姫の夕餉(1) 著者:ぶるくな10番!
「お客さん、元気ねぇ」
「そうかい」
「ほんと、すごいわ。アハハ」
12月。
ゴミ溜めのような堀川を少し南に下った納屋橋に、モモコの勤めるヘルスがあった。
昼間は花屋でアルバイトをしている。夕方18時から午前0時までは風俗でひと稼ぎ。
それがモモコの日常だった。
「いつ出勤してるの?」
「月曜以外は出てるよ。はい名刺。また指名してね」
「ああ、またね」
この人はリピートしない。
40分のお試しコースではモモコのタイマーは30分にセットしてある。
どう考えても短いと分かるはずなのに、短いと気づいていない。
そういう時はプレイに夢中だったか、自分に興味なかったかのどちらかだ。
毎回指名してくれるお客は20人くらいいる。
1日6時間、月24日出勤で120万稼ぐ。
ひとり暮らしはお金がかかると言っても、そんなにはいらない。
お金を手っ取り早く稼ぐにはどうしたらいいのか。
モモコに考えられる最も有効な手段はコレだったというだけだ。
もう働きだして6カ月経つが、いつ辞めるかなどは考えたことはなかった。
本番行為をしつこく求めたり、プライベートな付き合いを強要する客の対処を除けば楽な商売であった。
貞操観念がないわけではない。
脚は開くが心は開かないというのが、古今の商売女達の達者な言い分けである。
まして、モモコは本番を認めたことは一度もない。
家路の途中、いつものコンビニに寄る。
仕事仲間達は帰宅方向により同乗でタクシーを利用したが、モモコは一緒にならなかった。駅前の駐輪場に折りたたみ自転車を停めてある。
そこから、30分ほど漕げば一人暮らしの自宅にたどり着く。
「あれ、いつもの牛乳ないよね」
「ごめんね、モモちゃん。今日は工場のラインがストップしちゃったとかでね、入荷がいつもより少なかったんだよ」
パートのおばさんは、昼間はパン工場で働いていた。
アパートから近いのと深夜料金が着くので、夜はコンビニで働く。
子供は2人いる。
夫は酒飲みで、酔うと普段の大人しい性格から豹変して暴力をふるうようになる。
子供にまで手を上げるようになったので我慢できず、東京から名古屋に逃げてきたということである。
「いいよ。じゃ今日はこれね」
サントリーのジャスミンティをレジに差し出した。
マンションの玄関にたどり着いた。モモコはひとり暮らしだったが、ネームプレートには用心のため男の名前が表記されてある。
扉を開けると、綺麗に整えられた下駄箱の上に備前焼の円筒の花瓶が見えて、今朝生けたばかりの白いコスモスが主人の帰宅を待ちわびるようにやさしく香っていた。
短い渡り廊下を抜け、暗がりのリビングに入ると、モモコは部屋の明かりを灯した。
「ひっ、きゃぁ」
ソフトレザーのラブソファに誰かが座っている。
コンビニ袋を投げ出し、絶叫したモモコをよそに、誰かはただそこに身じろぎもせず座っていた。
「あ、あんた誰よ。何でそこにいるのよ。出てきなさい。今すぐ。早く。警察呼ぶわよ」
質問と命令と脅しをまくし立てながら、この状況を一刻も早く正常なものにしようとしていた。
ソファに座っている誰かは何も言わず、顔をモモコに向けると、ただ静かに見つめるだけだ。
「何よあんた。何とかいいなさい。いや、そうじゃなくて、何も言わなくていいから出てきなさいよ」
とにかくそこに居る誰かを追い出したかった。
誰かは男のような女のような幽霊のような、どれとも取れるが、しかし端正な顔立ちをしていた。血の昇った頭がほどなく冷えて冷静にものが見えるようになると、その誰かは服を着ていないことに気づいた。
「あんた変態でしょ。なんで素っ裸でそこに座っているわけ。私の店に来たことある人?」
端正な顔立ちの男だか女だか区別のつかない幽霊のような誰かは、依然として何も答えない。
「だんまりを決め込む気ね。まぁいいわ、警察よぶわよ」
二世代前の折りたたみ携帯を素早く開くと、親指で110を叩いた。受話器を耳に押し当てる。接続待ちの沈黙を破って小さいが、しかしはっきりと言葉が聞こえた。
「僕だよ」
「えっ」
受話器から…。
「僕だよ」
「ひっ…」
110番にはつながっていない。
