姫の夕餉(3) 著者:ぶるくな10番!
その後モモコは順調に回復し2日間の入院で退院した。
「お前は悪くない。だが、客はそういう目では見てくれないんだ。それに所轄の警察どころか、どういうわけか県警も動いている。もう辞めてもらうよ。」
風俗店の店長の言葉にモモコは表情を変えず、半月分の給料とお見舞いを合わせたお金55万円分を茶封筒で受け取ると、浅く一礼をしその場を去った。
少し錆びついた扉をゆっくりと開けると、遅番で出勤するナンバー1の姫とすれ違う。
モモコに気づいた嬢は薄っすらと蔑(さげす)んだ笑みを浮かべるだけで、挨拶の言葉は何もなかった。
家路をたどる暮れなずみに薄汚れた堀川に沿ってぼんやりと歩いた。
あの鈍色(にびいろ)達がざわざわと蠢(うごめ)くたびに、この世界中の何処かできっと誰かが暗闇に呑み込まれている。
人が際限のない欲望の果てに手に入れた見せかけの自由は、、慎(つつ)ましく活きる力なき者達を蹂躙(じゅうりん)し、法を遵守する正しき者達を地に這わせた。
今モモコの目に映る世界の闇は、きっと我々の内に深く眠る心の怪物。
凶暴に成長した怪物は放置されたままで誰一人狩ろうとする者はなかった。
天地を切り裂く巨大な雷(いかずち)に砕かれて、この世の全てが消えてなくなればいい。
宇宙の慈悲の届かない凍える空間に閉じ込められて、いっそみんな忘れ去られてしまえばいい。
あの彼方に沈みゆく夕日がもう二度と昇らぬ太陽ならば、こんなに苦しむことなどなかったのに。
「そんな風に考えるのはよせ。」
「コスモス!」
街中に突然姿を現した精霊につい驚きの声を上げてしまった。
痛々しく右目が潰れ左腕を失った彼の姿は街行く人達には見えていないようだ。
「君の打ちひしがれた思念の波動が外に漏れている。」
「…………」
「そんなことはどうだっていい。」
コスモスが心を読むと、突然怒りをあらわにしてモモコは強く言い放った。
「もう私の中に入ってこないで。あなたのその姿を見られる人がいないってことが…・それがすべてじゃないの?やっぱりこの世界のすべてなのよ。私なんかが変えられない。自分が何をやっているのか分からない人達が多すぎる。馬鹿で無知な人達などみんないなくなってしまえばいい。…・あなたが私の前に現れなければ、真実を知ることなど無かった。」
「僕が消えればいいってわけか。」
「私が苦しんでいること知ってて言ってるんでしょう。」
「なぐさめている時間などない。」
「もう……消えて…。」
コスモスは何かを言いたげな表情であったが何も答えず、夕暮れと夜のにじむ薄紫にそっと消えていった。
一恵の花屋はマンションから歩いて15分の距離。
入院していたとはいえ、2日も休んでしまった。
ふらりと寄った店の様子がいつもと違う。
まだ夕方の6時前だと言うのに明かりが落ちていた。
不安な胸騒ぎがして店の扉まで小走りに近づくと、閉じられたブラインドの隙間からわずかに明かりが漏れていて、奥のほうに誰かのいる気配がした。
戸口の鍵がかけられている。
「一恵さん!」
透明な二重ガラスをドンドンと叩く。
何も反応がない。
店に電話をかけようとピンクの折りたたみ携帯を開くと、ようやく奥の方でふらふら影の揺れるのが見えた。
どうやら気づいてくれたようだ。
施錠を解く音が聴こえ、ガラス扉が静かに開くと、どことなく生気のない一恵の顔があった。
「一恵さん…私、2日も休んでしまって。」
「いいのよ。入院していたんだものね。」
「入院…て言ってましたっけ?」
「警察の人が来たのよ。それに新聞にも載っていたし。ひと月で100万以上も稼ぐ売れっ子の風俗嬢、首を締められ失神。河合モモコってあなたのことでしょ。そんな三文記事が話題になる程、世の中平和ってことだわね。ふふ。」
ひっそりと皮肉交じりに笑う一恵の横顔が、少し冷淡にモモコを蔑(さげす)んでいるのが分かる。
「ごめんなさい、隠していて。でも一恵さんを騙すつもりじゃ…。」
「仕方ないわよ、お金がすべての世の中だもの。私ももっと若かったら同じことしていたかもしれないし。最近じゃ、人妻ヘルスっていうのもあるそうじゃない?モモコちゃんのように稼げなくても、私も50万くらいならなんとかなるかしらねぇ。あはは。」
