味わいのある歌詞が続く。
 この歌を聴きながら、恩師への案内状をしたためた。
 よしだたくろう氏の「落陽」、是非一度試聴を。
63 2010-2-25(水)
サブリミナル効果
 現在編「映画鑑賞」で取り上げた映画「アバター」を見終わった後、観客の中に「うつ感を感じた」という報告がされている。
 私自身も、この映画の視聴後、郷愁のようなものを感じた。
  そのことから、ひょっとして「アバター」の映像にサブリミナルが取り入れられている可能性がないか考えてみた。
 サブリミナル効果とは、特に、映像において、短い時間間隔(0.1秒以下)で意図的に特定の映像を挿入することによる精神誘導的な効果のことである。
 特に、テレビが茶の間に広まった時代に、意図的にサブリミナル効果をねらった映像が流されたといわれている。
 最近の例では、TBSの報道番組の中でオウム真理教教祖麻原彰晃のサブリミナル映像が流されたといわれている。
 古くは、コカコーラのサブリミナル映像を流して、その後のアンケートでのどが渇いたという視聴者が有意に多かったという実験報告がある。
 科学的に確実な分析が確立しているのではないが、心理学的には、無意識/意識の境界領域に影響を与えるとされている。
 ところで、「アバター」についてであるが、視聴後に独特の感想を持つということは、テンポの速い空中戦の3D映像の影響か、それとも、サブリミナル効果による影響かはわからないが、映像による影響であることは間違いない。
 CG映像が精密になってきた現代では、サブリミナル映像も見分けにくいほど精密に組み込まれても分からないであろう。
 「アバター」にサブリミナル映像が組み込まれているかも知れないというのは、あくまでも私の想像であるが、可能性はゼロではないと思う。
 人間の眼の認知時間は0.1秒とされている、また、人間の眼が裸眼で認知できる大きさは0.1mmとされている。それよりも速い、小さいものは見えない、または、意識に上らないのである。それでは境界線上のものはどうなのか、人間の認知の問題である。
 われわれ人間には五感の他に第六感というものがある。この第六感にサブリミナルが影響するとすれば、サブリミナル効果によって第六感を鋭敏にすることも可能であるかも知れない。
 人間って不思議な生き物ですね。
64 2010-3-2(火)
生物分類が変わる
 今日の新聞記事に、今後、生物の分類体系が変わるという記事があった。
 私自身興味のある分野なので、少し詳しく読むと、リンネ以来の分類体系が変わると書いてあった。
 これは、大きな変化だということで、自分でも調べてみた。
 その背景は、DNAの分析技術が進歩して、種の持つDNAを比較することが可能になったことにある。
 われわれが知っているリンネの分類体系は、1737年に発表されたというから、今から実に370年も前である。
 リンネは、例えば、ある植物があると、それを、まずは裸子植物か被子植物に分け、被子植物であれば単子葉類か双子葉類か、双子葉類であれば、合弁花か離弁花かというように、二分したどちらに属するかで分けていき、個々の種とその属する属を基本として命名するという方法を採った。
 このやり方は、二分法、また、命名法としては、属名の後に形容詞的に種の名前を冠する二命名法と呼ばれている。
 私たちの年代のものは、ラテン語で名付けられた種名を意味・価値あるものとして使ってきた。
 例えば、人間の学名はhomo sapiensで理恵ある人という意味である。最近、アフリカを中心に人類の起源に関わる人骨が多数発見されているが、いずれも、homo habilis、homo erectusなどと名付けられている。homoがヒト属である。アウストラロピテクスは、homo属ではなくヒト科ヒト亜科Australopithecus属である。このように、学名を見ることで、その種がどの属に属するかが一目で分かるようになっている。
 さて、本題に戻ると、今回物議を醸しているのは、DNA分析の結果、これまで双子葉類を合弁花・離弁花と分類してきたものが、入り乱れていることがわかり、その結果、合弁花・離弁花の分類はなじまず、新たに真正双子葉類と原始的双子葉類に分類分けし直されるというものである。
 これまで、理科の教科書には、つつじは合弁花、桜は離弁花というように記述されていたが、今後は、その記述が変更される見通しとなっている。
 これだけ、DNA分析技術が進展してくると、これまでの概念規定が見直されることがいろいろと出てくることであろう。
 学校の先生も大変である。教科書になるのには、何年もかかるので、それまでに情報が先走りする。それにも対応していかなければならない。
 教員免許の更新がいわれているが、そんなことではなく、自浄努力として学校の先生も新たな情報に対応していかなければならない。
 情報時代の一つの側面を見たよう気がする。
65 2010-3-17(水)
「蜘蛛巣城」
 借りてきたDVD「蜘蛛巣城」を見た。
 ご存じ黒澤明監督の白黒映画である。
 黒澤明といえば、最近では、カラー映画影武者があるが、この「蜘蛛巣城」は、1957年の作品というから、今から50年以上前の作品である。
 しかし、その映像は大変迫力があり、現在でも見応えのある作品である。
 私は、見る前は黒沢監督のことであるから、伝説的な言い伝えを掘り起こし、できるだけ史実に沿って脚色したものと思っていた。
 ところが、調べてみると、そうではなく、まったくの創作だった。それも、なんとシェイクスピアの「マクベス」を日本的に解釈し直した作品であった。
 三船敏郎と黒沢明監督とのつきあいは実に長いが、その中でもいわく因縁つきの作品である。
 三船扮する武将が、最後に、多数の矢玉を浴びて死ぬ場面は迫力満点である。この場面で使われた矢は本物であり、三船の体近くに鋭く突き刺さっている。
 撮影後、三船は矢の場面にうなされ、それに絶えきれず、短銃を持って黒沢監督のもとに押しかけ「俺を殺す気か」とどなったという話が残っているくらいである。
 そのくらい切迫感のある撮影であるから迫力満点であるが、黒沢明氏は、監督として観客の視点に立ってぎりぎりの演技を役者に要求したようである。
 黒沢明は、監督としては一流とされているが、そこまで役者を追い込むやり方を是とするか非とするかは意見の分かれるところであろう。
 例えば、やり手の社長・部長などが、会社発展のため脇目もふらず、かつ、部下の気持ちを意に介さず、成果を上げたとして、同業者や第三者の評価と社員の評価は異なるだろう。
 私は、黒沢作品は見る側としてはすばらしいと評価するものの、黒沢明という監督が人間として素晴らしいと言い切れるかどうかは疑問である。
