悪魔払い


あれは庭の桜が散りかけた肌寒い日のことだった。青みが押し殺されている曇天を見上げているうちに、反対に上空から見下ろされてる気がしてきて、空恐ろしさを覚えてしまった。ああいう時分は空想の産物が晩飯のおかずに紛れこんでみても別段、深く考えこんだりはしない。頭上高くにひろがる曖昧で晴れ晴れしない意識は、やかんのお茶にも、冷蔵庫の扉にも、階段の隅へと無造作に置かれた紙切れやら、ねじまわしやら、父の点鼻薬にやら、それらをまとめ納めている菓子の箱にも、ついでにしてはそうであるべき理由があったのか、小さなうさぎの人形にも棲みついており、実際の用途や眺めとは異なる空気にまとわれていた。
確かによく思案したわけではなかったのだが、不意に訪れるものは背後に忍びよっていたかも知れない、そんな恐れは劇的な効果をともなって、いつしかの夜、窓に映った幽霊の影を想起させ身震いしたものだ。半ば密かな期待を含みながら。
近所の無人の家、案外古くもなく、急ごしらえで建てられたふうな一間しかない、空き地にぽつんと置いてかれたその家に住人の気配がまったくみられないことから、まわりの子供らの間では、「あれは悪魔や妖怪がひそんでいるに違いない」などという、ごく短絡的で能天気な結論にたどり着いてしまうのは当然の成り行きであった。
ガラス戸に鍵はかけられていなく、玄関のすぐさきには手洗いが、その左が小さな座敷で決して朽ちた畳なんかじゃなくて、普段のどこにでもありがちなのっぺりした座敷に家具のすがたは見当たらず、ただ曇りガラスをくぐり抜けて注がれる穏やかすぎる日差しに、胸の奥が反応しているのは薄気味の悪さであったろうし、もっと厳密に言うなら狭いながらもくまなく不思議な陽光を受け入れている感じは、とても危険なものに思われた。
近くの仲間を誘って探検をしてみようと提案したのだったが、無論、探検とは道なき道をかき分けるのでも、奥深い草むらを手探りするわけでもない、ただ、人気があるとあるとしたなら、ちゃんとまっとうな訳でここが無人でない証しを得たかった。もちろん、それはそれではらはらする材料以外の何者でなく、裏返せばやましさを覆い隠そうとしている方便に過ぎなかったろうが。
ようは日暮れるまであの家に居座ろうと思いついたのである。食料なんかもいるな、おにぎりせんべいでいいか、台所の奥にしまわれている水筒に番茶をつめて持っていこう、懐中電灯も念のためになどと、まるで遠足気分と大差ない高揚した勢いは素晴らしく魅惑であったが、子供の性急な戯れは常に先行きが怪しい。準備段階で早くも破綻してしまった。他でもない、うれしさ余ったのか仲間のひとりが親に探検を打ち明けてしまって、ひどく叱られたというから話しにならない。あらかじめ秘密結社のような雰囲気をみんなが共有していたと信じ込んでしまって、口もとに人さし指を立て軽く添えてみる心意気を忘れていたのだった。
こうなったら仕方がない、自分ひとりで決行するよりないな。無人であることに疑いを挟みたくない願いはこんな大胆な決意を促すものだ。つまるところ肝試しめいた行為はひとりっこ特有の不遜な甘えに支えられ、なしくずしの幻想に委ねるしかすべがなかった。
とはいうものの所詮ひとりは心細い、そこでひらめいたのが、町内をうろついている犬を連れて乗りこもうとした。あの当時は飼い犬が日中放されている光景はさほど珍しくなくて、よく菓子をあげるので後ろを追いかけてきたクン助を相棒に仕立てあげた。本当はみんな食い助って呼んでいたのだけど、角を曲がったところに住む3つ4つ下の子が同じあだ名だった為、いや別に人間尊重なんかじゃなく、犬の食い助と子の食い助が一緒だとややこしいからであり、クン助になったのだろう。
菓子をあげていたのは実は明快なことで、なんでもかんでもではなく、仮面ライダースナックに限られていた。それはひとえに食傷気味であったのと、カルビー製菓であったのに何故あんなにおいしくなかったのか、せめてかっぱえびせんにしてくれたら残さず、ありがたく大事にかじっていたに違いなかった。不人気なのは後におまけのカード目当てで箱買いし、菓子を捨てる狼藉が発覚して社会問題となったから有名だろう。
まあ、ライダースナックをかっぱえびせんにしてしまえば、本家のそちらが売れなくなってしまうに違いあるまいという考えは当時として中々の推測だったと悦に入っているくらいだけど、そんなことより、子の食い助でさえあの菓子を欲しがらなかった事実は絶大で、だからこそクン助がよろこんでカリカリっと子気味のよい音をたてながら、そしてこころなしか笑顔を見せている様子がたまらなく可愛らしかった。自分の嫌いなものを与えておいて微笑ましげな情を抱くなんでどこか妙だろうけれども。
で、毎日のようカード手に入れたさにスナック菓子を買っていた結果、クン助はよき相棒になったわけだ。
実はこれから先の記憶がどうもあやふやで、それはたぶん何かしら思い返したなくない経緯が絡まりあって、探険本来の意義をねじ曲げたくない為、そして出来れば意気揚々と、あるいはおののきでさえ夢見の門口に佇ませておきたい心情からだと思う。