「やめてください。」
悪い眠りから覚ますようにピシャリとモモコが言い放つと、一恵の表情が一瞬の驚きの後少し緩んだ。
「…・ごめんなさい、モモコちゃん。…ほら、この間の主人の借金の件…毎月百万づつ稼ぐと2年も働けば、返せるかなって…それで。」
「いいんです。それで、立ち退きには応じませんよね。これからも一緒に頑張りましょうよ、一恵さん。」
「貸地人の…清水組の社長さんと、この間の弁護士さんがいらしてね。あの人が残した三興信販への負債を立て替えるって…だから…。」
ふとみる一恵の横顔は翳りのある寂しげな表情を浮かべていた。
「一恵さん私、図書館で調べました。借地借家法っていうのがあって、借地人のほうがものすごく有利だって。立ち退かなくてもいいんですよ。あいつらは、あの弁護士は旦那さんの借金があるの分かっていて、それで強く押してくるんですよ。まんまと策略にはめられてしまっているんです。そんな汚いやつらの言いなりに…。」
二人の夢を守ろうと必死で抵抗しようとするモモコに、一恵は穏やかな口調で諭すように答えた。
「いいのよ、モモコちゃん。もう決めたことなんだから。私はもうこの店に未練はないわ。短い間だったけれど、ありがとう。月末に店を閉めるから、もしよかったらそれまでは手伝ってくれないかしら。さっき、ひどいこと言ってしまった手前、頼みにくい話なんだけれど。」
「本当にもう…。」
「ええ…ごめんね。心配してくれてありがとう。」
モモコは今にも泣き出しそうな自分に気づき、ただうなづくのが精一杯だった。
今夜は新月。
真っ直ぐに目を凝らすほど見えない月の姿が、世界を巡る人の思念に似ていた。
暗闇に光る偽りの装飾達が街を照らせば、ただ自分はここで生きていていいものかと、ますます存在理由を疑い深く思い悩んだ。
あの時一恵の心が読めてしまった。
亡くなった旦那を恨んでいた。
借金は生前、旦那が愛人に残したマンションの支払い。
仮に立ち退き要求に抗(あらが)ったとしても、残った負債は旦那の愛人のために稼がなくてはならない。
そんな屈辱に耐えてもなをあの花屋にしがみつかなければならないのか。
一恵は悩みに悩んだ末に店じまいの結論をだしたのだ。
もうモモコにはどうすることも出来ない。
その夜、堀川での一件以来コスモスは姿を現さなかった。
ドンドンドン。ドンドン。
明け方にマンションのドアを勢いよく叩く音で目が醒めた。
「えっ。」
テレビの棚にあるHDD付きDVDレコーダーの液晶時計は06:18。
「嘘でしょ?ったく、何時だと思って…。」
「早朝にすみません。警察のものです。」
扉の穴からレンズ越しに外を見ると、病院を訪ねてきたあの若い刑事がいた。
「河合さん。河合モモコさん。」
その間にも扉をドンドンと叩いている。
「はいはい、なんですか。叩かないで、今開けるから。」
鎖に引っ張られて半開きになった扉の向こうには、どこかかしら慌てた様子の・…。
「名前なんだっけ?」
「し、柴山です。」
「柴山さんね、取り調べならもっとまともな時間に来てくれない?覚せい剤も、大麻もコカインもないんだから、逃げも隠れもしませんよ。」
「いや、違うんです。木之内一恵さん。」
「一恵さん?」
「自殺しました。」
殺人、強姦、放火、誘拐、強盗、恐喝、詐欺、密輸、エトセトラ…・。
県警の薄汚れた壁にはあらゆる罪人のポスターが掲げられている。
「立花警部補、河合さんをお連れしました。」
捜査1課警部補の中年刑事が不精髭の面でモモコを出迎えた。
「朝早く申し訳ありませんね。遺体を安置しているのだが、確認してもらえるかね。」
「あの…ご遺族の方は?」
「あまり仏さんを知らないみたいでね。」
「知らない…。」
柴山が後ろから言う。
「高層ビルからの飛び降りで、あれはひどいものです。先ほどまで警察医が傷口を縫っていました。」
「やめてください。」
モモコは柴山の無神経なもの言いを鋭い口調でなぎ払った。
「失礼…。」