 「蜘蛛巣城」を見ながら、そんな複雑な感想を持った。
66 2010-3-27(土)
セカンドオピニオン(歯の治療(3))
 昨年の12/12に取り上げたぐらついている歯のその後の経過である。
 結論からいうと、大変な状況となっている。
 順を追って説明すると、12/12後、いつも通っている歯医者に何回か通ったが、肝心の前歯はいっこうに良くならない、というより、まだ腫れているからという理由で、その歯の治療は一回もされなかった。何回かの通院でされたことといえば、全体の歯石取りだけだった。そして、それが終わると、治療終了となり、3〜4ヶ月したらまた来て下さいとなった。今思うと治療放棄である。
 そうこうしているうちに、痛みはなくなったが、ぐらぐら感は改善せず、歯茎に異物を挟んでいるような感覚が出てきた。
 仕方なく、自己防衛策として歯槽膿漏薬用歯磨きをつけてこするようにした。しかし、それでも、ぐらぐらは改善せず、歯茎を強く押さえると、出血する有様。まだ傷口が治っていないのかなと思いつつ、溜まった血を抜き出すつもりで、毎日絞り出したりしていた。
 このままいくと、抜歯しかないと感じ始めて、妻に聞くと、妻が以前行って歯槽膿漏が治ったという医者のことを聞き、とりあえずそこへ行ってみようと決めたのが3月15日。歯医者に行ってから3ヶ月が経過していた。
 翌日、その歯医者へ行こうかという日、試しにと、インターネットで歯周病専門の歯医者を検索した。すると、津市内で二軒の歯医者がヒットした。どちらにしようか迷ったが、「患者さんと共に、歯を残す」という文言が目にとまりそのうちの一軒に決めた。とにかく見て欲しいと頼み込み、その日の内に診察してもらうことにした。
 その日の診察で、なぜぐらぐらが治っていかないのか、その謎が解けた。
 それは、拡大レントゲン写真にはっきりと映っていた。歯の根元近く(あごの骨の中)に亀裂が入り、それが歯の半分くらいまで進行していた。木を半分くらいまで切った状態になっていた。そのまま放っておけば、いつかは、その部分からぽきんと折れるということだった。
 治っていかないはずである。どうやら10年ほど前、息子が小学生の時、一緒にグランドゴルフに参加した時の事故からきているらしい。息子の振った堅いクラブの先が私の前歯を直撃した。歯から出血した。歯医者に行ったのだったか行かなかったのだったか記憶は定かではないが、折れているようすはないということだった。そのうちに痛み・出血も止まり、そのままになっていった。
 しかし、その後、歯の色が少しづつ茶色っぽくなってきたので、大丈夫かなと思いつつ、そのまま日にちが過ぎていった。今思えば、そのとき、すでに、亀裂が入っていたと思われる。
 更に驚くことに、これは珍しいことですがといいながら、歯科医は、歯が自分を異物として自分の歯を溶かし始めていると言った。写真を見ると、なるほど、亀裂の入ったあたりの歯の表面に液のようなものがにじんでいる。これは初めて聞く話であった。
 そして、ぐらぐらしている歯の刺激でそのようになったと思われるので、とりあえずぐらぐらを軽減しましょうと言って、隣のしっかりした歯にセメントで固定する治療を施した。
 治療もさることながら、原因がはっきりしたことだけでも、納得だった。
 今、医学の世界ではセカンドオピニオンということが言われているが、今回、まさに、セカンドオピニオンの大切さを実感することとなった。
 みなさんも、医者にかかる時は、セカンドオピニオンも考えに入れて治療を受けるようにしましょう。
67 2010-4-5(月)
歯の治療(4)
 その後の治療の経過である。前回、ぐらぐらの歯を固定してもらった後、全体の歯の歯石を取り歯を磨くという治療?をしてもらった。
 その治療後、また、ぐらぐら感がでてきたので、医者に言うと、堅いご飯粒が刺さった歯茎がかさぶたのようになっているので、それだけでもとりましょうと言って治療にかかった。
 ところが、そのかさぶたを取り除くと、歯茎の内側にあった歯が溶かされ、空洞が空いていたのである。外からできた空洞ではなく、歯自らが内側から溶かした空洞であった。さらに、驚くことに、この歯の自己防衛反応により、歯の神経が細くなっていた。とりあえずぼろぼろになっている歯を削り取り、仮詰めをしてもらうことになった。
 うまくいけば、亀裂の入っているところも治療できる可能性があったが、その部分は歯の根元近くで、あごの骨の中にある、残念ながら、あごの骨を削らなければそこは治療ができないということだった。
 まだ、そこまでの段階で治療が完了したわけではない。
 歯を残せる可能性はまだまだ少ない、しかし、何とか残そうとようやくその歯にメスが入った。
 3ヶ月間の間、歯が自分で内側から溶かしていたとは驚きである。
 この歯の運命はどうなるか分からないが、状況が分かり、治療の限界も分かって、自分の体ながら、自然の不思議さを痛感しているところである。
68 2010-4-10(土)
歯の治療(5)
 ぐらぐらの歯に詰め物をしてもらった。
 歯科医は、ほとんど折れている状態で、長持ちは期待できませんので覚悟はしておいて下さいと言った。それでも歯のぐらつきがなくなり安定した。
 無理に前歯でかみ切ることをしなければ、この歯を存続させられる可能性が出てきた。
 この歯医者には感謝である。
 今回の件で、改めて歯を大切にしようという気になった。
 これまで、朝と寝る前だった歯磨きも毎食後必ずするようになったし、余りはめていなかった部分入れ歯も食事の時もはめて噛むようにしている。
   改めて生命の不思議さを痛感した。
69 2010-4-18(日)
タケノコ
 今年、生まれて初めてタケノコ掘りをした。
 ここのところ、余分な竹を伐採し、片づけにいっていた竹林にタケノコが上がった。
 竹林を整理して日当たりが良くなったせいか、日当たりの良い南側に10本ほどタケノコを見つけた。
 早速、タケノコ掘りの道具を取りに帰り、掘りにかかった。
  土の上に5〜10cmほど芽を出しているタケノコの周りの土を掘り起こし、少し深めに道具の先を入れて、下からこじて取り出そうとした。
 取り出してみると、途中で折れている。
 そのうちに90才近くになる母親が見に来た。
 そして、自分でも掘って見せた。やり方を見ていると、土の上に芽を出しているタケノコの周りの土を少し掘り起こし、掘り出した土を取り除き、タケノコが土の中でどのようになっているかを見て、適当なところから切り落とした。
 見ていると、いく本かは、土の中で曲がっており、曲がっている側を道具で切り落としている。こうすると、タケノコが節でうまく切り取れる。なるほどと納得である。
