大いなる正午25


加也子はテーブル上のグラスを無意識でつかむと、一気に喉元へと流しこんだ。
静かに古賀が近づきアイスペールから大きめの氷塊を取り出し、更なる一献を提供する。目線でもって昇も所望を促す。
お伽話の中へ夢見るように忍んでゆこうと心構えは、木っ端微塵に粉砕された。酔歌の旋律は大きく乱調をきたし、昇の語る想像を絶する情景が圧倒的な勢いで逆巻く中、アルコールの灼熱は精々、寒冷の地に住まう人々の身体を温めていく作用でしかなく、調べを取り戻すには猛然と追走するより手はなかった。
「狐につままれた、いやあ、猫につままれたですか、あはは、そこは少しの間だけ覗かせてもらっただけです。案内人は薄笑いを浮かべてるんです、、、曰くありげにね、、、貞子さんでしたよ、、、その案内は。最初に顔を見た時には、はっと、おぼろげながら見取り図みたいなものが、頭に浮かびました。なるほど、こういう訳かってね、、、これは又、始まるかも知れないって、、、」
めまいは次元の異なる手加減に対して、どう渦巻きを稼働すればよいのか、加也子の眼球は急速螺旋運動に取り残された萎縮する網膜でしかなかった。動体視力が一向に役立たずとなった断念の焦点にも似て。
「貞子さんですか、、、それがですね、何も打ち明けようとはしませんでした。ただ都合によって今ここにいるとだけしか言いません、、、僕もあまりの衝撃で相手の無言の圧力をはね除けることも出来ませんし、それでいきなり森田さんと猫でしょ、雷に打たれた状態でした、、、ここまで連れてきてもらい、振返った時にはもうその姿はありませんでした。ここまでが、貴女の知らない外部の流れの大筋です。他に聞きたいことがあれば、どうぞ、お話出来ることでしたら」
昇はそこまで喋ると、まずは一仕事終えたと少しばかりの息抜きといった風情で、ネクタイを緩めておもむろに上着を脱ぎ、しみじみとグラスの中身を飲み干した。
加也子は指先から感覚が消え失せていくのを覚えながら、対面する昇が今にも椅子からずり落ちるのでないかと予感した。が、その思惑は実らなかった。小さく祈る声で質問を投げかけるのが精一杯だった。
「さてと、町の状況と僕の知り得る人達の成り行きですね、、、インターポールの捜査員らは死亡しましたよ、一人は僕の照準で葬られました。正当防衛が認められたのでよかったですけど、そもそもあの場に何故に銃を携えていたのかは詰問されました。それはさておき、僕が射殺した捜査員を乗せた車が急発進で逃走したんですが、駅前大通りをから左脇の商店街に突っ込んで行って、途中で人をはねて民家に激突しました。はねられた人は即死だったそうです、千打金融の木梨さんという、僕は面識ありませんけど、界隈では金貸し銀路といって有名だったそうですね」
「えっ、木梨先生が、、、」思わず加也子は口に出した。足下が急冷に震えるようにして忌わしいものが絡まりだす。
「町には様々な憶説や流言が飛び交いました。しかしすぐに沈静してしまったのです。とりあえずは大いなる制圧が発生したと言っておきましょう。貴女自身、今の立場を正確に理解出来ない、、、僕も似たようなものですよ、、、何、今に限らない、、、ずっとずっと、、、見通しの悪い薮の中だ、、、三島さんが幽閉者だとしたら僕は迷子みたいなものです、しかしね、もうそんな錯綜の森にはうんざりなんだ、、、僕はアンカーを打つことの重要性を信じる、、、その為に、のこのことこんな所まで訪ねて来たんですよ、、、わかりますか、ああ、すいません、つい興奮してしまって、、、」
昇は立ち上がると古賀の方に何やら目配せを遣り、同意を得たというふうな安心感のある笑みを見せると、俄に面貌がすげ替えられた。それは別人かと見誤るほどに厳粛な眼光をたたえていた。あの宿命的な夜の向こうへと、あまがけた鬼神の畏怖と英知を宿しながら。
「さあ、僕は僕に合一する為に悲劇を再演しなければならない、残念だが三島さん、喜劇で悲劇は浄化出来ませんよ、悲劇こそがすべてを救済し、すべてを昇華してゆくのです。なぜなら、我々は生きて血潮を巡らせているからだ、赤い薔薇の華やぎは死人によく映えるが、鮮血は死者には遅すぎる」
膝頭を支点にして脚全体に、得体の知れない植物が繁茂してゆく。眼前の昇は毅然たる姿勢で自らズボンのファスナーに今、手をかけようとしていた。