地下の隔離された一室にたどり着くと、ひんやりと冷たい風が身体を包む。
室内は明るい。
中央のワゴン台の上に白い布を被せられた人型の物体が見えた。
信じたくない。
立花が顔を覆っている布キレをそっと剥(は)いだ。
つい昨日の夕方まで美しかった一恵の顔は醜く腫れ上がり、額から右の頬のあたりまで大きく縫った痕がある。
決して安らかとは言えない死顔にモモコの頬を大粒の涙が伝った。
月末までは花屋を一緒にやろうと言ってくれた一恵が今はもう動かない。
「間違いないかね?」
「…・はい。」
3階の1課では14、5人の刑事が慌しく働いていた。
電話をかける者、書類を作成する者、犯人を後ろ手に縛り取調べ室へ連行する者、24時間犯罪が止むことはない。
「何故所轄に任せないんですか?私の時も…。」
「三興信販。」
立花がぶっきらぼうに答える横には柴山が座っていて、ノートパソコンで調書をとっている。
「ただ今回の件は状況と目撃者の証言からして自殺で間違いないと思うのだがね。河合さん、あなた昨日の夕方、木之内さんに会われていますね。近くを通りかかった向かい側のマンションの住人があなたが花屋に入るのを目撃している。」
「それで私が何かしたと言うんですか。」
「いや、違いますよ。先ほども言ったように今回の件は自殺として捜査を進めているのでね。会われて何を話されましたか。」
事務的に問いかける立花の視線は、今もあの病室でのときのように鋭くモモコに向けられていた。
「借金が払えないから店を閉めるとか閉めないとか…そんな話です。」
「河合さんの首を締めたというあの男も三興信販に多額の借金がありましてね。それに山下の勤める医薬品販売の会社から背任罪の訴えが出ている。まぁ、複雑にからみあってるわけですよ。」
机に置かれた右手の人さし指と親指でボールペンを器用にクルクルと回しながら、なおも中年刑事の視線はいやらしくモモコの身体にまとわりついた。
「山下は認めていませんか?」
「首を締めたことは否認してるが…まぁそのうち自供するでしょう。あなたの言っていることが正しければね。」
「私の家を調べたらいいじゃないですか。」
「あなたからそう言って頂けると話が早い。午後からそうさせてもらいますよ。」
立花はひっそり微笑んだがモモコを見つめる眼光は依然鋭いままであった。
「5日ほど前、三興信販の傘下の清水組とかいう土建屋から弁護士とチンピラが来ました。」
「ん、ああ、木之内一恵さんのこと。それで何か言ってましたか?」
「土地の権利書があるから立ち退けと。もし言う事を聞かなければ店を無茶苦茶にするって。これ何かの罪にはなりませんか?」
「脅迫罪くらいには・…なると思うが、もう被害届を出す人が亡くなっていてはね。」
「じゃあ、あの花屋は一体どうなるんです?」
「木之内さんにはお子さんがいない。ご両親ももう亡くなられていて、お姉さんが京都にいたらしいが、3年前に亡くなっていてね。それに借金が…。」
「三興信販に2千万です。」
「そう、額まで知っていましたか。」
「それをネタに立ち退き請求をしていいんですか。」
「土地の所有権を主張することは違法ではないし、それをネタにしたという事実もない。さらにその借金には保証人がついていたから、もし仮に木之内さんが破産したとしてもその時点では回収先はあったのでね。」
「その人…・」
「山下なんだが、そう考えると奇遇だね。」
「それじゃ、その負債を返済するために背任行為を…・。」
「この件はそれ以上は推測になる。くれぐれも他言をなさらぬようお願いしますよ。それと風俗店の件について、私はあなたを100%疑っているわけではないが、私の質疑をすべて先回りして答えている。なにか…シナリオの先を読んだように。それとも…。」
「分かるんです、なんとなく。人の考えというか…思っていることというか。」
「ほう…。」
柴山がパソコンの打ち込みの手を止めてモモコをチラリと見た。
「もう帰ります。」
「ん、そうかね。それではまた午後にお宅へ伺わせてもらうよ。」
モモコは何も答えず、足早に1課を後にした。