太陽はちっぽけな行動に目配りしてくれてのだろうか。くもり空なのはひょっとして目こぼしの合図だったのだろうか。とにかく無人の家にクン助と一緒にあがりこみ、薄ぼんやりしたひかりが畳に静かに吸い込まれてゆきそうない座敷に腰を据えた。犬のクン助にとっては初めての体験だっから、いつもより鼻息は荒く、いきなり妖怪をかぎ出してしまってえらいことになるのでは、そんな興奮に胸おどった。
がらんとした部屋の空気は相変わらず淀んでいたし、窓をあけるわけにもいかなかったので、代わりにこじんまりした押し入れを覗いてみたところ、見るからにケバケバしいエロ本が一冊、文句あるかって言いがかりをつけてきそうな調子で横たわっていた。これにはまいった。
「いったい誰が、、、」
すぐに念頭をよぎったのは親から叱責を受けたあの仲間だったが、あいつには自分の家にあったのを見せたことがあって、そのときの反応がいかにも罪深い様子だったから、ああ、そうだとも、あれは恥じらいとか遠慮じゃない、エロ本を手にすること自体に抵抗を感じていたんだ。だとすれば、ここで疑念が背筋から這い上がるようにしてあたまを支配し、動悸を早めるところなのだろうが、不思議と見知らぬ他者を思い描いてみても、今すぐ表からドヤドヤと複数の邪気にあふれた顔つきが現れそうな恐れにも尻込みしなかった。それより表紙をめくった手つきがふざけ半分のスカートめくりとは違って、見知らぬ世界から徐々にすがたを見せてはさっと消え入りそうな成熟した女性の下半身そのものに触れてしまった心地がし、ヌード写真のどぎつく色づいたふとももや、はちきれんばかりの尻の大きさにめまいを覚えてしまった。
ページをめくるたびに増々孤立感が遠のいてゆき、いきなり大人なってこの家で恋人を待ち受けている、そして目が合うなり押し倒し、まだまだ先のことであろう、裸体の重なりに想い馳せては、甘い香りを鼻先にまとわりつかせ、ふとクン助を見遣れば、わざとらしく脚で耳をかいたりしていたので、少しばかり冷静になってはみたももの、すでに股間のふくらみは痛いくらいで、漫画にある女体の核心が空白に扱われているのに憤慨するごとく、いきり立ったものをそのページにこすりこんでしまいたい衝動に駆られた。
仮面ライダーより早くウルトラマンの股間に欲情していた身だからこそ、もう悪魔妖怪すら逃げ出してしまったのか、エロ本の持ち主なんか知ったことじゃない、直線的に駆け上がるつめた想いに乗っ取られ、耽りだすところだった。
犬とはいえクン助の目もあるし、ここでは集中出来そうもない。いや、嘘だ、そんなことしようとは考えてはいなかった。おにぎりせんべいをかじってはお茶を飲み、小振りなのがいいと持ってきた水筒の絵柄が三匹の子豚だったのにあたらめて妙な懐かしさを感じ、大人しいクン助のあたまをなでていると、時間がどれくらい経ったのか分からなくなって来た。おそらく日没までにはかなりの間がある。
平和といえば平和だった。安心と呼ぶならそう呼べた。悪魔妖怪の気配に親しみを投げかける余裕を持つくらいに。そして座敷わらしにせよ、ぬらりひょんにせよ、牛鬼にせよ、サタンにせよ、個々の物の怪よりこの無人の家こそが不可思議な存在であるように思えて仕方なかった。膨張したものはいつしか払いのけられて、みじめさに彩られ底の浅い孤独をかみしていた。
張りつめながらも、しじまを保ち続け、局所的に発生した台風は見事にあっけなく終息したのである。
「こら、そこで何をしとるんじゃ」
厳めしい目つきの男が面前に立ちふさがっていた。怒気をはらんだ声に対しとっさにこう応えた。
「幽霊屋敷だと聞いたから犬を連れて見張りに来てたんだ。ほら水筒だって持ってるよ」
自分でも呆れるくらいとぼけた口ぶりであり、性根もびくついてなかった。ただ開かれたままになっているエロ本にあたりまえだろうと凍結した男の視線が落ちたとき、何ともいえないこそばゆさに襲われ、いたたまれなくなった。
「早く出てくんだ。もう勝手に入りこんだりしたらいけないぞ」
男の目には将来、迎えるべき、そうであって欲しいようなそうでないような、慈愛のひかりがほんのわずかだけ輝いていたので、大丈夫、こっぴどく吊るしあげられはしないだろう、そんな思惑に即しつつ、怯えをゆっくり手なずけかいくぐるようにして無人の家を後にした。
例の仲間たちにこの話しをしたことはある。が、どんな心持ちで、どんな説得力で言い聞かせたかはほとんど思い出せない。また忠犬であったに違いなかろうクン助の記憶は更にぼんやりしてしまっている。なるだけ意識を集中し、あの頃の景色全体を脳裡によみがえらせてみても、クン助がどの家で飼われていたのか、実際はなんという名を与えられていたのか、それから雑種であったのは確かだろうが、毛並みは白かったのやら茶色かったのやら、あの菓子をかじるときのうれしそうな顔だけが特別に切り取られた画面となって浮かぶけど、あとは一向に映像としてあぶり出ては来ないのだった。


2013.6.24