妖婆伝4


夕暮れどきではないが次第に強くなりだした雨足の気色で部屋は薄暗い。茶をすすりせんべいをかじる。長閑なひとときとは呼び難いけれど、案外しがらみから放れた思いは、遠くの民家の灯りがぽっと瞬く静けさに包まれているようで、峠越えの執心となんら変わらない冷めた情熱に隣り合わせであった。せんべいが香ばしい、たまり醤油の風味は素朴であり、口のなかにじんわり安堵がひろがる。ぽりぽり音をたてると団欒から旅情みたいなものが月並みの顔で煙っているようだ。
「危ういと言えば、女人に成った当初が大変でな、いいや、わし自身が動揺してしまって、ほれ、牛太郎で通ってたくらいだから、雄の性根ははっきりしておるし、前世もこの分なら男だったんじゃないかと思いこんでしまうわなあ。それでな、この身を持てあましているのか、まだまだわしの肉体としてなじんでおらんわけでの、てっとり早く言えば、欲情と一心同体にあったんじゃ。柔らかな乳房に触れれば興奮もしよう、腰回りのふくよかさや太ももの瑞々しさはもう誘惑そのものだったわい、ましてや転生の門であった秘所を備えているという実態は、いかんともし難い煩悶を招いているから、この女体に慣れることが喜ばしいのかどうやらわけがわからんようなってしもた。あんただってきっと同じ気分になるよ、ところがな、面白いもんで、おのれの裸身を覗き見したい欲と、一刻も早くこの現状を受け入れるのが先決だという意識がうまく調合されてのう、まあ例えは妙かも知れんが、新妻を昼夜問わず抱き続けている感じがしてきて、それならわしのような悪党も人間的な営みに励んでいるんだと思い、まあ、そんなふうに辻褄を合わせたんじゃな、開き直ったんじゃな、ああそうとも、人目を避けては乳をもみ、ほとをしみじみ見つめては指先でなぶり、官能の限りを尽くしてみたわい。
毎晩が初夜の昂りであるはずもないわ、はっはっは、百年もなあ、なんの、それは大袈裟よ、とにかくときの経つのはありがたいのか、いつしかわしは娘のからだを支配しておった。色目の支配から解き放たれたってことじゃな。いや、それほどの月日でもなかった、年頃じゃったし、なんせわしが惚れこんだ器量よしだわ、あちらこちらから嫁入りの口があっての、山向こうの物持ちにもらわれて行ったんじゃ。
他家に嫁いでからのほうが本性を隠さなんでよかったと、、、そりゃ、女体になじんだといっても牛太郎の記憶はすっかりとかき消えたわけでないからのう、日々の空模様に気をかけている、つまりわしの肉親やまわりの空気に慣れ合いを願っていたのが不思議と懐かしくてなあ、もう化けていることに冷や冷やせんでもええし、かたちの上でも一応は祝福されたのだから、欺きでも努めは果たしたように感じられて、ほれ、あんた、あの雪女や鶴の恩返しみたいな成りゆきじゃわ、向こうから秘密をあばこうとせん限り、わしのこころは平静だったよ。もっとも誰ひとりとてわしを疑ってみる者はおらんかった、そんないきさつやから見知らん人々の間に紛れることで平穏が訪れたんじゃなく、反対に警戒心がゆるんだんで色々と想いがめぐってきたんじゃ。うなぎの頃に求めた生き様とか、娘の本来の意識とか、つまるとこ黙念先生の教えは残酷ではなかったんじゃろうかとな。わしから望んでおいて何を今更と思うかも知れんが、人間に生まれ変わったお陰でうなぎの狭い了見が身に沁みてなあ、いくら前世もそうであったとして、やはりこの素肌に感じ入るものは広大で切ない。女体を得た喜びなんかそれこそ始めのうちだけで、段々と肉体に即した思考が定着するもんじゃな、今じゃ、乳房の張りよりか、その奥に隠れたものが熱かったり、冷たかったりする。