モモコは背中の下の方から冷たい何かが一気に首筋までかけ上がる寒さを感じて、思わず携帯を放り投げた。腰から力が抜けてそこに座りこんでしまうと、耳もとで囁かれているような、ずっと遠くから投げかけられているような、さらに同じ何者かの声が聞こえた。
「おどろかないで」
「誰!」
ソファに座っている誰かは口を開いていない。
「誰よ!」
モモコの声は恐怖と混乱に震えていた。
「目の前にいるじゃないか」
ソファの誰か…。しかし口を開いていない。
「僕はコスモス。君に今朝生けてもらった花の精」
「あなた口を開けてないわ。なのに何で喋れるの」
「君の心と直接会話してるんだ。君の声もいらない。すべて伝わるからね」
モモコは何が起こっているのか分からないまま、頭の中を整理しようと質問を投げた。
「私は幽霊とか、妖怪とかそういうものは信じてないのよ」
「そう」
「だからあんたが何なのか説明しなさいよ」
「僕はコスモス」
「だからそうじゃないでしょ。あんたは人間。素っ裸で人の家に勝手にあがり込んでる変体なのよ。違う?」
「違う…」
コスモスと名乗る誰かは薄っすらとした白い光をまとっていた。
やがてぼんやりと輪郭が歪むとその場から消えた。人間じゃない。
モモコは何が行われたのか分からず、しばらくそこに呆然と座りこんでいた。
夜が明けた。
リビングで座り込んだまま眠ってしまったモモコは、おかしな姿勢を長時間続けていたせいで、背中や太ももや身体のあちこちが痛かった。
寝覚めが悪い。
近くには昨夜寄ったコンビニのビニール袋が無造作に投げ出されていて、中からジャスミンティのペットボトルが飛び出して転がっていた。
無造作にそれを掴むと、キャップをねじり取る。
生ぬるいお茶を一気に喉に流し込んだ。
花屋にアルバイトに行かなければならない。
ザッとシャワーを浴びると昨日と同じ服装に着替えた。
玄関に向かうと、花瓶には白のコスモスが変わらずに活けられている。
捨ててしまおうか。
しかし時間がない。かまわずマンションを後にした。
「モモコちゃん、おはよう」
花屋の店主は気さくで器量のよい未亡人。
夫婦40にして貯めてきた貯金で、やっとこの店を開業した。
借金もしたが、脱サラまで決意して開いたお店をなんとか軌道に乗せたところで、夫は不幸な事故にあってしまった。
信号無視で突っ込んできた4tトラックにミニの商用車の横っ面を潰されてそのまま、内臓破裂、出血多量のため死んでしまったのだ。
「おはようございます、一恵さん。今日は最悪です」
「あら、どうしたの?そういえば何だか顔色も良くないわね。昨日と同じ服装だし…」
そう言うと、喉の奥のほうで含み笑いをしながら何やら想像している一恵を見て、モモコは少し茶目っ気を含ませて皮肉っぽく言った。
「多分、一恵さんの想像しているような事ではないですようっ」
「あら、残念」
ふたりは歳の近い親子のように、歳の離れた姉妹のようにとても仲の良い距離感で関係を保っていた。そういう陽だまりのような空気を感じて、人は集まる。
軒並み潰れていく小売店の多いこの底冷えの景気の中で、二人の花屋はそこそこに繁盛していた。もともと明るい性格のモモコは、お客さんからも愛され評判は上々だった。
しかしそんな向日葵の花のように真っ直ぐで素直なモモコが、ゴミ溜めのように汚い川添いの風俗店に勤めていることは、誰一人知らなかった。
「モモコ、明細だ」
出勤早々、ヘルスの店長から給与明細を手渡された。
「ありがとうございます」
「このままいくと、もうすぐトップになりそうな勢いだな」
「アハハ、そうなんですか」
この店のナンバー1は月200万以上稼ぐ。モモコは120万そこそこなので、ナンバー2か3と言ったところか。
こういった店では有望な新人に、売れそうな名前を割り振っていくことが多い。
ひかる、なつき、とも、さやか、もえ…。ももこも候補としてあったが、最近は名前の最後に「子」をつけるのは流行りではないと最初の説明で聞いた。
モモコはただお金が欲しかっただけなので、余計なことで悩むのは本意ではなかった。
源氏名と実名を分けていない。
