ねずみのチューザー13 朝から陽射しは少しも翳ることなく午後の天空を一段と冴えわたらしていたけれど、胃袋へしみこんだ朝餉の満足に窓の向こうも強いて見晴らしを望んでないのかとさえ感じられた。それは目にも鮮やかな紅葉に彩られた山々が唱えているような清澄な得心とも思えたんだ。本来ならどこまでも連なりゆく山肌に優美な錦絵が展開しているのを見入ってしまいそうになるだろうが、今はどうやら内心がうたた寝しているみたいだったから、瞳の中まで彩色されてなかった。うつらうつらとしていただけかもね。 山は深かったし、タイヤから伝わる振動も何度も曲がりくねったりするうちには単調な時間へとすべりこんでいくので、太陽の高さをそれとなく眺めてみる以外はどれくらい経過しているのか覚束ない。 チューザーが運転席からこちらを振り向いて、例の鼻先をヒクヒクさせるまで僕はただの乗客に過ぎなかった。それというのも、今まで曖昧なままで過ごしていた気分が一新される情況がそれとなく感じられ、これまた妙な言い方だけれども、夢のあいだに新たな夢がはさみこまれて、それが針先に触れるような鋭敏さをもった現実感に圧倒されてしまったのさ。 そうチューザーはついに語りだしたんだ。彼の歴史を、それから卍党にまつわる現在を。僕の運命もおそらくはさみこまれた夢同様に、曖昧さから反対に逃れられない物語となって進展していくのだと確信したんだ。それまでは桃源郷であることの桎梏を倒錯したままどこかで期待してたに違いないから、ねずみのひげがまるで急な針となって突き刺さってくる予感に身をこわばらし、最初のバスの横転や、みかん畑から不意に現われたあの驚きとは別種の緊張が走りだしたわけなんだよ。 僕は前にねずみの秘密も目的地も興味がないと書いたとはずだが、それはとりもなおさず次なる停車場だけに意識を傾かせた刹那的な考え以上のなにものでもない、孤独と不安と恐怖に苛まれるよりかはファンタジーに遊んだほうがどれほど心地よいものか。しかし、閉ざされた遊園地にはいずれ見捨てられるんだ。いいや、僕がそうした情況に飽きてしまうこととは似ているようで似ていない。空間に重力が存在する事実に等しく、精神とか意識なんてものは風が吹けばさっさと飛んでしまうんだよ。だからファンタジーには強度が要求されるわけ、そうだよ、その辺は抜かりがなかった。「闇姫」との対面を先手打って持ちかけておいたからね。その反応もまんざらじゃない。と、まあこれは僕の本能が導いた手管なのか、単なる思いつきかは実のところよくわからない、、、 さあ前置きはこれくらいにして、ねずみの歴史とやらを君に聞いてもらおう。あっ、大丈夫だよ、それほど込み入ったものじゃなく、大河ドラマの総集編のその予告編ほどだから。チューザーのひげに針先を感じたのは僕の神経が勝手に作用したのだし、倒錯の中に新たな逆転を見いだしたのも思弁にすぎない。君は君の感性であるべきで、なにも僕が正しいわけではないよ。 彼は言った。 「ねずみと耳にされていかなる連想されますやら、薄汚い小動物にて夜行性暗所を好み、ねずみ食いなどにあらわなこそ泥みたいな性質なぞ、油虫と並んで毛嫌いされ駆除の標的である醜い存在なぞ、ほかにも諸々と汚れを背負った印象はぬぐいきれないところ、もってあまる不遇なる種類でありましょうが、それがし、すがたかたちこそ斯様な生まれは否めませぬけれども、こうして人様の言葉を察する身である故、ごく常識から申しましても妖怪変化のたぐいと異形の刻印がせきのやま、突然変異と見なされていただくことさえ畏れ多いのも承知のうえで、われら種族の系譜をひもとかせていただきます。人様に肌の相違はござりましても、あるいは世界の国々の言語が異なり文化習俗の差異はござりましても、動物や昆虫魚類などと云った下等生物と明晰な意思疎通を可能なさしめている人種は現代には存じ上げません。太古にはそうした交流はことさら珍しいものではありませんでした。ここで有史以前の生物の有様を述べるつもりは毛頭なきにして、せつに申し上げたいのは、今日あまたに存在を認知されます種とわれら中左一族は類人猿と人様にも共通する隔たりがあるのでございます。驚かれるのも無理はありません、進化論にも生物学にもねずみが抽象的な思考能力を持ち得るまで飛躍したなどとは論じられておらず、現在においても研究の対象になろうはずもなく、その事実を知るのはごく限られた方々のみでありまして、かつて幾時代にかは妖術魔術の方面から重宝されおもしろおかしく目された痕跡はあれ、手品まやかしと真摯に歩みよることなきが幸いしまして決して人口に膾炙することはなかったのでございます。いつの時代と云うのも中々秘匿された実情があります故に詳しくは述べがたく、またそれがしにも代々の血筋がどうした暗躍をおこなったのかは明確には聞かされていないのです。お気づきでありましょうが、紀州藩武芸指南役と申しましてもあくまでその相手は人様でなくわれら同輩、表立って剣術などの修練など夜も更けいった時刻に制限、お見知りおきなのは藩中ではただおひとりでござりました。そのお方の身分は申し上げれませぬが、われらが忍びとして日々鍛錬をかさねていた内情はお含みいただきたく存じます。それがしの父も祖父も一切の書き付けは残しておりません、先代どころか遠い昔にさかのぼりましてもそうした記し自体が御法度でありまして、すべては口伝にて先祖より賜ったもの、それほど極秘な宿命を連綿と背負い続けたのでございますれば、あまたに見かける種とは隔絶の一族、いえ、それでは傲慢と受けとめられるや。暗中跳梁と云う意味あいでは所詮同じ穴の類、ひとえにわれらから優劣をくだすことは憚られましょう。どうぞ、それがしのすがたかたちを通し、世に棲息する人語知らず種を憐れむことなく認識されとう願います」 |
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