ねずみのチューザー51


「これはいささか感傷が過ぎたようです」
いつにないチューザーの悲哀に乗せられたのか、僕とミューラーが共振している感覚が近距離まで歩んできたような気分がする。しかし感傷に身をまかせてるわけにはいかない、大佐の意志の件に戻ろう。
最初に耳へと入ってきた聞き慣れない言葉、そうデータX1とチップについてだ。これは僕の要約で進めていくよ。
いよいよ人格変換の技術を駆使するにあたって、さきの精神医学分野と大脳生理学が援用され、大佐にとって最適な、この情況ならびに以後の経過までを吟味した結果、あるひとりの青年が抜擢された。
チューザーには門外漢なところもあるので詳しい情報はもたらせなかったが、要はあまり激烈な個性だったり、特異な嗜好に傾斜している人間は一見、仮面としての本領を発揮しそうなのだけど、大佐自身の性格を完璧に消し去る可能性が出てくる。この事情については学者間においても相当議論されたみたいで、ひとつには意識の完全払拭が日常レベルの会話や行動に影響を及ぼさないかという危惧であり、これはまた胎教から想起されるように寝た子の睡眠度を計測したい、もしくは根本に生命体があり記憶は果たして徐々に植えつけられるのではなのかという命題を重視した結果、柔らかな自己像の成り立ちに賛成意見が寄せられ、穏便な性格の持ち主がやはり適切であるとの見解に至ったんだ。
ふたつめには記憶回復の過程においても完全消去よりかは、いくらかの残滓がより自然な回復につながるだろうとの意見で一致をみせ、それならば適任者とは、なるだけ情緒の安定した、かといって利己的な性分をあらわにしない程度に配慮の利きそうな温和な人格が最良だと認められた。
そしていざ選定に臨んだとき、ミューラー大佐はふと思い出したように、数年前S市からそう遠くはない町で起きた事件の際、ドクターヘリで救出したある青年を指名した。なんでもうわごとに「猫を引き殺した、車輪から飛んだ猫は回転しながらこっちを見つめていた」とつぶやいていたそうだ。良心の傷みから発せられたうわごとなんだろうけど、瀕死の重傷においてそんな言葉を聞くとは思ってみなかったので印象に残っていた。その後青年は後遺症もなく無事全快し、今ではショッカー○○支部に従事しているところ、面談ならびに身体検査を経てから、脳波変換機にて大佐へとその記憶を移しとった。その際に大佐はちょっとした悪戯をした。猫の怨念から解放されるのを願い幼児期にある記憶を植えておいたというのだ。逆療法ともいえるがとにかくそれは僕もよく知るところだから、なるほどそうした経緯があったかと妙に感心してしまったよ。
チューザーは青年と大佐との施術には立ち会っておらず、のちにそれを知ったらしいけど、僕へ言い含めたミューラーにまつわる話しはまさに筋書き通りだったのさ。
あと肝心なことを述べておかなくてはいけない。青年の記憶をどこまで移植するかにあたって、またもや関係者らの意見が対立した。最終的には断片を散らす具合で、これは君も覚えているだろう、みかん園での離婚騒動や、茶の香りに敏感なあたりがいかにも現実味をあたえ、それはある意味成功だった。というより青年の記憶はほとんど浮上することなく、失われた過去と現状にもがき苦しむ設定をつくりだす方向に貢献したと思う。僕が明言するんだから間違いないよ。おかげで真実に直面しても未だミューラーとしての自覚なんか微塵もなく、穏健説を唱えてくれた学者に感謝したいやら何とも複雑な気持ちだ。
データX1に関するいきさつはこれくらいでいいだろう。チップについてはこう読み解くしかないと考えている。すでに混乱は始まっているわけだけど、制御システムがうまく作動している間は問題ないとみていい、だが僕の混乱が雪崩みたいに勢いを増すと、回路は乱れて逆行し、つまり心身を破壊してでも最期の選択に邁進する。そうだよ、ミューラーを取り戻すのか、あるいは永遠にニュートラルの世界を彷徨し、チューザーが感傷に震わせた無常へ浮遊していくのだろうか。どうやら僕の思惑とは離れたところですでに萌芽が取りざたされているんだ。生身の神経はメカとどれくらい拮抗を展開するのというのか。そして壊れゆくという意味合いが字義通りに灰燼へ帰するのなら、それは本望であるかも知れない。
党首としての自覚も使命感も投げ捨ててしまいたい芽生えが自他ともに明白とされたとき、その答えは自ずと僕を制圧し、自由への讃歌に欺瞞的な美を見いだすことだろう。
美しくだまされたい、、、何という幼稚で世間知らずの戯言を理念としてきたんだ。君から見ればきっと僕は二重に緊縛されているのだから、憐憫さえ覚えてくれればなど甘えてみたくなる。
サスペンス映画なんかだと、ここで幕切れになるし、後味の悪さは案外日常から逸した感銘をあたえたりするんだろうな。ところが悲しいかな、まだ僕は君に伝えなくてはいけない事柄があるんだ。床下に潜んでいた闇姫の謎めいた行動や、そこから判明した出産が失敗に終わったという、プロジェクトそのものの崩壊。
鉄の掟はどうして過酷なまでに血生臭い結末に堕していまわなければならなかったのか。おくもを見限ったチューザーともげ太の思案は本当に冷徹だと言えるか一考の余地があり、それは治まりを知らない憤怒が今だ牙をあらわにしない、してはいけない、冷血漢みたいな心境は果たしてどういった意志に培われているのか、想い巡らしたいんだ。
なんだかんでで僕は神経が図太いに違いない。そうでなければ、おくもの死にとらわれているだけで、とてもじゃないが整合性に意識を重ね合わしたり出来はしない。恋は死んだんだ。墓碑銘にたたずんでいるのが最善の時間であるべき姿を打ち消しているのは、どんな面貌なのか僕には分からなかった。