風俗嬢のほとんどはプライベートの自分と、仕事で身体を売る役割を演じている自分を分けたいという意識が働くらしく、例え本名が「ひかる」であっても別の源氏名を名乗る者が圧倒的に多い。
モモコは今風の個人主義にどっぷりと漬かった生粋の現代っ子だったので、プライベートだろうと仕事だろうとモモコと呼ばれるのに別段なんの引っ掛かりもなかった。
「VIPコースです」
90分VIPと書かれたメモ書きを若い従業員から手渡された。白いワイシャツと黒のベストを着た従業員の後ろには、身長180cmくらいの若者が見える。はじめてのお客のようだ。深々と帽子をかぶっているので、顔は分からない。
「はじめまして、モモコです」
客は何も答えない。
モモコは10番のプレートの付いた奥の部屋へ客を案内した。
「お客さん、何か飲みますか」
客は何も答えず、ベットに腰を降ろした。
「ウーロン茶?紅茶?コーヒーもあるよ」
何も答えない。
「んもう、何か言って。帽子取ってお顔みせてちょーだい」
モモコはベットに座る客からイタズラっぽく帽子を剥ぎ取ると、その顔を見て息を飲んだ。
「モモコ」
口を開けずに話しかける客。男だか女だか分からないような、幽霊のような誰か。
「あなた…」
頭が混乱した。昨夜のことは夢ではなかったのだ。いや、今も夢の中なのか。
そんな筈はない。
不用意に開けっ放しになっていた化粧台の引き出しの中には、給与明細が見える。
しかしここで騒ぐわけにはいかない。
おそらく騒げば目の前の若者はまた消えてしまうだろう。
いなくなった客を店の人間にどう説明していいのか、モモコには分からない。
ここは落ち着いて、相手の真意を探ることにした。
「何をしに来たの?」
「君に会いにきた」
「会ってどうしようっていうの?」
「僕は君が好きだ」
思いがけない言葉に、モモコは困惑した。
小さな部屋を沈黙が満たした。
「そう言えば、あんた服もお金も持ってたのね。人じゃないのに、笑えるわ」
「あと7日しか生きられない。」
「それが何だっていうの。あんたが死のうが生きようが私には関係ないでしょ」
若者の表情に変化はなかった。
「わずかな時間しかない。大切なことを君に伝えに来たんだ」
「ちょっと待って。何が大切なのかは私が決めるのよ。何もしないんなら出てって。仕事の邪魔よ。それとも私とここでヤルことヤレば、あんたは満足するんじゃないの?違うの?」
若者の表情に変化はない。
「君は知らない。今世界中で起っている不幸な出来事の数々を」
「馬鹿にしないでよ!私は短大でてるの。ニュースくらい見てるわ」
「君が無為に過ごしている今にも、銃やナイフ、バットやハンマーで殺される人達が2,613人いる。1,053人の女性が世界中でレイプされ、得体の知れない疫病に苦しむ子供達が23,785万人いる。他にも…」
「もういいわよ!それがどうしたって言うの。無為に過ごしてるって?誰にとって無為なのよ。私がこれでいいと思えばそれが全て。世界中でどんな不幸が起きようが私には関係ないことでしょう。遠い世界の出来事に胸を痛めて反省しろとでも言いたいの?そんな後ろ向きな生き方、私はまっぴらごめん。今を生きるのよ。この厳しい現実を私は生きているの。あんたにどうこう言われる筋合いはないのよ。お金がある者が勝者。理想論ばかりの空虚な負け組みにはなりたくない。それが私の生き方。あんたとは住む世界が違うの。もう出ってて!二度と私の前に姿を現さないで!」
モモコは今にも自分の心の奥底に踏み入ろうとする誰かを拒んで、防波堤をつくるように声を荒げてまくし立てた。
無表情な若者はモモコが喋り終わるのを待つと、確信に満ちて断じた。
「君が世界を汚染している」
モモコの顔色がみるみる内に紅潮する。
「何言ってるのよ!あんた馬鹿じゃないの。何でそうなるの。一体あんた何なのよ!」
根拠のない言いがかりに、すっかり頭に血が昇って大きな声を出した。
「どうした!何かあったのか。モモコ」
渡り廊下を走る足音がドタドタと複数人分聞こえた。
「モモコ、僕を信じて。君はヒマワリ。君の内にある本当の自分を…」
コスモスの輪郭が歪んだ。
「待って!」
出て行けと言った言葉と裏腹にそんな言葉が不意に口をついた。しかしコスモスは完全に消えてしまった。
