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姫の夕餉(2)
著者:ぶるくな10番!

一恵の花屋は午前10時にオープンする。
モモコの勤務は正午12時から午後16時までのパートタイムで時給は700円だった。
もともとこの仕事はお金が目的ではない。
これといって趣味のないモモコであったが、幼い頃より唯一、心惹かれる存在が花であった。
世界中の花々の香りを嗅ぎ、色合いを愛で、形の違いを観察するのが好きだった。
もの言わぬ植物達の声に耳を傾け、始終ひとり言を繰り返していたと母親から聞いた。
いつから花々の声が聞こえなくなってしまったのか。
モモコの中で何かがほんの少しだけ捻れてしまった瞬間から。
「困りましたねぇ。そう言われましても、地主から所有権移転登記の完了した登記簿がある以上は、すでにこの土地は清水組のものでして、いくら奥様が美人であっても、それだけは曲げられませんよ。おっと、未亡人であられた。しかしどうお呼びしてよいものか、ははは」
薄墨色のダブルの背広を着た、見かけはまともな弁護士風の男は、穏やかに、しかしやや冷淡に威圧をかけながら一恵に詰め寄っていた。
「だからよぉ。聞いてんのか、アー。先生が持っているそれが土地の権利書なんだよ。ひと月だけ待ってやるからよ。それまでに出ていかねぇと、おめぇんとこどうなっても知らねぇぞ、コラァ。仲間呼んできてボコボコだ」
まともな弁護士先生が連れているとは思えない、どう見てもヤクザの下っ端のような若い男がすごんで見せた。
「こらこら、止めなさい。奥様が恐がっているではないですか」
「…はい、すみません先生」
どうやら弁護士には逆らはないよう教育されているらしい。
招かざる客の一方的なもの言いを、黙って後ろから見ていたモモコが口を開いた。
「あんたたち、帰りなさいよ。警察よぶわよ」
「なんだぁ、このガキャ」
ヤクザの下っ端風の男が、モモコを上から見下ろしながら、啖呵をきった。
「あんた、さっきこの店を仲間とボコボコにするって言ったわね。それは恐喝罪よ。あんた達が立ち退きを要求するなら、こっちは恐喝で逆提訴してやるわ」
目の前の二人に、声を張り上げた。
「んだとぉ、コラァ」
「止めないか」
弁護士がチンピラを制した。
「ほほう、恐喝ですか。お嬢様は法律をご存知ですか?まぁしかし先程の発言では恐喝ままたは、その未遂までにはもっていけませんな。もともと土地の所有権のある我々が明け渡しの交渉に来た。百歩譲ってこの男が1年務所入りしたところで、所有権自体は動かないのですよ。奥様やお嬢様には提訴するどんなメリットがあるというのですか。ここはお互いスマートに穏やかにいきましょう。もちろん土地は清水組のものだが、居住権が奥様にはある。だからタダでとは言いませんよ。引越し費用や不動産の紹介、向こう三カ月分の家賃、その手数料まで用意いたしますと言っているのです」
あくまでも丁寧に答えてはいるが、言っている内容は立ち退きだ。
「土地の権利があなた方に移っているとは知りませんでした。でもこの建物自体はまだ亡くなった主人から相続された、私の所有物である筈ですが…」
「ああ、そうそう言い忘れていましたが、もちろんそれに関しても一級建築士と不動産屋を呼んでこの建物を鑑定させましょう。その上でさらにプラスの見積もりをお出ししますよ」
モモコは、時々、薄っすらと蔑んだ笑みを浮かべる弁護士の表情がムショウに気に入らなかった。
「ちょっと待ってよ。この店は一恵さんと旦那さんが、20年も汗水たらして働いたお金で手に入れた、夢のお店なのよ。そうあっさり引き渡せると思わないで。最近この土地周辺の開発が進んでいるからって、土地の転売を目的に出て行かせようって魂胆なんでしょ。その建築士と不動産とやらにも、お金積んで二束三文の鑑定させる気ね。みえみえだわ」
「んだぁコラァ」
連れの下っ端が、こめかみに血管を浮き立たせてモモコを睨みつける。
「ははは、土地転がしなんて最近は流行りませんよ。それになんなら、鑑定人はそちらに選んでもらっても構いません。私は清水組より依頼されて、この土地の明け渡しの交渉に来ているだけです。お嬢さん、これも仕事なんですよ。そう怖い顔なさらずに。今日は美人お二人のご機嫌が斜めのようだ。また出直すことにしますよ。それでは。ごきげんよう」
「もう来ないで」
モモコの言葉には答えず、弁護士は笑みを浮かべて浅く二人に礼をするとすぐに背中を向けた。ヤクザの下っ端の若者は最後までモモコを睨みつけたまま、もの言いたげにしていたが、やがて弁護士の歩きだす方向へくっ付いて店を出て行った。