 私の場合は、曲がっている方向は考えに入れず、ひたすら、土深く道具を打ち込んで掘り出そうとしていた。こうすると、曲がっているタケノコは斜めに切り落とされてしまう。自分の掘り出したのを見てみるとやっぱり斜め切りになっている。
 今回もちょっとしたことであるが、経験知の確かさを経験した。
 年老いた母親は、力任せに道具を打ち込むこともなく、ある程度の節のところでうまく切り出している。
 昨年のトタンのペンキ塗りといい、今回のタケノコ掘りといい、人生初経験のことが妙に新鮮である。
 経験知の楽しさを味わっている。
 みなさんも、いろいろな経験をして、経験知の良さを味わってみてはいかがでしょうか。
70 2010-5-3(月)
続 姿三四郎
 またまた妻の借りてきたDVD「続 姿三四郎」を見た。
 この映画は、有名な富田常雄の小説「姿 三四郎」を黒沢 明氏が脚色し映画化したものである。
 富田常雄氏は、明治時代の柔道家をモデルとした小説「姿 三四郎」を書いた。
 黒沢 明氏は、これを脚色し、1945年に映画作品化した。
 原著の「姿 三四郎」は戦前の小説である。
 この小説の中に登場する姿 三四郎の師匠矢野は、講道館柔道を柔術から独立大成させた嘉納治五郎である。
 映画の随所に出てくる講道館柔道の精神は、この映画の中心テーマとなっている。
 映画の中で、姿 三四郎のとる行動は、嘉納治五郎の唱える講道館柔道になりきれない姿 三四郎の柔術家、そして、柔道家としての姿を描くことを主としている。
 柔術と柔道の違いは、道を付した柔道は人としての道を大切にする点で、技を頂点とする柔術とは一線を画している。
 さらに、この映画の中では柔道は柔術との闘いを制するのみならず、他武道である空手との闘いをも制し、本物の武道として道を歩む姿として描かれている。
 黒沢氏のこの映画のねらいが何処にあったのかは今となっては分からないが、映像の中で問われているものは、人間としての生き方を追求する手段としての柔道である。
 技として優れている柔術家が人間として成長していく姿を描いたともとれる映画である。
 黒沢氏の映画は、いずれも人間くささを大切にしていると感じるが、この映画も武術、武道というものを通して人間としてのあり方や人間らしいものの考え方とは何なのかを視聴者に問いかけている。
 黒沢氏は映画を通じて、視聴者に生死の狭間の映像を通して人間とは何なのかを問い続けた監督ではないかと思う。
 黒沢作品視聴後に残る「?」という感覚は、まさに黒沢氏が視聴者に問うたものであるのだろう。
 みなさん、名画といわれる作品には視るべきものがあります。
 黒沢作品はじめ、是非、名画を鑑賞されることをお薦めします。
71 2010-5-15(土)
竹の樹液
 最近、自分の家の竹林を整備に行っている。
 竹林へ降りる土手に廃棄物がいっぱい捨ててある。建設課管理部に連絡をしたが、土手はさわりたくないというのがいいわけで、いっこうに埒があかない。
 仕方がないので、自分で廃棄物を掘り出し土手の整備にかかっている。
 ところが、孟宗竹の茎が土手に向けて張り出し邪魔をしている。
 やむを得ず、孟宗竹の太い茎を途中で竹のこぎりで切って、その勢いを止めようとしている。
 ところが、不思議なことに、太い茎を途中で切っただけで何日か放っておいたところ、白い樹液のようなものがにじみ出して、傷口を塞ごうとしているかのようである。切り口が完全に離れているものは、その切り口から水のようなものが吹き出しているが、切り口が接しているものは、白い樹液が出て傷口を塞ごうとしているように見える。
 植物には動物の血液(体液)のようなものとして、樹液があるが、竹の樹液は、糖分が多く、アルコールや飲料水の原料にもなり、また各種栄養分を含んでいるという。
 青竹を途中で切っておくと、竹の樹液が節の間にたまり、それが発酵して竹酒になると言われている。実際、アフリカのタンザニアでは、ウランジという名前の竹の樹液を発酵させた醸造酒があるという。タケノコの先を少し削って出る樹液を集めて発酵させるのだそうである。ビールのような味だという。
   来年は竹酒にも挑戦してみようと思っているが、それよりも、今回の白い樹液現象、しばらくその状態のままにして様子を見ようと思っている。竹もわれわれ人間と同様、生きているんだな、と改めて思った。
 樹木や竹は、動物と違ってじっとして動かないので、生命機能がめまぐるしく働いているとはなかなか感じられないが、こんなことがあると、改めて植物の生命の不思議さを感じる次第である。
 そう思うと、竹の茎を切ることに少しためらいが出るが・・・。
  この現象については、また続きをお知らせしたいと思っている。
72 2010-5-23(日)
虚像と実像
 年を取ってきたせいか、青春時代に聞いた歌が懐かしく思い出され、Youtubeを使って、昔の映像や歌を聴いている。
 最近、気に入っているのが、伊東ゆかりさんの歌である。少し鼻にかかった甘い声が何とも言えずよい。「星を見ないで」などいい曲がある。自分の青年時代が思い起こされてとても懐かしい。
 そのような昔の曲を聴いていると、歌手に限らず芸能界の人たちの虚像と実像ということを考えてしまう。
 伊東ゆかりさんの歌は魅力的であり、その歌と併せて伊東ゆかりさんも魅力的である。これは、たぶん作られたもので、いわゆる虚像であるだろう。本名の伊東信子に戻った時の伊東ゆかりさんはどんな人か分からないが、実像はどんなであろうか。
 過去に、舟木一夫さんのドキュメンタリー番組があった。厳しい家庭環境の下でスターダムに上り詰めた舟木一夫さんがある時、自殺未遂を図ったことがあった。その時のことを舟木一夫さんは、「ある時、上田成幸が舟木一夫に押しつぶされた」というようなことを語られていた。まさに、芸能人の虚像と実像の関係を象徴するような言葉である。
 言い換えれば、長年虚像の中で生活していると、いつの間にか、それが実像のようになってしまい、本名に戻った時も芸能人を演じ続けてしまうということなのだろう。
 このことはわれわれにも当てはまる。仕事とプライベートの関係がそうである。職業の中には、公務員のように、仕事を離れても公務員の倫理観を要求されることがある。教職員が飲酒運転をすれば、戒告や訓戒、ひどい時には減給、停職などという制裁を受ける。否応なしに職業人を意識させられる。
 そうやって長年仕事にどっぷり浸かっていると、いつの間にか、仕事=プライベートのような感覚になってしまうことがある。
 その仕事から解放された時、もともとの自分に戻るのに時間を要する。