バタン。ワイシャツの従業員が二人飛び込んで来た。
「どうした!」
「え…いや別に…その何でも…」
「客はどうした?」
「ト、トイレに行くって言ったままもどって来なくて」
「案内しなかったのか」
「したんですけど、中々出て来られないので、先に仕度を整えようと部屋へ戻っていたところに…ゴキブリがいて…」
「嘘をつくな」
「本当です。そうだ、トイレを調べてみてください」
不信に思いながらもモモコに促された二人の従業員は、渋々トイレの方へ向かった。
しかしVIPで入ったモモコの客は、見つけることが出来なかった。
最終的な結論として、トイレに入った客は二人の従業員が10号室に行っている間に、トイレから出た。その後どういう訳か、プレイすること無しに、こっそり店を抜け出て行った。としか考えられなかった。モモコはペナルティとして罰金2万円を払わされた。
仕事が跳ねた深夜の帰り道、モモコは近くのコンビニへ寄った。
いつも声をかけてくれるおばさんがいない。
カウンター越しのレジには、黒淵メガネをかけた50代くらいの薄っすらと頭のてっぺんの禿げた油ぎったオヤジがつっ立っていた。胸元の名札には店長と書かれている。
「あのぅ」
いつもの牛乳パックを抱えたモモコがレジの男に、尋ねようとした。
無愛想な男は何も言わず、持っているモノをよこせというジェスチャーで、手を差し出した。モモコは牛乳パックをレジカウンターにそっと置いた。
「あの、いつもいるパートの方は?」
バーコードを牛乳パックにあてがいながら、中々読み取れずに悪戦苦闘している店長が目を向けずに口だけ開いた。
「あのおばさん?辞めたよ」
「えっ。昨日会った時はそんなこと言ってませんでしたよ」
バーコードは読み取れない。
「今日の夕方になってね。突然、辞めるってさ。おかげでこっちは24時間通しだよ」
「そうなんですか。あの、おばさんの住所教えてもらえませんか」
「ん?」
店長の名札を付けた男がいぶかしげにモモコを見つめた。
しかし何故そこまで尋ねようとしたのか、モモコ自身にも分からなかった。
「そ、その知り合いなんです。よくここで声かけてくれて。怪しい者じゃないんです。これ私の住所です。何か変なことしたら警察に通報してもらってもかまいませんから」
モモコは、今はもう乗っていない原付の免許を差し出した。
「あ、そう、いいけどね。もういないよあの人」
バーコードを諦めて手打ちでレジを打ちながら、投げやりに言った。
「ここかな」
折りたたみ自転車がそこに着いた時には、深夜1時を廻っていた。
コンビニからそう遠くない距離に、おばさんのアパートがあった。
錆びた手すりの、薄い鉄板の階段をなるべく音を立てずに上った。
2階の奥から2番目の戸口には、まだおばさんの名前の書かれたネームプレートが見えた。幾何学な模様のはいった四角いガラスの窓からは暗闇が漏れている。
人が住んでいる気配は感じられない。
つい昨夜やさしく声をかけてくれたあのおばさんが、今はもう行方さえ知れない。
人の縁についてとやかく語る歳でもないが、モモコの脳裏に一抹の無常感がよぎった。
今自分を知る人が一人いなくなってしまった。
あの無愛想な店長がもらしていた言葉が蘇る。
「別れた夫が自分と子供達を連れ戻しに来そうだから、もうこの街にはいられないって」
身体の真ん中から何かが抜け落ちたような気がした。
すっかり脱力したまま自転車を押しながら家路につくと、モモコの頼りない足取りに、朧月がぼんやりと光を投げかけていた。
マンションに着いた。誰もいない玄関に入ると、細い指先で照明器具の明かりをつけた。コスモスが香っている。下駄箱の上にガクごと落ちているコスモスが一輪見えた。枯れ落ちるにはまだ早すぎる。モモコは純白のコスモスをそっと掌にのせた。夕方の一件であの若者にどうしても聞いておかなければならないことがあった。
「出て来なさい。いないの?」
暗がりのリビングに向けてモモコが問いかける。
返事はない。
早足に駈けよりリビングの明かりをつけると、果たしてそこにコスモスの姿は見あたらなかった。
「話しの続きを聞かせてちょうだい。私のことが好きだと言ったのは嘘なの?」
誰もいないリビングにモモコの声が虚しく響く。