モモコは困惑の表情を浮かべる一恵の左手を両の手で包みながら優しく言った。
「一恵さん、気落ちしないで。きっと何か言い方法がみつかるわ。私も法律勉強してみる」
「知らなかった。」
「え?」
「あの人にはまだ私の知らない借金があったらしいの…」
「それは…どうして分かったんです?」
「最近知ったあの人の口座から毎月20万づつ、何処かから引き落とされていて…この半年分は蓄えがあったらしいんだけど、先月未納通知が来て…」
「その支払い先はどこなんです?」
「三興信販っていう…さっきの清水組の地主さんが経営してるらしいの」
「やっぱり、あいつら計画的に乗っ取るともりなのよこの土地を。それで、借金の総額はどのくらいなんですか?」
「2千万…」
「そんなに!」
「分からない。何故そんなに借金があるのか…」
すっかり打ちひしがれた様子の一恵に、手を握るモモコにはかける言葉さえなかった。
ふと寂しげに揺れるコスモスに目を落としながら、この不幸の思念が世界中の何処にも発信されないことを願うばかりだった。

今日は休んでしまおうか。風俗の仕事に出かけるのには気が重すぎる。
パステルピンクの二つ折り携帯を開けると、登録メモリーから見慣れた先頭の番号をプッシュした。
「もしもし、あの…」
「おっ、その声はモモコか。今日はミクとサヤカが休みやがったもんでな、早番の子が忙しくてテンテコ舞いなんだわ。悪いがちょっと早めに来てくれや。それとも何か、モモコまで休む言うんじゃないだろうな」
「いえ…」
「そうか、安心した。で用は何?」
「今日って…指名入ってますか」
全くそんなことはどうでもいい事だったが、休むと言いそびれたモモコが聞くことなど、他になかった。
「おお、入ってる。常連の客で、山下っていう。月3回は来てくれる人だからな。大事にせいよ」
「分かってます。じゃ、早めに」
「あー、また客が来た。それじゃまってるから。」
発信音が途切れた。
そしらぬ顔の雑踏に夕暮れの街並みが淀んで見えた。
本当に見えない細い糸が繋がっているのだろうか。
コスモスの言葉をそのまま受け入れることはできない。
だとしたら、他人の痛みの分かる者同士が、傷付け合い生きているこの不条理はどういうことなのか。
それとも、幸と不幸はお互いの均衡を保って、どちらかが一方的に減りもしなければ、増えもしない摂理がための盲目なのか。
しかしコスモスはそう断言したわけではなかった。もっと真理が知りたい。
もっと色々なことを教えてもらいたい。
心の奥底から何かが押し出ようとしていた。
「モモコちゃん。今日こそいいだろ」
「だーめ」
「もう3カ月も通っているのに」
「だめだよ。ここはヘルス。ソープじゃないのよ」
「そこを何とかさ。今日させてくれなきゃ、他の店に行っちゃうよ」
それまでノーマルプレイで満足していた山下という客が、モモコの脚を開きながら言った。山下は40代の独身男。つい最近離婚が成立したばかりだ。
医薬品のルート営業の仕事は、医者や医療関係者への気使いが多い。
裏では大量の契約を取るために渡す賄賂は年間一千万は下らないという。
どこでも金の世の中だ。
富める者はどこまでも富み、貧乏人はどこまでも貧乏。
そいう山下の口癖は、どことなくモモコの考え方に似ていた。
「うーん。それは困るけど、だめなものはだめよ。あんまりしつこくすると嫌いになっちゃうぞ」
モモコはどうにかこの男の目的を回避したかった。
しかしその言葉を聞くやいなや、今までに見せたことのない醜い表情の山下が、突然どこかの線が切れたように、声色を変えた。
「そうか、じゃあいいよ。ケッ」
様子が変だ。
「だいたいお前なんかが、もったいぶるようなタマかよ」
「どうしたっていうの?」
3カ月も通ったあげく目的が達せられないと分かった醜い男は、思いの丈の全てをぶちまけてさらに言い放った。
「どうしたもこうしたもあるかよ。お前みたいなドブねずみのような性根の腐った女に、いくら使ったと思ってやがるんだ。生娘でもあるまいに、ちょっとは商売にも融通を利かせろや、この馬鹿女。お前はモノのように買われて、モノのようにヤラせればいいんだよ。
そういう思わせぶりな女が俺は大嫌いなんだ。小便臭いガキのくせしやがって、半生を生き抜いて来た大人相手に、駆け引きなんかするんじゃねえよ。この糞野郎。一体自分にどれだけの商品価値があると思ってんだ。勘違いもほどほどにしろ、売女(ばいた)!」
もはや山下の顔は人のそれではなかった。