午後からは約束通り二人の刑事が家宅捜索令状を持ってマンションにやって来た。
ずっと彼らの傍らに立ち監視しているコスモスの姿にモモコ以外は誰も気づかなかった。
結局5時間かけて部屋の隅々まで調べていったが何も出ず、軽く一礼をすると何食わぬ顔をしてマンションを後にした。
「何か出て欲しかったみたいだなあの刑事たち。」
「当然、ドラッグが出れば無事解決するんだから。」
「あの中年の刑事はとくに君を疑っている。気をつけたほうがいい。」
「わかってる。」
「明日、通夜に行くのかい。」
「行くわ…でも。」
「旦那方の親戚、彼女の遺体の引き取りでだいぶもめたようだね。」
「昔、駆け落ち同然で家を飛び出した二人だったみたいだから。」
「彼女は弱い人間だった。」
その言葉を聞いたモモコの顔が見る見るうちに紅潮した。
「あなたは生きてない。この世界に生きてない。」
「怒ったのかい。」
「やっぱりあなたはこっち側の存在じゃないわ。」
なをも厳しい眼差しでコスモスを睨みつけた。
「いいかい、自殺という愚かな選択をしたのは彼女だ。光の思念を強く抱いてさえいれば、そうならずに道はいくらでも開けた。闇の思念はそこら中に充満していて心の弱い人間を見つけてはそこを噴出先にしている。なんと思おうとこれが法則なんだ。誰にも変えられない真実の法なんだ。いいも悪いもない。君はヒマワリとしてそれをみんなに伝えなくちゃいけないんだよ。強くなるんだ。僕が僕でいるうちに、君に語りかけることができるうちに。」
「一恵さんは旦那さんのことを心から愛してた。だから悩んで、苦しんで、最後には自分を壊さなきゃならない程追い詰められたというのに…・。ひどいよ、冷たいよ、そんな言い方。人を愛することが罪なら、弱い人間が許されないのなら、私はヒマワリになんかならなくていいっ!!」
溢れ出しそうになる涙を必死でこらえながら、コスモスの言葉の向こうに見える久遠(くおん)のことわりに独り抗(あらが)った。
いくらかの沈黙が二人を包むとやがて赤い目をしたままのモモコがぽつりとつぶやいた。
「一恵さんは悪くない。」
沈香(じんこう)が香るしめやかな通夜の席。
モモコは一恵に最後の別れを告げていた。
焼香を上げ終えたモモコに黒いスーツの中年男性が近づいてくる。
「ああ君、モモコさんと言ったね。実は君に頼みがあるんだが、一恵さんの遺骨、君が49日の間預かってくれないか。」
遺族が第三者に告げるにしては随分突拍子も無いことをさらりと言っている。
モモコにはそれが予見できていたので、タイミングを除いてはさほどの驚きはなかった。
「二人を一緒のお墓にいれてあげてください。」
「それは…できない。無理なお願いだとは分かっているんだ。納骨所へ納める費用や君への報酬もすべて払うよ。我々と彼女とは・…無縁なんだ。」
モモコはその小さな時間に永(とこし)えの無常を見い出すと、一恵の一生を愁(うれ)い儚(はかな)んだ。
「分かりました。ただし、納骨の費用や私への報酬はいりません。それが条件です。」
「でも君、それじゃあ…。」
「あなた方から貰うものは何もありません。一恵さんが安心して眠れるように。それが私と一恵さんとの最後の絆になりますから。」
決意を秘めた強い眼差しで言い放たれ気後れしたのか、そそくさとその場を後にした男は向こう側の遺族にも何かを話している様子だった。
「おや、君はあの時の威勢のいいお嬢さんだね。」
花屋の店先で聞き覚えのある声がした。
ダブルのブラックはアルマーニ。
右腕に黒いカシミヤを垂れさせているその男は、あの時のイヤミな弁護士だ。
モモコは何も言わずその場を立ち去ろうとした。
「この花屋がどうなるのか知りたくないのかね。」
ゆっくりとモモコが振り向くとあのチンピラも傍らに見える。
「帰って。」
「んだとコラァ。」
「やめなさい。」
チンピラは眉間にシワをよせ目を細めながらモモコを睨みつけている。
「あなたたちに上げさせる焼香なんてない。だから一恵さんに代わって私が言って上げてるのよ。さっさと帰れっ、この下衆野朗!」
「おんどりゃーっ」
チンピラが弁護士の制止を振り切ってモモコに踊りかかる。
