ねずみのチューザー48 地下世界からの生還に艶めいているおくもの黒髪へそっと触れてしまったとき、躍起になって偵察を行なっていたのが、なにやら恨めしくも儚くも思えてきた。眠りついたとは見えない横顔には、それでも安らかなあどけなさが薄紅を刷かれたようにほんのり香っている。止血するすべもままならない焦燥は、改悛の情から離脱して不本意な方向にたなびいていた。待ち人が一刻も早くこの場へ姿を現すことだけに賭け、おくもの流血は夕陽のごとく赤い幻影になって帰途をさまたげていると、行き交うそれぞれのひとに願いを託していた。 畳の目に沁みてゆく血潮はもの言わはぬおくもの魂だった。無闇にからだを動かしたりするのは容態を悪化させてしまいそうで、見守るしか能がないことをしめやかに呪い、せめて意識を取り戻してくれたら、水気を帯びた髪をなでる指先が硬くならないよう気持ちを落ち着け、森閑とした座敷に伝わってくる細かな音を聞き取っていたんだ。 決死の覚悟で駆け抜けた出入り口の畳は何事もなかったみたいに元通りで、つい今しがたまで地下に潜入し、闇姫と言葉を交わしたことが夢なのではと疑りたかったけど、傷つき横たわったおくもと、少し離れたところで酷たらしい屍になっているじいが目に入る限り、夢は現実を過剰に裏切っているのが嫌というほど実感された。じいがおくもに襲いかかり、僕はじいを殺した。誰か目撃者とかいれば、サイレンが遠くから近づいてくるはずなのに、、、 もげ太、チューザー、どうしたんだ、老夫婦だけが過酷な番人の任務に殉じたのかい、おまえらが責任を放棄するとは考えられないんだけど。頼むから今すぐそこのふすまを威勢よく開けてくれないか。 闇姫は床下で僕の子を産んでいたんだよ、本山でなんてよくそんな嘘を言えたもんだな。あのとき咄嗟にねずみの群れはと信じこんでしまったが、それもかなり不可解なことだ、しかし今はどうでもいいから、理由なんかこだわったりしないから、とにかく姿を見せて欲しい。 声にならない悲痛な叫びは、返ってくることのない虚ろな響きとなって隠れ里を取り巻く見えない壁に吸収される。時計とは縁のない日々だったから、こんなに秒針が刻まれる思いはひりつくような、焦りだけに埋もれていく。いっそもう一度畳の下へ降りて、闇姫を問いただしてみようか、そんな案もかすめたりしたけど、あの拒絶ぶりからして好転に繋がる可能性は極めて低いだろうし、おくもをひとりにしておくのはとても危険だ。僕はよく磨かれたガラス窓の向こうを眺める具合で、瀕死の味方に魔手が忍び寄る様を見たり、そのあげく耐えがたい孤独にさらわれてしまうのを想像してしまい、結局辺りがてらてらした血の海となっていくのを黙って容認しているだけだった。 ところがときを経ず、急にこみ上げてくるものに押されたのか、赤い敷物みたいに流れたそれを見届けながら、ほぼ無意識的に傷口に被さる着物の破れを裂いて、襦袢も剥がしにかかり、自分でも信じられないくらい大胆な手つきでようやく、おくもの負傷を目の当たりにした。おそらくはどうすることも出来ない介抱を血の海で了解し、文字通りの手当だけを試みようとしたんだ。 「ううっ」と、苦渋の息がもれたが目を覚ましたわけじゃない。からだをなるだけ動かさないよう傷を受けた部分の肌を露出させてみると、なんということだ、肩の肉はざっくり開いて鎖骨にまで達し、腕がちぎれてしまいそうな痛ましさがあらわになった。こんこんと吹き出す血の躍動にとてもじゃないが手はおろか何物も触れることなど叶わない。このまま放置すれば確実に失血死するのは素人目にも歴然だった。 あんなに交わった柔肌が見るも嘆かわしく蝕まれ大きな糜爛を呈している。 胸の隆起は容赦なく血ぬられ、可憐な桜色していた乳首も単なる突起物としか言い様のなく、まるで蓋のつまみを想わせる人工的な素材に成り下がっていた。が、あばら辺りのかろうじて素肌を残している、健康的なかがやきは鮮血との対比を肉感的なものに仕上げ、着物を無下に破り捨てても燦然とした女体は本質を失ったりしない、そんな考えが湧き水となって現われ惨憺たる情況を濾過させる。 神秘をたぐり寄せるよう陶然として、生と死の狭間を見届けているのが僕に出来るせめてもの手当だった。やがておくもの顔は恐ろしいくらい見る見る青ざめていく。唇は紫に変色し不吉な容貌へと急降下していった。もう二度と白い歯とともにあの笑みが、僕に向けられることはないのだろうか。 そうして伏したからだを取り囲めるほどになった流血に、涙のしずくを垂れる悲嘆にくれる間のないまま、おくものうら若い生命は閉ざされてしまった。 畳へつきた両手になま温かい血潮を感じたけど、別段激情に駆られるでもなく、またおくもの死に顔を見つめるでもなく、浮遊した視線は宙を舞い、僕が惨殺した老人のほうへ吹き流されるようにしてたゆたっていた。 陽射しは部屋全体を無感動なひかりで包みこんでときの過ぎゆきを放棄させた。死の匂いが無臭である不思議さだけが、遠い宇宙空間に放り出された寂寞となって、星の瞬きに目を瞑るものうさへと沈殿していく。地下世界の暗黒に無論ひかりはなかったが、肌を差す恐怖は横溢していた。畳のうえの死はひかりを照り返しているが、頬をなでる微風は忘却されていた。 背後に季節はずれの虫の音を聞く気配があり、秒針がひとつだけ動いたような細やかだけど、閑却されても仕方のない無味を微かに覚えた。振り向くのも億劫だったし、僕に迫り来る気配だったら自ずと明確になるさ。いや、こころの隅に小さくへばっているのさえ認めたくない虚脱が、意地らしい抵抗を示していたんだ。 空気はいびつに傾き足音だけが純粋な影となってすぐそこへ刻印されている。はなから枯れていた涙は非情の影を叱責する気力も失っていた。言葉は勝手に空気を伝わる。 「そろそろお目醒めになってはいかかでしょうか。これ以上は負荷が過ぎると思われます」 もげもげ太の声は普段に増して、まるで患者をいたわる医師みたいな慈しみがあった。 「計算には早いですが、データX1の回路は焼けついてしまうでしょう」 チューザーかい、久しぶりに耳にする文句は相変わらず理不尽だな。あれほど切望した者らに対し、僕はそう胸のなかで呟くだけで首はまわさなかった。指折り数えられる少しの間が置かれたけれど、何の意想も滑りこませないよう無心に徹した。 じれたわけでもあるまいが、チューザーは僕の背をただす為に一念を込めたんだろう、 「命令に反するかたちになってしまいました。しかし、脳内の安全が保証出来ません。ミューラー大佐殿」毅然とそう言った。 座敷の畳すべてが床下に堕ちてしまう幻影に見舞われた。だが、ひかり差す空間は保たれており明度も仄かに下げられた感じがしただけで、衝撃はこの身をつらぬいてはいない、そんな失意とは離れた思いだけがぼんやり灯っていた。 |
|||||||
|
|||||||