突然の変容に反撃する術もなく、あっけにとられていると、突如男の首元から見えない何かがモクモクと立ち昇った。
黒い悪の思念がオーラのように山下の輪郭を覆い出す。
その悪夢のような光景を目の当たりにしている最中にも、男は鬼の形相で罵声の限りを尽くしている。
狭い部屋一面に膨張した闇のオーラから、飢えた千の手が鷲の爪のように鋭く伸びて、モモコに襲いかかった。
手首、腕、くるぶし、脚、太もも、腰、わき腹、胸に、喉に、顔に、頭にあらゆるところを掴まれ、締め付けられ、あお向けに寝ているベッドに押し付けられた。
ベッドがたわみ、パイプの脚がきしんだ。
苦しい。
モモコの顔から血の気が引いていく。
喉を締めつけられ呼吸ができない。
締め付けられる痛みの感覚はもうすでに無くなっていた。
唇から頬に唾液が伝い、まるで筋肉の調整が思い通りにならないほど身体中から力が抜けていった。
薄れゆく意識の中で、宙に舞うひとひらのコスモスがぼんやりと瞳に映る。
未知の暗闇に身を投じたモモコが目を覚ましたのはそれから2時間後のことだった。

「気がついたかい」
何処かの病室らしきベッドに寝かされ、右の腕には点滴が打たれているようだった。傍らの丸椅子にコスモスが座っている。右目は潰れたままだ。
「ここは…」
「市民病院だよ。君の勤める店から運ばれてきた。ああ、それから今の僕は余程霊眼の利く人でなければ、見えていない筈だ。声を出して喋らないほうがいい」
「あの男…」
モモコは頭の中で口を開いた。
「君がとった客のことかい?警察に尋問を受けているよ。君が倒れた後、店では大変な騒ぎでね。実際白目を剥いて倒れこんだ君に驚いて、従業員に真っ先に知らせたのは彼だったのだけれど、ただ罵声を浴びせただけで人が気を失うわけはないし、君の身体中を締め付けた痕が残るはずはないからね。救急車で君が運ばれると、警察や報道の関係者が大勢来て店長が対応に追われていたよ」
モモコは点滴を打たれている反対の手を喉元にあてがった。
「あの男は締め付けてないのさ」
「なら、どうして…」
モモコはコスモスの言葉に当然の質問をぶつけた。
「君は真理が知りたいと願わなかったかい。だから本当のことが見えたんだろう」
コスモスの言っていることが分からない。
「何度もいうが、君はもともとヒマワリの精霊だったんだよ。君の感受性が剥き出しになってしまえば、大抵のことが具現化してしまうんだ。僕はコントロールできても人間として長い間生きているうちに、君にはそのやり方が分からなくなってしまっている。今夜のことは、君の魂の記憶とその能力が何かのはずみで、突然外に出てきた結果だろうね。つまり、あの男の黒い思念をダイレクトに感受してしまうと今の君の様なことになる。そういうまともじゃない暗闇がこの世界中にはあふれているんだ。ただ感じないからといって、人と人との繋がりを否定して負の思念を放置しておくと、どこかでそれが表面化する。人の思念はエネルギーを生んで、そのエネルギーは宇宙を駆け抜けることを忘れちゃいけない」
モモコは何も言えなかった。思っただけで人を傷付ける。そんなことがあり得るはずはない。昨日までしゃかりきになって否定し続けた自分が今は病室で寝ているのだから。
「君の様子を見に、もうすぐ警察が来る。どう答えるかは君に任せるよ」
廊下からコツコツと数人の革靴の足音が聞こえた。モモコの一人部屋の病室の前で足音がやむと、静かに扉が開けられた。モモコは黙って天井を見つめていた。コスモスは椅子を離れて、部屋の片隅に居場所を移した。
「あぁ、これは良かった。目を覚まされたようですね」
白髪の医者がモモコの左手首から脈をとりながら言う。後ろにはカシミヤのロングコートを着た目つきの鋭い中年の刑事らしき男が、連れの若い刑事とともに立っている。
モモコはチラリと来訪者を確認すると、再び天井を見つめた。
中年の刑事が医者に変わってモモコの傍らに来た。
「河合モモコさんですね」
チョコレート色の革表紙の警察手帳をコート内ポケットから取り出し、モモコの目の前で縦に開くと県警、警部補の階級を示す。
それを胸元にしまい、若い刑事に目を配るとメモの用意をさせた。
医者は浅く一礼すると病室を出て行った。
中年の刑事はさっきまでコスモスの座っていた丸椅子に腰を降ろした。
若い刑事は立ったままだ。
「お目覚めのところ、早速で申し訳ないんだがね。あなたの勤めるお店…風俗店“きまぐれ天使”での午後19時30分頃、つまりあなたがそんな目に合わされた時の出来事を詳しく知りたいので、最初から順を追って質問に答えて頂きたいのだが、いいかね」
