まんだら第四篇〜虚空のスキャット26
あらかじめ書きあげられた脚本を読み上げるふうにしてことの次第をかいつまんで相手に伝えると、思いがけない反応が返って来た。
「はい、主人は磯野さんのご名刺を自慢気にしていましたのでよく覚えています。ああいったひとでしたから、大学の先生がわざわざ訪ねていただいのはよほどうれしかったのでしょう。詳しい話しはわたしには難しくてよくわかりませんでしたが、あのひとはこう言っておりました。自分が研究していた分野をあれだけ真剣にとらえてくれた学者に始めて出会えたって、、、」
電話の向こうでは悲しみと交差する声に移りだそうとしているかもと耳がそばだってしまう。
孝博は出来るだけ電話口でのやり取りを最小限にしたいが故に、息子とその彼女も一緒であること、それとこれは機転だったが、ふたりは遠藤の超常研究をかねてよりそれとなく察知していて亡きあとはせめて書斎が変わりなければ是非とも拝見させてもらえれば、そうそつなく申し出て了解を得てから矢継ぎ早に実のところ妹の美代さんにもお会いしたいだと、先程からの口調を崩さず探りを入れてみた。
一瞬、凍りつくかに感じられた間合いであった為なのか、それとも孝博の鼓動がときに賭博を挑んだ為なのか、次の返答が響いてくるまでひとつふたつの気詰まりに身がこわばった。
「えっ、美代さんですか。はい昨日からうちに居ますけど」
こわばりなど思わず氷解してしまいそうなくらい、朗らかな驚きの様子が鮮明に読みとれる。
「色々と取りざたされて迷惑なのは承知なのですけど、遠藤さんから是非とも一度妹と引き合わせたいと先日申されましたので、もしご都合とか悪いのでしたらけっこうなのです。これは電話ではなんですけど、ご主人の予言も含まれておりますので」
と、多少の潤色をくわえることで取り急いで訪問を確定させなければならない焦りが語尾を走らせた。
「わかりました、それでは午後からですね。はい一時過ぎ頃、、、」
予言を遺言と言い違えそうになったとき、さすがに動悸が高ぶったけどこうして悲願でもあった美代との面会が現実のものになってしまって、思いのほかこれからは本当の児戯に堕するのではないかと、水風呂に飛びこむときのような疎ましさがよぎったりした。
それにしても遠藤の妻は感が鋭いと云うのか、ただのおひとよしと云うのか、美代の件にささかかり次第に緊張しかけた声色をとにかく察したのだろう、
「事件のことですか、あれってかなり大げさな報道なんですよ。美代さんは昔から変わったところのあるひとでしたし、実はわたしも本当に久しぶりなんです。葬式ではお兄さんとしっかりお別れが出来ないとか言って出てこないし、あまりわたしのことも好いてくれてないようですの。主人も人見知りするたちでしたけど兄妹ですね、美代さんも同じなんです。ちょうどよかったですわ。わたしらとも会話らしい会話は済んでしまいましたので、話し相手になってあげてくださると助かりますわ。明日には帰るって言ってましたからいいタイミングでした」
希望の星は手にした途端に消えてなくなるのだろうか。電話口からの遺族がもらす哀感は掃き清められたと呼ぶよりは、はたきでパタパタはらわれてしまったようなぞんざいさで小綺麗になり、孝博が描いていた悲運と秘密が織りなす月夜の闇に浸透していく淡い情景は、日のひかりで白々と濃淡がそこなわれてゆく。これでは美代の首筋うんぬんはおろか、会話すら成り立たないかも知れない。だとすれば一体どうして遠藤の言葉にこの身を託し、息子らまで引き連れての珍道中を急ぎ足で駆け抜けて来たと云うのだ。
孝博は祈りが成就したよろこびより、ここまでの道程が最上のかがやきにあふれていたのを嫌がうえにも認めないわけにはいかない。
「どうしたの父さん、ぼんやりして」
背後から晃一にそう言われて普段の真顔を作りだす。
「あのな、美代さんに会えるぞ」
「やっぱりね、ぼくも絶対に来ていると思っていたんだ」
「どうしてそう言えるんだい」
「いやあ、こっちにだって知人は残して来たからさ。情報、情報、父さんもどこかで仕入れたんだろう。ほんとうきうきするなあ。どんなひとなんだろう、写真も週刊誌とかに出たそうなんだけど、実年齢は知らぬがよしでね、でも噂ではすごい美人だとか。だって女吸血鬼だよ、父さん」
晃一の邪気のない笑い顔には罪はなかった。女吸血鬼にだって罪はないかも知れない。罪があるとすればそれは間違いなく己のつまらぬ起伏をもった感情だった。揺らいでいる、空気が揺らいでいるのではない、波が揺らいでいるのでもない、時計の秒針が揺らいでいるのでもない、理知の刃物で切り裂いたはらわたがきちんと整列してくれないので揺らいでしまうのだ。そもそも理知の刃などはどこにもない。ただあればいいと想像しただけで、背筋が少しばかり伸び、目にひかりが宿った。それでよかったのだが、このはらわたにはいい加減うんざりする。整列しない、してくれないのではなくて、整列させたくないのだから始末に置けない。
「ねえ、まだ時間じゃないけど車借りて行こうよ、さっき砂理ちゃんの携帯からメールでさ、もうお昼の駅弁食べたからだって随分早弁だね。ぼくも何だか弁当食べたくなった、のり唐弁当がいいな。天気いいから山の公園で食べてから駅に迎えに行けばちょうどいいんじゃない」
晃一の食欲は澄み切った天空にも増してさわやかだと、孝博もいつぞや上空から見下ろしたとき大地の起伏のなさを思い出し、笑みをこしらえた。
「そうするか。ところで彼女の母親の旧姓はなんて言うんだい。こっちの出だってな」
「山下って名字だよ、名前は一度聞いたような気がするけど忘れちゃった。砂理ちゃんが着いたら教えてもらうよ」
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