まんだら第四篇〜虚空のスキャット47


追想には違いないのだろうが、口をついて出る夏の幻影は自らの裡に巣くっている実体のようにも思えだして、振り返えるまなざしはまざまざと迫り来る倒錯した感覚だけを残してゆこうとしている。
夢幻の境地をたゆたう模糊とした視界にどう委曲を尽くせばよいのやら、次第と睡魔に襲われる状態からは実際に起こった現象が、ちょうど映画の一場面みたいに手の届かない世界で光彩を放っているばかりでもどかしく、靄がかった情景をなぞるのが精一杯になってくる。心奥に残存している記憶が曖昧になると云うのは、乾燥した感情で風化させられているからなのか。天井から降った夜の水に相反するのを承知しているかのように。
遠藤の影をどれくらい見つめていたのだろう、他の者らの反応はうかがうまでもなかったし、それは自分と同じく鋭角的な驚嘆だけに縛られていない、確かに全員張りつめた空気を吸っている気配は肌に浸透していた。想い出のなかにある夏の斜陽は、愛おしさで圧迫されていたにもかかわらず、常に淡い憧憬となって逃げさるしかない。この部屋の湿気と乾燥は謎めいた科学反応をしめているのか、それとも極めて均衡を保っているのか、よく感じとれないまま気持ちが静まっていくのを寝入り際のように引き受けている。
そして今こうやって砂理をまえにして一部始終を語りだしていることも夢境の現れではないのかと、地に浮いたような、それでいて山稜へかかる白雲を見上げたような、遠いところにこころが吹き流されていく安閑さに支配されている。夢の情景が澄みきった空間をかいま見せるのと同じく。
だが、晃一はしっかり目覚めており興味深く自分の話に耳を傾けている砂理の呼吸も鼓動も感じているのだ。強い衝撃と底なしの不安に失神してしまった身からすれば、その後の成り行きには胸騒ぎでせめぎたてられる勢いの危うい魅力で充たされたい望みがあるはずだから。
片目をじっとのぞきこんでいる一条のひかりは最初に彼女と出会った頃、まぶしさと羞恥で何度となく晃一を暖める新鮮な輝きに満ち、身もこころも突き抜けていく清涼な刺激となっていた。この瞬間にも光度は衰えることなく向かい合った距離など飛び超し、遥か彼方まで、地の果てまで、駆けめぐるだろう。ひかりは風に乗り、風もまたひかりと戯れ、熱風となり、涼風となり、あらゆる想いを運んでくれる。だからこそ幻想に傾いた事実を伝えよう。そのままでいいけれど、美しければ尚のこと素晴らしい。玲瓏たる音色にすべてを捧げる指揮者の如く、無の空間を馥郁とした香りで埋め尽くそう、、、晃一の想いは複雑に絡み合っていたけれど、無心で見つめられている自分を知るに及んで緊縛の縄がほどけだし、ゆらめく気持ちに木の葉が舞い降りてきた。
「遠藤さんの影が次第に薄れていくのを呆然と見ていたよ。だって、もう二度とこんな光景に出会えるなんて思ってなかったから。ほんと、呆然としていた。何かあっという間だったな。塚子さんの表情がもとどおりに変わっていった。でも誰も口をきかなかったし、その場から動こうともしなかったのさ。まるで余韻にひたっているみたいな気分だった。君はまだ気を失ったままだったけど、お母さんは口もとを引き締めたまま身じろごうとせず、ぼくと同じく一点を凝視していたんだ。父の様子をうかがうのは何だか気後れがしたと云うか、たとえは嫌らしいかも知れないけど、両親のセックスをのぞき見たようで不快な感じがして、でもおそらくそれ以上の出来事だったから、そう、児戯にも思えたから、そのまま正気を取り戻すまでぼくから声はかけまいとした。どのくらいの時間だったか覚えてないけど、無言劇の終わりを告げたのは美代さんだった。すでに遠藤さんの気配も消えてなくなり、あの暗幕が自動的に開くと外はまさに美代さんが演出した夕暮れそのものだった。微笑んでいたよ、多分あそこにいたみんなに対して。それは決して自嘲的な笑みなんかじゃない、慈しみのある透き通った無垢なものだったんだ。ろうそくに再び火が灯されるような気がしたんだけど、ごく普通に蛍光灯の明かりが無言劇を終わらせたのさ。そして静かな声でこう言った、もうお目にかかることはないでしょう。兄もそう申してました。今日のことは忘れません。それだけの言葉を残して部屋を出ていった。砂理ちゃんが気がついたのは塚子さんが熱いお茶をいれてくれたあとだったね。霊媒師がいなくなった部屋に時間の針が刻みだしたのはあのお茶が一役買っていたんだ。だって塚子さんたら、さっきの夜の水、主人亡きあとも新月の水汲みは続いていて、この緑茶もその水でいれたとか言うんだから。あっと思ったよ。何だ塚子さんは憑依されているのを自覚してたというか、演じていたんじゃないかってね。美代さんと一緒になってぼくらに最高の見せ物をプレゼントしてくれたかもって。父さんもそれを内心わかっていながら儀式に即したような気がする。君はまだ涙に潤んだ目をしていたよ。お茶をすすりながらあのとき何を考えていたんだい」
「そうね、今まで気絶なんてしたことなかったから、一体どうしたんだろうって、ここはどこなんだろうって、そんな単純な思いだけがお茶の味に含まれていたわ」
砂理の瞳も美代のように澄みきっていた。晃一は己の汚れを知った。罪深いかどうか定かではないが、白い小鳥の羽が少しばかりくすんでいるように感じた。