鋭い視線をモモコに落とすと一瞬の間をもった後、返答を待たずに質問を投げた。
「まずファッションヘルスとあるが、この店は何をするところなのか教えて貰いたい」
自分のことを他人に聞かれるのは嫌いだ。
面倒な質疑応答を受けなければならない。
天井を見つめながらモモコが答えた。
「セックス以外のことをする大人の遊び場です」
「セックス以外というのは、つまり男性器と女性器の結合以外ということと理解していいですか」
回りくどい言い方がかえって卑猥な印象を醸し出していた。
「はい」
若い刑事はメモを取っている。
心の中の微かな動揺と興奮が緩やかな波紋となってモモコに伝わった。
人の心の動きが何となく分かる。
中年の刑事の次に聞きたいことや、どのように調書を組み立てたいのかも大筋で予見できた。
「それでは次に…」
先回りしてモモコが答えた。
「彼は月に3回ほど私を指名してくれる常連のお客でした。本来こういったお店では法律的にも禁止されている性交、本番行為を彼が要求してきたかどうか…要求はありましたが、私はそれを拒否しました。そうすると、彼がいきなり私をなじりはじめたんです。その言葉の内容は、お前はドブねずみのような女だ。お前はモノのように買われて、モノのようにヤラせればいい。自分の商品価値が一体どのくらいあると思ってるんだ、馬鹿女、売女。というものでした。19時から入室して、シャワーを浴びておよそ10分〜15分くらいのことです。私がその時、どいう態度をとったのかということですか?どうしたのと尋ねたきり一言も何も言っていません。彼が私に直接手をかけてきたかどうかということですね?彼本人は否定するかも知れないのですが、サディスティックな性格の人でした。本人に殺意があったかどうかは分かりませんが、私の首に手を掛けて締め付けました。私は呼吸ができず、やがて意識が遠のきました。そこからの記憶はありません。身体にいくつもの痣が残っているのを見ると、気を失った後も執拗に責めていたのではないでしょうか。ちなみに私は薬物などは一切やっていません。私のマンションに家宅捜索されても何一つでてきませんよ」
モモコはゆっくりと正確に、刑事の質疑を先回りしてどことなく事務的に答えた。
若い刑事は警部補の様子を斜め後方からチラチラとうかがっていた。
やがて中年の刑事は聴取することが無くなったと分かると静かに椅子から腰を上げた。
「どうもご協力ありがとうございます。最後にもう一度尋ねますが…」
「彼は確かに私の首を締めました」
二人の刑事は黙ったまま一礼すると部屋を出ていった。

「あれでいいのか」
コスモスが部屋の片隅からポツリと洩らした。
「本当のことを言ったら、私が疑われてしまう」
「黒い影から無数の手が伸びて、身体中を締めた。確かに、薬物中毒の線を疑うだろうね。身体中に残る痣も普段から特別な遊びをしていたんだろうってね。少なくとも社会的にはそう疑われてもおかしくない立場だものな」
「思念を具現化させてしまった私が悪いのかしら」
「そんなことはない。心の闇を噴出させたアイツが悪いのさ。ところで花屋はどうするんだい。何か不安な出来事があったようだね」
「分かって聞いているのね」
「まあね」
「ねぇコスモス。人はなぜ分かり合えないの。自分のことで精一杯で他人のことを分かってあげられないの」
「今までの君がその答えを知っているだろう」
コスモスの表情が少しだけ厳しくなった。
「じゃあ何故人は盲目な感性しか持てないの。精霊達のように心の痛みが直接伝わったら憎しみあうことも、傷付けあうこともなかったのではないかしら。人間が心の発動を誤った方向に向けたって、神様にも責められない筈よ」
「君は今少しづつヒマワリの霊性を取り戻しているね。顔つきが昨日より穏やかになった。僕がキツイ言葉を投げても怒らなくなった。神様は君を責めたりしないよ」
「私のことを聞いているのではなくて、一般の人達のことよ。人間と言うひとくくりの憐れな生き物達のことを聞いているの」
「さあね。僕は神じゃない。ただ一つ言えることは、誰もがそれを知る瞬間がやがて訪れるということさ。そして後悔する。自分の考え方や思って来たことが間違いだったと、恥かしくていられなくなる時が来る」
「それはいつ」
「人によって違う。人生の途中で気づく人もいれば、一生気づかない人もいる。死んでから気づく人もいる。気づいてもなお悪のオーラを捨てない霊性は、抜け出すことのできない異次元の特別な空間に閉じ込められる」
「この世の中の価値観の尺度が今、歪んでしまっているのね。」

姫の夕餉(3)へ つづく