ねずみのチューザー25 満腹感となんだかんだの疲労が重ったのか僕は睡魔にさらわれてしまった。升酒の酩酊というより、バスに揺られ、屋敷へ通され、座敷の畳につかの間だけど安堵を見いだし、湯船で温まったうえ、魔に魅入られた情念が開花して、日暮れ次第に深まる宵闇へと青白くも鮮烈な電流がほとばしる。 「不都合ならばどうぞ就寝のままにて」という苔子の言葉が耳の奥で幾度もこだまし、欲情をなだめすかす役割に忠実であろうとしていたのだろう、醒めた意識に柔らかな面紗を掛けられるのは、確かに夜の甘美な戒めだ。 決して熟睡していたとは思えない。ゆっくり瞬くようにして視界を徐々に閉ざしながら、身が横たわる感覚を宙に浮いた鈍さで知る刹那、じいとばあのよくは聞き取れないが、ことさら困惑した気配も伝わらない首尾を心得た会話は、まるで催眠効果のごとくに僕から流露した夢想の導入部に違いない。 座敷に揺らめていたのは行灯の影だとぼんやりした意識が輪郭を取り戻し始めたのだけど、薄暗い室内の様相をはっきり認めるには覚束なかった。何より感じたのは酒食で熱を帯びていたからだの表面を包みこんでいるひんやりとした肌触りにほかならず、察すれば、僕の体温を吸収するこの布団の冷ややか具合から、どうもさほど寝込んでいたわけではないという目覚めだったよ。 天井の明かりは消されていたから、枕もとへ置かれた行灯に目が吸い寄せられたのも当然だね。そのうち、何やら影が視界にぼっと浮かんでいるのがようやく定かになったとき、局面がひらけると同時に暗闇へ配慮を示しているようしとやかな声がもれてきた。 「お目覚めでございますか。斯様な所作をお許し下さいませ。一夜のおなぐさみなれど共寝いただきたくお願いにまいりました」 苔子の口ぶりにはどこか哀感がこもっている。酒酔いの残りによるものでないけど完全に思考が復活しないまま、僕はあえて眠気に誘われる調子で夕餉の満足を、風呂場の湯煙に秘匿された快感を、門前で初めて苔子の容姿を見いだしたときめきをフィルムの逆まわしとして脳裏にめぐらせたんだ。そうすることが、苔子に対する礼儀にも思われ、また情況に接した緊張をほどく手段にもとれた。 「夜伽」という言葉の響きを厳粛に受けとめてしまえば、その隠微でありながら高まりつつある欲情に水をさして、興を削いでしまうだけでなく下手をすると鎮火によって、すべてが義務づけられた足かせになってしまいかねない。色仕掛の妙策を自覚してしまえば、残されたものは服従と引き替えであることは瞭然、まえにも言ったけどせっかく古風な情趣を演出してくれているんだ、味気のない契りに心身を投じるのはあまりに虚しいよ。これから目の当たりにする苔子の裸身を堪能するのは例え束の間の悦楽だろうが、豊かなときを確実に約束してくれる。だからこそ面前の緊迫から解放される為、自己演出が要求されるんだ。苔子の声色にもそこはかとない哀しみがひそんでいる以上、儀式はいったん閑却される。 実際の女体に色香を直接求めず、さながら童貞が初体験時に怯懦を克服するよう、直視を避け、かつて自慰の対象となっていた想像世界を陶然と見つめ返すに等しく、自らを奮い立たせるのさ。筆おろしと今の情況ではいささか違いがあるだろうが、未知なる場面を選択する自由において何の隔たりがあるというのだ。 僕の意識はそうやって眠た気なまなざしを頼りに意図された性欲を制御しつつ、至上の高まりをめざし行灯の影に寄り添った。 「どうしてそんな冷たい目をしているのですか」 どうやら苔子に僕の気持ちは通じているらしい。 「冷たくなんかないさ。苔子さんがとても奇跡的だから驚いているだけだよ」 「ならば、多少の笑みもこぼれましょうに」 おそらく僕の表情に変化はない。が、冷淡な言葉を保ち続ける意志は届けた。 「ほら、貴女はもうそんな優しい顔で驚いているじゃないですか。その満面を僕はしっかりと見つめていたい。わかるだろう、僕は今から優しい顔に隠されたからだと交わるんだ」 苔子はそっと目を伏せながら、白い歯をほんの少しだけ覗かせた。そして行灯を背でさえぎる格好で座ったまま帯を解き、着物をゆっくり脱ぎ始めた。紅い半襟は夜目にまばゆいはずなのに、明かりが塞がれた座敷は鮮明な彩りを投げかけることはない。際どい色合いよりも今は制約され煤けた暗渠を好んだ。灯火に映える水面を遠目にし、ほくそ笑む自分を慈しみながら、台所の底を這っているナメクジの陰湿な軌跡を愛した。夜風など入りこむ余地はなかったけれど、こころのなかは秋の月をもかすめていくような涼風を得て半身を起こすと、すでに素肌をあらわにしている苔子に手を差しのべた。 夕暮れには白襦袢に透けていた実り豊かな乳房へと顔をうずめる。仄暗い空間でも裸身は接するほどに白く発光している。その胸の谷間には青い血管がほどけた糸のように細く浮いて見えた。からだはまだ火照りに制覇されていない。上布団をはねのけ、女体と横並びになる格好で両腕をしっかりまわした。互いの面が視線と共に向き合ったとき、一層腕にちからがこめられるのが我ながら悩ましく、が、おそらくは伏し目になっていまうだろう一瞬を逃さずに吐息も飲みこむ勢いで唇を重ねた。半開きの状態を維持しつつ舌先を少し絡めてみる。声にはならない、かといって呻いているわけでもない呼気が舌の奥から熱気となってもれだし、ふたりの唾液は純度を増していき、案の定すでに閉じられた両のまぶたを開かせる興奮が荒い口づけとなってぬめり、歯の裏まで僕の舌は触れていた。 |
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