ねずみのチューザー58 自分の手さえ汚れなかったら保身を正当化する為に流血を許容するのか。何とも法廷に立たされたみたいな心地だけど、逃走を実行した時点で夢見の延長を願った意志が親衛隊を是認したんだ。葛藤は生じなかった。チップを取り巻く脳髄がすでに惨殺を実行しているし、分裂した脳内を抱える身からしたら、たとえ詭弁と誹られようとも、この仮想現実を今少し生きてみたい。僕の遊戯はそういう非情な面を持っている。ミューラーの意志はとても強固でありながら、夕陽のごとく寂寞に透ける時間へと共感してしまったように。 だから、陽のある間にすべてを終わらせたかった。幽霊屋敷を出たら宵闇に被われていたなんていうのはご免だからね。地図に記された二角堂が時代に取り残されたというより、未来に捧げられた記念碑の趣向で雑木から顔をのぞかせている。こじんまりとありふれた祠だったが、わざわざ黒丸で示されたのも何かの符号に思えてくる。 「先を急ごう、急ごう」 僕はようやく親衛隊の二人に声をかけた。まずは振り向いて、もう一度は前方へ風に乗る調子で。 陽の翳りが足を急がしたのだろうけど、山中に潜む獣たちの息づかいを感じるまでもなく、二角堂を越えたあたりで脳内の指標もまた墓碑銘を薫らせ、小さな旅路の余情を先取りする。そして眼下の渓谷の流れに沿うよう薄紅が浮かぶ桜並木を発見した。満開には到ってないが、花片の舞い落ちるだろう風情は瞳の奥に優雅に送り届けられ、煤けた空の色調にしめやかな反撥をみせている。 「大佐殿、、、」 後ろのヤギが緊迫を押し殺したようにつぶやく。 「わかっている、お前も気をつけてな」 敏感に気配を察しているのはヒツジも同様だった。左右に目配せする微かな動きで動静を探っている。渓流の音はそんな情況とはうらはらに春の冷たさを無頓着に運んでいた。岩肌に弾けだす気泡の束を山々へと戻しながら。 空気がひんやり感じ始めたのはとても心地よかったよ。お陰で脳髄がいくらか引きしまった。桜の一群を素早く見送るふうにして進んでゆく。さながら校舎の並木を抜けるよう幽霊屋敷へと足を踏み入れ、鼓動のたかまりに得も言わぬものを覚える。チューザーはすでにバスに乗りこんでいるのだろうか。それでエンジンの加減を調べたり、色々と備わった装置を点検しているのだろうか。目的地までもう残す時間もなくなってきていた。地図を懐に仕舞い、山道の確かな感触を頼りに、ちょうど地雷を踏みつけはいないかといった面持ちになり戦々恐々とした足取りで速度をあげる。 風はない。空模様を眺めた一齣を意識してみる自分に苦笑しつつ、渓流が遠のく光景をぼんやりと目にしていた。傾斜がきつくなった。幽霊屋敷の階段かも知れないな。だが、窓の明かりが辛うじて室内に招き入れられるように、闇がまわりを侵蝕している恐怖は緩和され、夜の帳によって記憶が薄くまることなく、日暮れまでにはどうやら間に合ったようだ。的確な予感は大きな羽ばたきの絵筆を持たずとも、この坂を登りきったところへバスの姿を眼中に描き出した。 名も知らない山鳥が木々の間から頭上に飛び立ったのと、銃声が四方に響き渡ったのはほとんど同時だった。 「茂みに隠れて下さい!」 ヒツジが怒号にも似た口調で叫ぶ。牽制されているのか、狙撃を受けたのかはその場で計れない。ただ、一発の銃弾だけが山中に轟くほど至近距離から放たれたのは確かだった。僕と親衛隊は木陰に飛びこみ、呼吸を整えながらじっと耳を澄ましていた。「まわりは包囲されている」とか「抵抗せずに手を上げて」などといった紋切り型の声が今にもその辺りから聞こえてきそうで、身がこわばってしまったけど、内心は以外と山の冷気を吸いこんだ按配に静まっていたんだ。 眼光を鋭くさせているヒツジとヤギの二人の様子が面を通して透かし見える気がした。両脇に音も立てずにじり寄ってきた親衛隊の呼気を微かに感じとり、緊迫にまぎれた親和の情が水滴みたいにこぼれ落ちたとき、二番目の銃声が鼓膜に痛々しく伝わった。 運よく銃弾が外れた安堵を叱責する、けれども沈着な意向を受け渡す柔らかさで、 「狙撃手と思われます。援護者もいるでしょう。私が向こう側から銃撃してみますので、位置を確認し応戦して下さい」 と、ヤギはそう言った。無論ヒツジに対する提言だと思うが、僕に喚起を促したとも聞こえる決死の覚悟だったに違いない。相手が狙いを定めている現況に反撃を加えることは即ちおとりだ。しかし、ヤギは面を被っているせいもあってか一抹の悲壮感など発する間もなく、もと来た方向へと木立の中をくぐり消えてしまった。 再び沈黙に守られた僕はヒツジと共に息を殺しながらときの経過をじっと窺っていた。 |
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