どうした、そんなしんみりした顔して、、、あんた下世話なことには興味ないんか、わしがどんな気持ちで股を開いたとかのう、はっはっ、そうかい、そうかい、だいたい想像できるってな、だったら簡単に流しておこう。旦那や姑などの話しはつまらんでなあ。しかしまったく語らんっていうのも片手落ちやさか紹介程度にするわい。旦那は世間知らずの長男でな、そのくせ和歌を詠んだり風流なとこがあって、しかも浮気もんで村には囲い女はおる、旅芸者と見ればちょっかいは出すで、わしのことも最初は熱心であるのはお決まり、日が経てば飾りもの扱いでな、姑も似たようなもんさ、大旦那っていうのがすでに嫁入りまえから持病で寝込み勝ちじゃったから、家を取り仕切っているのは実質あのひとよ、とはいっても格式一点張りで世間体ばかり気にかけて庄屋の威厳を保つことに余念がない。そのせいでわしは随分とうるさい小言も聞かされたが、見た目も大人しく、皮も被っておったのが幸いしてお人形さまで済まされた。他には歳のはなれた次男や長女次女なぞもひとつ屋根の下だったけど、どうしたもんか皆おっとりした性質でなあ、わしが無口で通したら向こうもそれにならうような感じで疎ましゅうなく、いわゆる気苦労はせんでよかったわい。やがてわしも一男一女を授かった。で、ここからがこの孫娘にかかわる話しなんよ、まだ子供らの幼い時分やった、大きな屋敷やさかい下男下女はもちろん乳母までおってなあ、その頃になると増々わしは内省っていうんやろか、もの思いに耽ることが多くなって、なに不自由ない暮らしと引き替えに、生きている価値みたいなものが日々薄らいでいくような心持やった。贅沢すぎる悩みかも知れんが、もとがもとじゃで、娘の命まで満たしてやらなければあかん、うなぎの一生がこうして変転したのならそれは奇跡に等しい、だからこそより一層こころを豊かにせんと罰があたる、叶うなら黙念先生を再度探しあて奇跡を解除してもえないかと、、、しかしなあ、うなぎなれば実行に移せた願いもいざ人間になってみると空恐ろしい、川底にもぐるなんて考えただけで眼のまえが真っ暗になる始末、これはわしの意識というより娘の肉体が邪魔をしておる、まったく矛盾しているがのう、死せる娘の意識は自ら甦って来はしない、いいや、これが実際かもな。そんな観念にとらわれ気ままに花咲く堤をひとり歩いてみたりしてたんよ。そう気ままになあ。
ある春さきのこと、庄屋を檀家に抱える山寺で修行している若い僧とすれ違った。以前より顔は見かけておったがこんな場所で出会うことはない。なんでも武家の身分を捨てたか、捨てさせられたのかとかいう噂で、確かにその顔色の生気は澱んだところがなく、どこか凛とした鋭気がもの惜しげに忍んでいるふうにも思え、おもむろに会釈を交わしたすがたが妙に儚くもあり、颯爽とした足取りでもあった。一瞬互いのまなこが向き合ったとき、わしの背中を駆けてゆくものがあっての、それは相手も同様だったのでは、、、その日から度々行き交う機会があり、ついには向こうから声をかけて来たんよ。
なに他愛もない挨拶じゃったが、表情には明らかなはにかみが浮いており、わしも敏感に反応し目線を落としてしもうた。あの刹那の心境はとても割り切れない、なぜなら僧侶としてみても若者としてみても、洒脱な匂いがしていてな、これは娘の本来が嗅ぎ取ったようにも信じたく、また超人と化してしまった卑賤の身が拠り所としたとも察せられてな、実に複雑な気持ちがしたのじゃ。
まるで二枚の葉のように恋情と帰依が重なりあって、わしのこころをゆらゆらと流れてゆく。どこへ向かって、なにを想って、、、はっとして顔を上げると僧はこう訊いている、せせらぎの音はこう言っている、今日はどちらまでとな。
わしはそのとき始めて娘の意識を呼び戻せた。ほんのり頬を染めては満開の花に寄り添ったような気分になった。肩先から脇腹にかけてくすぐったい感じがし、そのあとは花びらが風にあおられる調子で、ええ、この少しさきまで、そう答えていた。すると僧は晴れやかな笑顔を見せてくれたんよ。そして小夢さまってわしの名を呼んでから、失礼しました若奥さまと言い直した声の響きがとても初々しくて、舞い上がってしまったんじゃ」