 私も仕事を辞めて二年になるが、今でも時々は、うまくいかず焦っている仕事の場面が夢の中に出てくることがある。人生の2/3に当たる40年近く一つの仕事に就いていれば、単純に計算しても、その内の1/3を仕事に費やしたとして、自分の人生の2/9は職業人としての人生である。もちろん残業を入れれば、あるいは、プライベートでも仕事のことを考えていれば、その時間はもっと長くなる。人生の1/3かそれ以上になるであろう。残りの1/3は睡眠、1/3がプライベートとなる。
 そんな中で職業人として要求される所作が自分を形成してしまうのは当然である。残りの1/3のプライベートに戻ったとしても、中身はすっかり職業人的になってしまっている。
 何が虚像で、何が実像なのかわからなくなってくる。
 自分の第二の人生をうまく築くことができるのだろうかと考えてしまう。
 一度しかない人生、自分探しの旅は死ぬまで続くものなのかも知れない。
 そんなことを思う今日この頃である。
73 2010-5-27(木)
 また妻がDVDを借りてきた。「オーストラリア物語」という洋画である。
 まったく知らない映画であったが、妻が言うには、評判になった映画であるという。
 早速見ると、オーストラリアに古くから住む原住民アボリジニーに関係する物語であった。
 これまでの私の知識によれば、元々アボリジニーは言語を持たなかったという。今、文化人類学で、アボリジニーの文化を掘り起こし保存しようという取り組みやツアーも計画されている。遅まきながら、人類の歴史に光が当たろうとしている。
 読者もご存じのように、アボリジニーのことが人口に膾炙するようになったのは、オリンピック水泳の英雄イワン・ソープ選手からではないだろうか。イワン・ソープ選手は、アボリジニー出身で初めて金メダリストになった選手である。
 オーストラリアをはじめ、白人の植民地政策によって迫害された原住民は数多い。
 ダーウィンの「ヴィーグル号探検記」にも、そのことが述べられている。ダーウィンの視野を広げたのは原住民との出会いであった。
 その土地に長く住み、その土地の風土を知り尽くした原住民の人たちの生きざまは、文明という人工社会に慣れ親しんでいるわれわれに、人間存在への目を開かせる。
 人間は、自然の中で育まれて生きる自然の一部としての存在である、そのことに気づかせてくれる。
 現代社会に生きるわれわれには、文明と離別した生き方は今更できないかもしれないが、文明のなかった時代の生き方から学ぶことは、現代社会の中で悶々としている現代人に一筋の光明を与えてくれるのではないだろうか。
74 2010-6-6(日)
ツバメとスズメ
 ツバメが活躍する時期になった。
 ツバメと言えば、益鳥であり、渡り鳥であり、鳥類の中で最速の鳥である。飛翔速度は時速200kmに達すると言われている。
 小さい頃は、友達と二人で小屋に追い込んだツバメを捕まえようとしたことがあった。小屋に追い込んだのは良かったが、なかなか捕まえられず苦労したことを思い出す。今思うとツバメさんには気の毒なことをしたものだと思う。
 ところで、ツバメは上に述べたように、益鳥というイメージが強い、そして、巣作り、子育てと人間にとってイメージの良い鳥である。
 そのせいか、昔からツバメは大事にされてきた、玄関に巣を作り、糞を玄関先にまき散らしても、大目に見られる。
 一方、スズメは害鳥の如き扱いである。われわれ人間には、ツバメよりも近い鳥であるが、なぜか、ツバメよりもイメージが悪い。
 ツバメがやってくると、スズメは敵対心を燃やして、ツバメの巣作りや子育ての邪魔をする。時には、ツバメの作った巣を横取りして自分のものにしてしまうこともある。
 ツバメの巣は、泥を固めたものであるが、スズメはその辺にある枯れ草などを使って巣を作る。人間的な感覚で見ると、普段から住んでいるスズメにとっては新参者のツバメに自由にさせてなるものかという感じに見える。なんだかんだとツバメの邪魔をする。
 ツバメは、それに対抗して、見張り役を立てて巣に近寄ろうとするスズメを牽制する。このようなバトルがあって、それをくぐり抜けてツバメの子育てが行われる。
 私の感覚では、スズメが悪者にされるのは、雑食性で虫(害虫)も食べるが、大切な稲を食べることからきていると思われる。この点では稲作を主とする農家の人に恨まれるのはやむを得ない。
 しかし、その点を除けばスズメもそうそう悪者ではないと思うが、毎日見ているので良くない面が見えてしまう。例えば、軒下に寝泊まりして、その下に糞をいっぱい落とすし、樋に枯れ草やわらなどを持ち込んで巣を作るので樋が詰まって雨がオーバーフローすることもある。
 一方、ツバメは肉食性であるので、稲につく小さい昆虫などを食べ、穀物は食べない、そのため、駆除してはならないことになっている。
 ツバメ、スズメそのものの生物学的理解と人間のフィルタを通してみる社会学的?理解とでは、大きな差がある。
 ちなみに、ツバメはスズメ目ツバメ科に属するスズメの仲間である。今のような時代になると、ゲノムの違いからその類縁性がより詳しく分かるかも知れない。また、ツバメ・スズメと人間のつき合いを文献から歴史的に考察してみるのもおもしろいかも知れない。
75 2010-6-16(水)
果実の袋かけ
 畑にあるビワの木に果実がたくさんなっている。
 毎年、たくさん実がなるが採って食べることもせず、カラスや鳥の餌になっている。
 今年はもったいないので、できている果実に袋をかぶせて収穫し、季節の味を楽しもうと思っている。
 早速、果実用の袋を買ってきて袋かけにかかった。
 ビワの果実は枝に直接果実が付くので、大きな葉っぱが邪魔をしてなかなか袋かけがしにくい。
 ブドウやキウイは、果実に連なる細い葉っぱのない軸枝があって袋かけがしやすいが、ビワは結構難儀である。
 それでも果実のかたまっている枝を選んで袋かけをしているが、黄色く熟する前の緑色の果実には緑色のカメムシがたかっている。昆虫独特の保護色による擬態である。気をつけないとカメムシごと袋をかぶせてしまうことになりかねない。カメムシのための袋かけになってしまう。
 しかし、不幸中の幸いで振動を与えずに袋かけをすることがしにくいので、袋かけをしようとするとカメムシは飛び立つのでOKである。
 そのほかにミノムシ、オビカレハの幼虫などもいる。
 ちなみに、ビワの木は薬効がすぐれており、古来、薬王樹と呼ばれていたとか。
 葉も実も枝皮も種も根もすべて薬効があるらしい。ビワの葉酒、ビワ酒、ビワ茶、ビワ風呂、また、葉をそのまま皮膚に貼り付ければ皮膚病にもよい。
 鑑真和上が中国より伝えたと言われ、聖武天皇時代の施薬院でもビワの葉治療が行われていたと言われている。
