まんだら第四篇〜虚空のスキャット34
静かにドアは開かれた。二時ちょうど。孝博の緊張は沸点まで達したことになる。泣きはらした目をハンカチで押さえているが、哀しみのしずくはまだ枯れる頃合いを見定めていない。
砂理の肩先には晃一の手がこわれものに触れるように、なぐさめを不透明にしてしまいたい想いで、純白色した小鳥の羽となって柔らかく乗っている。どうしたいきさつがあったのか、問いただしたい欲求は、落涙を寂し気に見つめる晃一の片目によって勢いが弱められ、日頃から気にかけまいと努めてきた黒皮製の眼帯に閉ざされた亡きひかりによって失われた。力なくソファに腰を下ろすふたりを見守るのが精一杯だと思われたから。
そのときを待ちわびていたように、やはり静かにドアを開ける音がして見知らぬ女性と向きあった。
「大変お待たせして申し訳ありません。頭痛が中々おさまらなかったもので。浅井美代と申します。早速ですが、わたしをお訪ねになられた理由は想像がつきますので、どうぞあまり気にかけないで下さい。さあ立ったままでは何ですのでお座りになって」
抑揚こそ忘れられているみたいだったが、その口調にはきびきびとした対応が聞きとられ、来客であるひとりが涙を流している情況も一緒に洗われてゆく心地がした。
「こちらこそ、身勝手なお願いでさぞかしご迷惑かと思いますし、本当にぶしつけな訪問をお許し下さい。久道さんには一度だけしかお会いしていませんけど、あの様な不運でどうお悔やみ申し上げたらよいのやら、、、前回同様に急なうえ、こうして多数で押し掛けてしまいまして」
「いいのです。わたしに面会にいらしたのでしょ。ですから、わたしはこうしてみなさんにお会いしているのです」
「あっ、失礼しました。わたくし磯野孝博と申します」焦り気味になってしまったのも仕方ない、習慣的に名刺を差し出そうとすると、「以前、兄に渡されましたね、名刺は兄嫁の塚子さんから拝見させてもらいました。けっこうです」厳しくもない、優しくもない、美代のもの言いには日常を遮るつい立てみたいな距離感がうかがえる。小さな紙切れである名刺などは何枚張り合わせたところで、つい立ての役目は果たさないだろう、、、思わず胸のなかで苦笑いしてしまう。
「それはどうも、、、これは息子の晃一です。すいません、何やら事情があるあるらしく泣いていまして、美代さんが入ってこられるのとほぼ同時でしたので、わたしもよくわからない次第なのですけど、息子の友人の永瀬砂理さんです」
「ごめんなさい、肝心なときにこんなふうな態度で。でももう気を引き締めましたから大丈夫です。よろしくお願いします」
と、砂理は睫毛に水滴を含ませたまま、例の陽気な笑顔を振りまこうとした。
「あらあら、大変ね。乙女ごころは複雑ですから。それにわたし、あなたがどうして泣いていたのか知っていますから遠慮はいりません。好きなだけ涙を流すのがいいわ」
訪問者たちが凍りついたのは言うまでもない。そんな様相をゆっくり見聞するかのごとく、美代はそこから無言になった。心身に及ばずこの空気全体が急速に凍結されてゆく。
砂理の両目からはもう潤いどころか、虹彩は鈍い色合いのまま捨て置かれた紙くずのように情感を剥奪されていまっている。晃一はぽかんと口を開いたまま、何とか片方の目を宙に泳がせるのが最良の方策だと信じ込んでいるようだ。孝博は自分でも不思議なほど落ち着きをなくしてはいなかった。ここまで迷路をさまようように進んで来たのは、まさに観念上のたうちまわった錯綜から抜け出てみたいが為であったからで、これほど端的な導入部は鳥肌が立つ思いであり、尚かつ砂理の狼狽から一気に謎が見渡せる案配に近づいている実感が、旅客機に乗りこむ楽しみを、つまりは疾走する悦楽と鳥瞰があらたな地平と天空を切り開いて行くのだと確信出来たからであった。
もう心底から熱い情念を吐きだしてもかまわない。静寂は平常心によって破られた。
「どうやら久道さんは真実に一番近いところをわたしに語ってくれたみたいですね」
「兄とはしばらく会う機会もありませんでした。はっきり申しまして、わたしはそれほど兄の死に悲しみを感じておりません。子供の頃の想い出はあるとしても大人になったからは疎遠でしたし、それに、、、兄の研究ご存知なはずです。実験材料なんかにされるのはご免でした。いいのですよ、別にこうしたお話なら、わたしだってどれだけ話しても尽きないものがありますから。どこまで聞かされていらっしゃるのか知りませんけど、片手落ちはいけません。兄の言葉がすべてだと信じるのはご自由ですが、言葉は動いています。動物なのです。動物は当然ものを食べます。それがエネルギーでしょう。さて車はガソリンで動きますけど、言葉は何を燃料としているかご存知でしょうか。語学者であり、宗教学者の磯野さんが知らないわけなどはありませんね。それはそれとして、ところで兄はこんな言い方はしていなかったですか。時間系列に沿ってお話しましょう、と。そう言いながらもところどころ逸脱していた。半日で語り尽くせるほどわたしの生きてきた時間は短くありませんから、記憶の貯蔵庫に幼児期から整理番号でもつけておかない限り、年代記などは随分と潤色されるものです」
美代の声はすでに呪力を帯びていた。どれだけ論理的であっても、どれだけ感情が固定されていようとも。
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