太巌寺 長尺の藤由来
 太巌寺は、奈良時代天平の頃(約千三百年前)に行基菩薩によって開創され、
六十有余坊の大伽藍の大寺院で、寺領が三百七十余石も有ったと伝えられています。
現在の本堂は、嘉永二年に起工され、嘉永五年(千八百五十二)に、
本誉太巌和尚によって再建されました。
毎年五月上旬ともなれば、太巌寺境内では一、三メートルにも及ぶ紫の長尺藤が
棚一面に垂れ下がり、快い春の香りを漂わせ、美しい紫の藤絵巻が見られます。
この見事な藤は、明治初年に相撲力士明星岳により、藤木の如く
粘り強く、逞しく藤の花房のように長く立派な花を咲かせる様な
関取になることを、心より願って植えたと伝えられています。
その後、明治・大正・昭和・平成と約百三十余年を経て、
三重県下に誇る素晴らしい花の名所の一つ、
亀山市の藤の寺として知られるようになりました。
その名は近郷近在に及ばず、関西・関東方面の人々も訪れ、見物人や参拝人の
列が後をたたなかったと言い伝えられています。
 昭和十年ごろ、戦争の激化と共に物見遊山が禁止され、
太巌寺の藤棚も七メートル四方に縮小されましたが、
終戦後、檀家の人々から藤寺復活の声が高まり、藤棚拡張整備工事が行われ、
再び見事な藤棚が復活いたしました。
その後、檀家の皆さんによる、奉仕活動によって、年々藤棚も広くなり、
藤の花房は、長く美しい昔の富士の寺ふさわしく再現されたのであります。
ふじの寺のフジは不事であり、無事でもあります。
悪い事無しを願い、無病息災、家内安全、長寿延命の祈願寺でも有ります。
 太巌寺は、奈良時代天平の頃(約千三百年前)に行基菩薩によって開創され、
六十有余坊の大伽藍の大寺院で、寺領が三百七十余石も有ったと伝えられています。
現在の本堂は、嘉永二年に起工され、嘉永五年(千八百五十二)に、
本誉太巌和尚によって再建されました。
毎年五月上旬ともなれば、太巌寺境内では一、三メートルにも及ぶ紫の長尺藤が
棚一面に垂れ下がり、快い春の香りを漂わせ、美しい紫の藤絵巻が見られます。
この見事な藤は、明治初年に相撲力士明星岳により、藤木の如く
粘り強く、逞しく藤の花房のように長く立派な花を咲かせる様な
関取になることを、心より願って植えたと伝えられています。
その後、明治・大正・昭和・平成と約百三十余年を経て、
三重県下に誇る素晴らしい花の名所の一つ、
亀山市の藤の寺として知られるようになりました。
その名は近郷近在に及ばず、関西・関東方面の人々も訪れ、見物人や参拝人の
列が後をたたなかったと言い伝えられています。
 昭和十年ごろ、戦争の激化と共に物見遊山が禁止され、
太巌寺の藤棚も七メートル四方に縮小されましたが、
終戦後、檀家の人々から藤寺復活の声が高まり、藤棚拡張整備工事が行われ、
再び見事な藤棚が復活いたしました。
その後、檀家の皆さんによる、奉仕活動によって、年々藤棚も広くなり、
藤の花房は、長く美しい昔の富士の寺ふさわしく再現されたのであります。
ふじの寺のフジは不事であり、無事でもあります。
悪い事無しを願い、無病息災、家内安全、長寿延命の祈願寺でも有ります。
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