 さらに、古く古代インドでは、大般涅槃経の中にビワの木は大薬王樹と記載されている。
 ビワの袋かけのついでに、ビワの木の効用についても知ることができた。
 また一つ視野が広がった気がしている。
76 2010-7-4(日)
イヌの散歩
 畑仕事の帰りに近所の人に会った。
 家で飼っているイヌの散歩である。そのイヌのことで話をしていると、首に鑑札のようなものがぶら下がっている。
 事情を聞くと、マンホールに捨てられていたものをボランティアの人が救い出し、そして養われていたイヌを引き取ってきたということであった。
 首の鑑札は、迷子になっても分かるようにつけてあるのだそうである。
 飼い主の近所の人にはなついているが、私が近づいていくとおびえるように逃げる。ボランティアの人に救われるまでにどのような仕打ちを受けてきたのかおぼろげながら想像がつく。
 そこへ私の母親がやってきた。なんの気なしにイヌに近づくとやはり逃げる。
 近所の人の弁によると、人間を信用していない、ということであった。
 私も過去に二回イヌを飼ったことがあるが、苦い思い出がある。そのことが思い出される。
 もう10年近く前になるが、夏の暑い日だったと思うが、二回目に飼ったイヌがけいれんをするようにして亡くなった。父親と二人でまだなま温かいイヌを埋葬した。生き物は親近感があって良いが、死と直面している。これは避けようのない事実であるが、やはり、こたえる。
 だから、現在は生き物は飼っていないが、この年になってくると、もう一度飼おうかなという気持ちもある。
 血統書付のイヌでなくとも、今回のような形でのイヌとの出会いもある。
 読者の皆さんの中にも動物を飼っておられる方があると思います。
 今回のようなケースをどう思われますか。
76 2010-7-15(木)
晴耕雨読
 私の現在の生活は、「晴耕雨読」である。
 晴耕雨読とは、読んで字の如く、晴れの日は田畑を耕し、雨の日は読書にいそしむということである。
 我が家の竹林の整備がきっかけであるが、雨の日はそれができないので、自然に雨読となる。
 耕の方は、竹林の土手にたくさん廃棄物が埋めて捨ててあるので、それを掘り起こしている。
 ところが、竹林の孟宗竹の茎が土手にも伸びて、廃棄物と絡まっているので、併せて、孟宗竹の茎を掘り起こすことにもなっている。
 読者は、孟宗竹の太い茎がどれほど掘り起こすのが大変かご存じだろうか。伸びた茎から、しっかりした根が四方八方に張り、掘り起こすのが大変である。この作業を晴れた日には毎日やっている。
 読の方は、修士で研究をした「窒素循環と生物の関係」に関連する研究論文を読みあさっている。7〜8割方は英語の論文である。ちょうど、老化防止にいいだろうと思って進めている。
 日本語訳した論文をパソコンに打ち込んでいくので、パソコンのタッチタイピングの練習にもなっている。
 最近の研究内容では、窒素固定と炭素固定(光合成)両方行うシアノバクテリアや光合成細菌のことを調べている。
 進化年代的には、光合成細菌の方が古く、光合成細菌からシアノバクテリアが進化したと考えられている。また、シアノバクテリアは植物の葉緑体の有力な候補であることはご存じの通りである。
 この光合成細菌の窒素固定に関係する酵素やコードする遺伝子が、光合成に関係する酵素や遺伝子に近いことが分かってきて、俄然、私の研究内容である窒素固定・窒素循環に新しい視点がつけ加わってきた。これは、生命の起源にもつながる内容であり、さらに続けていきたい内容となっている。
 できうるならば、実際に研究室やフィールドワークで研究できればと思っている。
 ともあれ、このような日常生活を送っているこのごろである。
 皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
76 2010-8-8(日)
身辺変化
 この年齢になり、身辺に新しい変化が起こっている。
 90才を越える父親がケガをし、家での母親による介助が限界にきて専門的な老人介護の必要性が出てきた。
 中学校の同級生が参事をしている老人介護センターに入所をお願いし、ショートステイをすることにした。
 しかし、ショートステイをお願いする原因となった足の腫れが引かず、ステイ先の医者の診断で骨折の疑いがあることが分かり、整形外科に緊急入院することになった。
 ところが、老人介護センターとこれまでの主治医との間の微妙な関係があり、主治医を通じて専門病院の紹介も含めて治療をしてもらわなければならなくなった。
 つまり、老人看護センターは、医療法人ではないので治療ができないのである。
 やむなく、その方向で手続きを進め、老人介護センターを退所し、主治医の元に行ったまでは良かったが、そこから先の整形外科の受け入れが決まらず、2時間余り足止めをされることとなった。
 自家用車に乗せて運ぶことのできる状態ではないので、主治医に救急車を要請したが、受け入れ先整形外科病院が受け入れを拒否、仕方なく当方で介護タクシーを急遽頼んだが、これも今すぐは用意できないとの返事。
 現在大きな問題となっている患者のたらい回しの状況となった。
 私は、そのままだと、父親の受け入れができなくなると判断し、とりあえず主治医に救急車を要請した。
 救急車が到着したまでは良かったが、主治医は、受け入れ先病院に救急車での搬送を頼むと受け入れ拒否に会う可能性があると言い受け入れ先病院への連絡に消極的である。
 あげくのはてに、到着した救急隊員に何処でもいいから受け入れてくれそうな病院に搬送して欲しいと言い出した。
 怒鳴ってしまいそうになったが、おだやかにお願いしていると、救急隊員が見かねて、「主治医先生が病院に電話してもらわないとできない」と言ってくれた。
 重い腰を上げた主治医が搬入先の病院に電話をして何とか受け入れを取り付けた。
 搬入先病院は、私がショートステイ先で関連病院として聞いていた病院を主治医に知らせたものだった。
 この顛末から、昨今全国各地で起こっている病院の受け入れ拒否は身近なものだと感じた。
 この間、2時間が経過していた。
 受け入れ先病院に直行し、早速、レントゲン写真を撮ってもらうと、父親の足のつけのところが骨折していた。
 診察をした整形外科の主治医は、一時処置を施し、私たち家族に手術が必要だと伝えた。
 骨折から二週間が経っていることもあり、手術は、骨折した部分の骨を取り除き、人工の骨をはめ込むというものであった。
 その後、一週間以上が経過し、父親の足の腫れが引いていった。
 しかし、父親に微熱があり、手術が可能かどうか判断待ちの状況である。
 一つの山は越えたが、まだまだ険しい道のりが続く。