黒いフォーマルワンピースの胸元から首元にスーツを捻り上げると、こげ茶のボタンがひとつ飛んだ。
鼻息のかかる程モモコの顔に己の顔を近づけ、睨みをきかせ威嚇しながら吼えた。
「お前、俺が先生と一緒だからっていい気になってるんじゃねえぞコラァ。その細い首根っこぶち折って欲しいか、それともコンクリ詰めか、アァーッ。」
「ふふ。」
「何が可笑しい。ビビって頭いかれたんか、オォ。」
「人殺したことないくせに。」
「な、なにぃ…。」
チンピラの力がわずかに緩んだ。
「あんたみたいに小さい男、本当の恐怖を知ったらそんな口叩けなくなるってことよ。」
「なんだとこの糞アマァァーッ。」
若いチンピラは右の拳を振り上げ弓を引いた。
「やめないか。」
やっと弁護士が割って入ると男を平手で勢いよく殴りつけた。
「お前は先に事務所に帰れ。そこで私が行くまで待っていろ、分かったな。」
「は・…はい。」
何か特別な罰でもあるのか、先程までモモコを締め上げていた威勢は途端になくなり、蒼ざめたチンピラは動揺だけを残しその場を去っていった。
「お嬢さんお怪我はありませんか。ああ、せっかくのフォーマルが台無しだ。これで新しい服を買ってください。」
そういうと、弁護士は手持ちのカードケースの中から金色のクレジットカードを差し出した。
見覚えのある英文字の並ぶそのカードは三興信販のものだ。
「いりません。」
「そうですか。お気に召しませんか。それならここに…・。」
弁護士が内ポケットから何かを出そうとしたが、それを制すように口を開いた。
「どうせあなた達がこの店解体するんでしょ。よかったわね、計画以上に事が運んで。」
まるで見透かしたように前後の会話から飛躍したモモコの言葉を聞きながら、スッと襟元を正した弁護士は感心したようにモモコの顔を見つめた。
「先程の男を軽くあしらった度胸といい、その落ち着き払って皮肉を言う態度といい、大したお嬢さんだ。どうです、私の事務所に入りませんか。」
「馬鹿言わないで。それより私が本気になれば、清水組や三興信販なんて軽く捻り潰せるのよ。」
「ほほう、どうやってですか。」
出来るわけが無いという余裕の笑みを浮かべた弁護士は、次に言うモモコの言葉を興味深げに待っていた。
「こうやってね。」
モモコは其処此処(そこここ)に浮遊する闇の思念をひとしきり集めると、少しだけバルブを開き目の前の男の脳にそっと流し込んだ。
「どうやっ…・て・…」
言いかけた弁護士の表情からさっと笑みが消えていった。
顔色を青白くさせ、額からは無数の汗を噴出させている。
あまつさえ下顎をガクガクと震わせると、たった今から起こる目の前の出来事にひどく怯えているようだった。
その視線の先だけをモモコに残しながら、しかし網膜に映し出す風景は目の前のそこからは完全に飛んだところにあった。
そして突然ガクンと重心が下がったかと思うと、何処かに連れて行かれるのを拒む小さな子供のように腰を引かせ、半ベソをかきながら必死に踏ん張っている。
「ひーっ。やめろーっ。落ちたくない。落ちたくないよーっ。」
やがて中腰の不安定な姿勢に耐え切れずドスンとその場に尻餅をつくと、頭を両手で抱え泣きわめき、不様な悲鳴をあげながら無抵抗なカタツムリのように小さく丸くなった。
その姿は先程までの立派な物腰からは微塵も想像ができない。
弁護士はハッと我に返ると、自分を上から見下ろしているモモコに気づき、まるで中世の魔女にでも遭遇したような怯えた表情でやっと見つめ返すことができた。
たった今終わったばかりの恐ろしい出来事に口元の震えは止まらず、何かを言おうとしている様子だったがまるで言葉にならない。
「あなたにも人の痛みが分かるかしら。」
19の小娘に見下ろされ通夜の玄関先で何かに怯えながら尻餅をついている中年の紳士。
花屋の前を通行する人の群れがざわめきだした。
「みっともない。」
そういい残すとモモコは振り返ることなくその場を後にした
つづく
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