深夜の2時。
エアコンを28度に合わせた後、何となくテレビをつけてみた。
売り出し中の芸人が、つまらないバラエティ番組をやっている。
それでもしばらく映像をぼんやりと眺めていた。コスモスは現れない。
モモコは買ってきた牛乳パックを冷蔵庫の野菜室に入れ、諦めてシャワーを浴びに行った。
少し熱い温度で拡散させると、今日一日の出来事が頭をよぎっては消えた。
ゆくえ知れずのコンビニのおばさんの事が気がかり。
あの時、コスモスが自分に投げた言葉が胸に痛く刺さって抜くことが出来ない。
「君が世界を汚染している」
何の根拠もない言いがかりの言葉なのに、どうして自分が傷つかなくてはならないのか。 そもそも得体の知れない幽霊のような存在に自分の生き方を否定されたのが、悔しかった。拡散のシャワーを狭角にして、熱く突き刺さるような刺激を身体に伝えながら、自分が今という時を生きていることを確かめようとした。
バスルームを出ると、素の肌にタオル地のローブを身に付ける。
下着は下だけ穿いた。
髪は艶やかに濡れたままで、頭にタオルを巻くと、冷蔵庫の野菜室からさっき買ったばかりの牛乳パックを取り出した。
そしてシンプルなカッティングのクリスタルグラスに8分ほど注ぐと、一気に飲みほした。リビングでは、つけっ放しにしておいたテレビからスポーツ番組の中継が聞こえてくる。バラエティは終わっているようだった。
誰かいる。
モモコは人の気配を感じると、足早にリビングへと向かった。
白いラブ・ソファの右側に誰かが座っている。
誰なのかは分かっていた。
「何故さっきは出てこなかったの」
「最初からいた。君が気づかなかっただけ」
コスモスは後ろからの問いかけに顔を向けずに声だけで答えた。
「まぁいいわ。そっちに行くから消えないで。あなたには聞きたいことがいくつもあるの」
モモコはラブ・ソファの左に座った。コスモスは横にいる。
「あなたの言いたいことをまず聞かせてちょうだい」
「君は僕達花の精から祝福されて人間に生まれてきたにも関わらず、無為に人生を過ごしている」
「はぁ?」
「君はもともとヒマワリの精。僕達キク科の花の中でも最も尊敬されている存在なのに。ヒマワリは大地をあまねく照らす陽性の花。人に愛と活力を与える大輪の天使。なのにどうして君は…」
コスモスは初めて表情を変えた。悲しみに歪んだ顔は翳りをおびて、苦悶の表情を湛えている。
「私は人間。それ以上でもそれ以下でもなくて、あなたのいう、精霊でも天使でもなんでもないわ」
「僕のいうことが信じられない?」
「あたりまえでしょ。私には…離婚してしまったけれど両親もいるし、ちゃんと戸籍抄本にだって人間として私の名前が登録されているのよ。それ以外の事実は受け入れられない。」
「分かった。もうそれはいい。君は今、まぎれもなく人間なんだ」
モモコはあの時から突き刺さっていたトゲを抜きとりたかった。
「私が世界を汚染しているって?」
「そうさ、気になっていたのかい。汚染源は君ばかりではないけどね。今の君は信じないかもしれないけれど、生きとし生ける者の全ての魂は見えない細い糸で繋がれているんだ。君が感じた憎しみや怒り、愛や思いやりの気持ちは毎秒30万kmの速さで世界を伝播する。その思念は宇宙にも飛び出して、あらゆる生命に伝わる。けれど、君という固体がそう感じたと分かる魂の持ち主は、そう多くいるわけじゃない。僕達、精霊は特にそういうことには敏感でね。今こうしている時にも、色々な思念が伝わってきているのさ」
「それは例えばどんなものなの?」
「耐え難い苦しみと恐怖の思念。やがて死を待つ兵士の声。左脚が地雷で吹き飛んでいる。身体中に走る深い切り傷に意識を失いかけている。彼はまだ生きているが、自分が死ぬことを受け入れきれない。呼吸ができない。身体中が焼けるように痛い。吹き飛ばされたはずの左脚が重く感じる。まるで鉄の槍で太ももを大地に貫通させられたように、思い通りにならない。迫りくる敵の恐怖に、持っている機関銃のトリガーを引きっぱなしにして乱射しているけれど、誰にも当たらない。あと数十秒で敵兵に見つけられる彼は、身体に数十発の弾丸を打ち込まれた後、無惨な屍から魂は切り離される。