 高齢者の手術と介護認定手続き、そして、家庭での介護、私にとって人生初めての経験となる。
 自分の周りで起こることすべてが自分の人生と思うようにしている今日この頃である。
79 2010-8-15(日)
手術
 父親の手術があった。
 午後手術の予定であったので、午前中に病院に入り主治医の説明を聞いた。
 熱も下がり手術できる状態となったので手術をしますという明快な説明だった。
 詳しい説明を求めれば詳しい説明をしてくれたのであろうが、こういう時は「まかしておいてほしい」という医師の姿勢の方が安心できる。
 敢えて詳しい説明を求めず、「お願いします」とだけ言って、主治医に委ねた。
 午後から手術が始まったが、予定の時間をはるかに経過しても戻ってこない。
 一瞬、よからぬことが頭をかすめたが、手術後の片づけに手間取っているのだろうと考えることにして帰ってくるのを待った。
 余りに遅いので、付き添いの看護婦が見てきます、と言って確認しに行ってくれた。
 それからほどなく、父親が帰ってきた。
 看護婦とのやりとりを聞いていると、しっかりしたやりとりをしている。
 手術は成功したと思った。
 しかし、看護婦が去ってからの父親の言葉から、なぜこんなにも時間が超過したのかが分かった。
 手術の最中に、手術用機械が故障し、その修理に一時間ほど余分な時間を費やしたということであった。
 今回の手術は、出血の少ない部位の手術であったから良かったものの、そうでなかったらと思うと、とたんに手術の危険性を改めて感じさせられた。
 手術は患者の意識がはっきりした状態で行われたので、父親は手術中に「修理にどれくらいかかるのか」と聞いたそうである。
 手術は成功し結果OKであったが、その内実は危ういものを含んでいたことを知った。
 向後は、父親の一日も早い回復とリハビリに期待するのみである。
 骨折したと思われる日から今日の手術の成功まで約1ヶ月が経過した。
 父親の年齢といい、手術に至るまでの経緯といい、人間が生きているというのは大変なことなのだと改めて知らされた次第である。
80 2010-9-13(月)
リハビリ
 父親の手術から約1ヶ月になる。
 手術直後は、手術した部位が腫れていたり、痛みがあったり、熱も下がらないなど、不安材料がいっぱいあった。
 しかし、日にちの経過と共に、自分の足でもう一度歩きたいという父親の気力が少しづつ見られるようになってきた。
 父親のこれまでの1〜2ヶ月の様子を見ていると、人間の体と心は一体であるということがよく分かる。
 骨折していたのを知らず老人介護センターに入所した当初は、体が思うようにならないことから、表情がさえず、生きる気力が萎えて、いっぺんに年を取ってしまったという感じが強かった。
 ところが、骨折の疑いがあることが分かり、現在の病院に緊急搬入され、骨折していることが分かってからは、早く手術を受けたいということを口にするようになった。
 そして、術後、手術した箇所が徐々に良くなってくるにつれて、精神的にも安定し骨折以前の生きようとする気力が戻りつつある。
 現在は、自分の足でもう一度歩きたいという気持ちが強くなっているようで、少しずつリハビリにも取り組むようになっている。
 父親の一日も早い回復と人間は心身一如の存在であるということをひしひしと実感しているこのごろである。
81 2010-9-18(土)
生物多様性フォーラム
 9月15日、名古屋市で開催された生物多様性フォーラムに出かけた。
 一ヶ月後、COP10が開かれる名古屋国際会議場である。
 これに参加したのは、生物多様性について意識を高めるためなどという高尚な理由からではなく、パネルディスカッションに参加する日本有数の生物学者岩槻氏の話を聞くためである。
 予想通り、岩槻氏の発言には考えさせる重みがあり、高い運賃を使っても聞く価値のあるものだった。
 残念ながら、講演会ではなかったので、たっぷりと話を聞くことはできなかったが、それでも、発言内容の端々になるほどと頷かせるものがあった。
 岩槻氏の今回の発言の中で印象的なものは、里山イニシャティブの取り組みにふれて使われた「自然の保護ではなく、自然との共生をめざす」という言葉である。
 自然保護とは、人間が自然を資源として使い続けるために保護するという考え方であり、自然との共生は、そのような人間の都合によるものでなく、人間も自然の一部として共生するという考え方である、ということだった。
 われわれ何となく自然保護という言葉を使っているが、その言葉に含まれている概念をも含んで考えていくべきであることを教えられた。
 岩槻氏は、生物分類学が専門だったと思うが、生物学者らしく生物学用語の定義や使い方を大切にされていることがよく分かった。
 他にも、俳優田中律子氏の沖縄珊瑚礁復活の取り組みも紹介され、新たに目を開かせられる内容があった。
 第二の人生の取り組みの一つとして、今後も、フォーラムやシンポジウムなどの出かけ、見識を広めていきたいと思っている。 
82 2010-10-17(日)
チリ落盤事故
 10月13日、チリ落盤事故から68日ぶりに鉱山に閉じこめられていた33名全員が無事救出された。このニュースに、全世界が祝福のエールを送った。
 久しぶりに明るいニュースにわいた一日だった。
 しかし、この事故の背景をよく考えてみると、救出劇は救出劇として、複雑な思いを持つのは私だけではないであろう。
 チリは南米の太平洋岸に位置する細長い国で、鉱物資源の埋蔵量が豊富で鉱業中心の国である。今回の落盤事故の起こった鉱山も銅鉱を掘り出している。
 ご存じのように、チリの銅鉱算出は世界第一位であり、当然、国を挙げて算出に拍車がかかっている。給料払いもよく、半ば危険を承知で鉱山で働く人が多いといわれている。
 事故のあったサン・ホセ鉱山は過去にも落盤事故を起こしており、坑道の強度が不十分で閉鎖が問われていた鉱山である。
 日本でも1981年には、北海道の北炭夕張新炭坑でガス突出・爆発事故があり、坑内に生存者がいる可能性がある中で、注水作業が行われた。いわば生存者を見殺しにする対策がとられ、その様子がテレビで報道された。なんとも悲惨な場面だった。
 今回のチリの事故も起こるべくして起こった事故であり、全員絶望といわれかねない状況にあった。
 これらのことを考え合わせてみると、今回の事故は人災の様相が強いように思われる。
 結果的には、全員無事救出というめでたい結果であったが、今後のことを考えると、手放しで喜んでばかりいられないであろう。
 しかし、人命最優先といわれながら、人命が軽んじられる場面が多い昨今の中で、久しぶりに人間らしいニュースに出会って思わず顔がほころんだ。
83 2010-10-31(日)
お祝いまんじゅう
 先日、知人が大学の講師に栄転するというので、餞別をした。
 何にしようか迷ったが、お祝いのまんじゅうを送ることにした。
 まんじゅうはなかなか味わい深い食べ物である。まんじゅうのうんちくは又の機会にするとして、どんなまんじゅうにしようかいろいろと考えた。予算との関係もある。
 最近は、まんじゅうを作っている店が少なくなっているが、私が選んだのは、市内の老舗の和菓子屋である。そこは、以前からちょくちょく利用していて、客の要望に応じて和菓子を作ってくれる店で、私の気に入りの店の一つである。
 餅とまんじゅうとどちらにしようか迷ったが、小判型のまんじゅうを紅白10個ずつ、計20個、早朝から焼き上げてもらい、金色の祝の判を入れてもらうことにした。
 ほかほかの焼きたてまんじゅうを届けると、「すごい、圧巻」と言って大好評だった。
 人への贈り物というのは気を遣うものであるが、気を遣ったことが報われると大変にうれしい。
 皆さん、お互いにちょっとした心遣いを大切にしましょう。
 まんじゅうの古今については、「随筆日記 回想編」にも書いています。そちらもごらんいただければと思います。
84 2010-11-8(月)
パソコントラブル
 ここ3週間ほど、パソコンの調子が悪くて困っている。
 WindowsXPであるが、OSの調子が悪く、チェックソフトで二カ所ほど黄色のマークがでている状態である。
   詳しい話は、パソコンのページで取り上げたいと思っているが、概略を述べると、OSを入れてあるCドライブのHD(ハードディスク)が壊れかけている。
 Crystal Disk Infoというフリーのディスクチェックソフトで見ると、C5・C6の二カ所に黄色のランプが点灯している。C5は、代替処理保留中のセクタ数、C6は、回復不可能セクタ数のことである。
 症状はというと、WindowsXPの特徴であるのかどうかはわからないが、Windowsの画面が出なくなってしまった。
 つまり、WindowsXPの入っているCドライブがブートディスクとして認識されなくなった。
 WindowsXPの通称「ピロピロ」の画面が出る前で止まってしまい、「コンピュータハードウェア構成の問題のため、Windowsを起動できませんでした。ブートパスとブートディスクハードウェアを確認してください。」というエラーメッセージが出てお手上げ状態である。
 そうこうしているうちに、CDドライブ、DVDドライブが認識されなくなった。デバイスマネージャーをみても、!マークも出ていない、デバイスドライバがありません、という始末。
 マザーボードがやられた、WindowsXPが壊れた、HDが壊れた、いろんな原因が考えられる。
 データは外付けの別のHDに取ってあるのでOKであるが、なんとかしたいのは、メールのアドレス帳とインターネットのお気に入り、それに、Cドライブに追加でインストールしたTexやMEGAやJavaなどである。
 しかし、Windowsそのものが立ち上がらない状態では、なんともしようがない。
 結論をいうと、いろいろなことを試しながら、結局、WindowsXPのクリーンインストールをし直し、アドレス帳とお気に入りを何とかリカバリして、元のWindowsXPに近づけ、必要な追加アプリケーションをぼちぼちインストールし直し始めている。
 そこに至るまでの顛末については、少し専門的な内容も含めて、「我がパソコンライフ」のページで詳しく取り上げますので、興味のある方は、そちらを見てください。
 とにかく、みなさん、パソコンはなんといっても機械です。過信は禁物だし、トラブったときにあわてなくてよいように、普段から準備をしておきましょう。
 今回の教訓です。
84 2010-11-14(日)
サイレン
 先日、伊賀に出かけた帰り、午後7時頃道路を走行していると、突然、大きなサイレンの音が響いた。
 懐かしい響きである。
 私の住む地域では、サイレンの音を聞かなくなったが、ちょっと前までは、午前11時30分、午後5時30分?には、役場の屋根にあるサイレンが鳴っていた。
 また、他の町のサイレンも同じ時刻に鳴っていた。
 午前11時30分は野良仕事を終えて昼ご飯の時間ですよというお知らせであり、午後5時30分は家に帰り夕ご飯の時間ですよ、というお知らせであった。農村地域ならではの、生活に密着したものであった。
 伊賀の地域では、現在もサイレンを鳴らして地域の人にお知らせをしているようである。
 自分の地域ではサイレンが鳴らなくなっているが、なんでかなというくらいで格別気にもとめていなかったが、現在も鳴らしている地域があるとなると、なぜかなと改めて考えてみた。
 行政の都合かなと思っていたが、先頃、ある人に聞くと「役場のすぐ近くの中学校から、サイレンの音がやかましくて勉強ができない」とクレームがつき、なくなったということだった。
 このことをどうとらえるかは人それぞれであると思うが、私は、そんなことでサイレンを鳴らすのをやめたのか、という感じで少し意外だった。
 確かに、近くで大きな音がすれば、勉強の集中に差し障るのはわからないわけではないが、そうかといって、地域にとって必要なものを地域の人には何の知らせもなく一方的に止めていいものか、とも思った。
 事実、私も住む地域の人の中には、前のようにサイレンが鳴らないから、時刻がわからんで困る、という人がいる。
 現在、子供の教育は家庭・地域・学校の連携のもとでと言われているが、サイレンの問題は、学校と地域の連携という点では、考えさせるものを含んでいるのではないだろうか。
 サイレンの音を久しぶりに聞いて、たかがサイレン、されどサイレン、という感じで、サイレンの音一つ、考えるべきものがあるんだなと改めて感じた次第である。
84 2010-12-11(土)
冬のソナタ
 久しぶりに借りてきたDVDを見た。タイトルは少し前に有名になった韓国ドラマの「冬のソナタ」である。
 視聴された方も多いと思うが、私は、世間で大変な人気を博したというくらいしか知らなかった。
 そのブームが収まって少し経つが、「冬のソナタ」がなぜそれほど人気になったのか、そのわけを知りたいと思い妻に頼んで借りてきてもらった。
 視聴してみて、私の青春時代に見た純愛ドラマがより洗練された形で作れられていて、昔より数倍きれいになった画面で懐かい恋愛ものを見ているという感じがした。
 このドラマを貫くテーマは愛である。どこまでも愛を貫くという精神である。今は失われつつある日本人の心情をゆさぶるものとなっている。
 一途な愛が展開されるシチュエーションは、半ば現実離れしているが、場合によってはあり得るものとして描かれている、このあたりは脚本家の真骨頂である。