復讐の思念。ある男が多くのストレスを抱えている。会社では仕事が思い通りにいかず、上司に怒鳴られ、仲間からは嘲笑をかっている。コンプレックスの塊のような存在で、30を過ぎて結婚もしていなければ、子供もいない。彼は何とか自分を馬鹿にする回りの者に仕返しをしたいと思っている。インターネットで、毒薬を手に入れる方法を検索しているところだ。そして近い将来必ず実行する。今はウィルス入りのメールを同僚に送りつけるだけにとどまっているのだけどね。」
「それは私にどう関係あるの?」
「君の魂にもその思念が送りこまれているんだ」
「何も感じない」
「感じようとしていないから」
「それじゃあ関係ないことと同じことでしょ」
「そうじゃない。無意識下で、世界の人達が同じ苦しみや、怒りを共有している。
具体的に感じなくても蓄積された負のエネルギーはやがて、ある魂を通じて表出する」
「それが、さっきのリーマンのおじさんの話?」
「怒鳴っている上司や、嘲笑する同僚も全てだ。負のエネルギーが蓄積されているんだ。
負のエネルギーは負の結末を呼ぶ」
「で、私が汚染しているのは誰なのよ?セックスの疑似体験で苦しむ人達が出てくるっていうの?あんたの言っていることが本当なら、私は世界中の人に快楽や享楽を無償で提供してる天使じゃない。私の生き方の何がいけないのよ」
「その刹那主義がいけないって言うのが分からないのかい」
「夕方にも言ったでしょ。私はお金が欲しいの。お金がいる世の中なのよ。何が何でも勝ち組みになりたい。それはみんな同じことだと思うけど。刹那とか永遠とか私には関係ない。今自分に必要だと思うことをするだけ」
「そしてその空っぽな魂は、金のために純潔を売る。」
「純潔じゃなくて身体を売ってるのよ。心まで売っているわけじゃないわ。
それはお客さんも分かってる。風俗っていうのは、厳しい現実と向かい合うためのほんの一時の安らぎの場所なの。その時が終わったらまた現実の中に帰っていく。こんな苦しみだらけの世の中では、誰もが快楽に身を任せたい時がある。誰かがやらなくちゃいけない仕事なのよ」
「達者な言い訳だ」
「もういい。あなたとは全然話があわない」
「忠告する。もうあの店は辞めるんだ。表面的に君は誰かを癒していると思っているかもしれない。だけどその場しのぎで取り繕ったニセモノの癒しは、やがて人々を混乱させる。性的に無秩序になった現状が、男と女の不幸を助長させているということに、どうして気づけないんだい?本当は性の開放は秩序の崩壊だってことに気づいているんだろ」
「秩序なんてどうでもいい。私はお金が欲しいのよ!」
コスモスは黙りこんだ。そして一言こうつぶやいた。
「君の変わり様に失望したよ」
それを聞いたモモコはさらに反撃に出ようとコスモスの方に目を向けると、ふと彼の右目がイビツに膨らんでいるのに、初めて気づいた。
「あんた、その目!」
「ああ、さっき潰れたんだ。玄関に一輪、ガクごと落ちている僕を見ただろう?」
「あのコスモス…。もとに戻す方法はないの?」
「ないさ。僕は後6日間で絶えてしまう運命」
「栄養剤があったはず。あれを花瓶の水に溶かせば」
「消え行く運命は変えられないよ。でも少しは楽になるかも知れない。それじゃもう行くよ。今日は思ったより体力を消耗した」
白い光に包まれた輪郭がぐにゃりと歪んだ。
「コスモス!」
モモコはリビングに独りとり残されると、やがて沈黙が部屋を満たした。
「あのおばさんの不幸も私がいけないっていうの…」
静まり返ったリビングで、いなくなったコスモスと自分に向かってそっとつぶやいた。
花瓶にミネラルウォーターを注いだ。栄養剤も差した。
何故こんなことをしているのか分からない。
もともとコスモスと名乗るあの花の精は、自分の生き方を否定するいけ好かないヤツだ。右目が潰れていた。不死身の幽霊なんかじゃない。
あの時短大を出たといったけれどあれは嘘だ。本当はまだ19。
リビングにあるフクロウの置き時計は、3時15分を示していた。
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