 そのシチュエーションは以下のようなものである。
・自分の初恋の人が交通事故で突然亡くなる、
・10年間心の中に抱き続けた初恋の人に生き写しの人と出会う、
・生き写しの人は亡くなったと思っていた記憶をなくした昔の恋人その人だった、
・初恋の人と自分の父親は同じだと知らされる、
・一転して父親は同一ではないと知る、
・交通事故の後遺症手術により初恋の人は失明する、
・失明した初恋の人と再会する。
 世の中にこれだけまとまったシチュエーションはないだろう、しかし、シチュエーションの一つ一つは身の周りに起こりうる。それを巧みに組み合わせて、ドラマチックに展開している。
 視聴者は、めまぐるしく展開する状況にはらはらしながら吸い込まれていく。それが、このドラマの人気につながっていると思われる。
 一つ一つのシチュエーションの展開については、次回以降に深堀りしてみたいと思う。
 また、配役キャストもよい。主人公ペ・ヨンジュンとヒロイン チェ・ジウの美形と素朴だが純粋な演技には好感が持てる。
 特に、涙のシーンが度々あり視聴者の涙を誘う。このあたりは、俳優の演技に負うところが大きい。視聴者を引きつける演技はさすが俳優である。
 昔の映画を知っている人がこの映画を見れば、自分の胸ときめいた青春時代を思い起こし涙するであろう。
 自分が貫き通せなかった愛を貫き通そうとする二人に胸ときめいた自分の青春時代を重ね合わせ、がんばれと声援を送るだろう。私にもそのような青春時代があった。
 このドラマが人気を博するのは、裏を返せば、現代日本にはそのような純粋な愛が少ないということであるのだろう。
 今や韓国でもそうかも知れない。それは、このドラマが人気を博したのは、韓国からだからである。韓国に住む日本人も多いし、日本に住む韓国籍の人も多い。韓国で流行ったドラマが日本や日本人にも人気を博するのは必然である。
 このような映画が生まれる背景には、韓国にはいまだ純粋な愛を尊ぶ土壌があるのかも知れない。韓国の様子を知らない私には、それ以上のことはわからない。
 日本人の心の中から感謝や互譲の精神、もったいないという精神が失われつつあるということをよく聞く。
 それは、我々日本人一人一人がそれらを忘れつつあるということとともに、そのような日本人を作ってしまっている日本の社会構造の変化、大きく言えば世界の変化が大きいのかも知れない。
 そんなことを考えながら「冬のソナタ」を視聴した。
 次回以降、具体的な内容について少し掘り下げてみたいと思っている。
84 2010-12-18(土)
冬のソナタ2
 「冬のソナタ」の二回目である。  この作品は、初恋の人が交通事故でなくなるというせつないストーリーで始まる。
 この物語は、もちろん架空の出来事であるが、私の身近で、それと同じようなことが実際にあった。
 私が高校一年生生の時、私の通う高校の前で夜遅く若い先生二人が横断歩道で車にはねられ、即死するという事故が起こった。
 朝、登校すると、横断歩道近くの溝には血糊の後があった。
 二人の先生は、20代だったと思うが、一人は地学のT先生、もう一人は音楽のA先生であった。
 T先生の方は、地学の授業を受け持ってもらっていた。私は、自然科学ガ好きだったので、この先生の地学の授業はいつも楽しみにしていた。T先生の授業をずっと受けていたら、私のその後の進路は変わっていたかも知れない。T先生の授業がもうないことを残念に思ったことが思い出される。
 もう一方のA先生は、授業を担当してもらったことはなかったが、この事故で知ることになった。
 このA先生にはフィアンセがいた。結婚間近というときに、フィアンセが逝ってしまう、残された相手はどんな心境だったのだろうかと思う。
 そして、高校の第二体育館を借りて、追悼コンサートが催された。
 美形のフィアンセの女性は哀悼の意を込めて切々と独唱し、集まった聴衆の涙を誘った。
 フィアンセが亡くなって、一生独身を通したという話をよく聞くが、その後、その女性はどうされたのだろうか。
 「冬のソナタ」でも、初恋の彼氏が亡くなったという設定になっている、そして、忘れ得ぬ思い出をいつも胸にとどめながら生きる女性の姿を描いている。
 自分の昔の思い出を、その後にどう生かすかは人さまざまであろうが、強烈な過去の思い出を忘れたくても忘れられないとしたら、その後の自分の人生をどう過ごすであろうか、私の人生を振り返りながら、そんなことを考えていた。
84 2010-12-26(日)
冬のソナタ3
 「冬のソナタ」の三回目である。
 このドラマは、主人公がヒロインの心に思い出を刻みつけたまま亡くなるが、10年後、記憶喪失した別人としてヒロインの前に再び現れるという設定になっている。しかも、ヒロインの恋敵の恋人として現れるという現実にはあり得ない設定である。
 ところが、このドラマでは、それが特に不自然とは写らない。
 それはおそらく、視聴者がこうあってほしいという心情をうまくついた場面設定となっているからであろう。
 私の理解としては、作られた映像というのは不思議なもので、見る人の心情をくすぐりながら場面が展開されると、設定が不自然でも不自然と写らないという心理からきていると思われる。もちろん、冷めた目で見る人には、不自然だ、あり得ないということになるのであろうが、そのような人はこのドラマを興味を持って見ないだろう。
 従って、心情をくすぐられると感じる熱心な視聴者は、亡くなった人が突然現れるという通常あり得ない設定にも胸躍らせて、これからどうなっていくのだろうかとわくわくしながら見るであろう。
 そして、その落としどころは、別人と思っていた人は亡くなった人そのものだった、となっていく。視聴者の心理をうまく逆手に取っている。
 こうして、初恋の人とのなりゆきを自分に置き換えながらドラマの展開にのめり込んでいき、熱狂的なファンとなっていくのだろう。
 このドラマが評判を呼び、圧倒的な視聴率を誇った背景には、現在の日本の映画では失われてしまったあくまで純粋な愛を貫き通すというひたむきな生き方への共感があったと思われる。
 架空の出来事だと思いながらも、映像を通して心理的に視聴者を引き込んでいく、このあたりがドラマ作りに携わった人たちの腕の見せ所であるのだろう。
 最近は、映画でも現実以上の臨場感を出すCG技術がよく使われるが、現実以上の現実感を出す映画作りは、映画作りに携わる人たちのプロとしての腕である。
 そんな感想を持ちながら、現在も続きを見ている。

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