まんだら第四篇〜虚空のスキャット2


単なる期待であるべき以上の思惑をはらんでいたからには、初対面の人物を果たしてどういった印象で受けとめるのやら、気早に波立つ久道の眼に映じた男の年格好や人柄は、兎に角挨拶を交した時点で何やら顔見知りに思えたりもして、しかもよりどころのないままに胸のあたりに充満する既視感を、錯覚かと受けとめる良識も同居させているあたり、反対に随分と浮かれてしまっているなと感じるのだった。
手放しで喜びが許されない、腑に落ちてしまうことをどこかで拒む、熱射のうちに溶け出してしまう氷塊を見つめているような、微かな敗北感みたいなものがもたげているからであり、その雪解け水を連想させる季節はずれなイメージに我ながら慌ただしい胸中を諭される。
「お昼はまだでしょう」
正午をとうにまわった時刻の来訪に念を押すよう、ほころびから笑みが飛び出してしまうのを押さえるよう、久道は聞いてみた。
「はい、三好荘を午前中に出て少し、海辺からみかん山にかけて歩いて来たものですから」
幾分うつむき加減でそう応える男の額には汗が吹き出している。
久道はこころの底から合点がいったと目を奥からひかりを輝かせながら、
「磯野さん、まあ上着を脱いで楽にして下さい。今日もかなり暑くなりそうですから」
と言って、冷房も効いている室内だったが扇風機を客人に向け涼をうながした。
「お昼と申しまても内のが留守で、さっきから仕込みと段取りだけは済ましておいたんですけど、いいえ、大層なものは作れませんので。五目冷や麦と焼き飯なんですが、あっ、五目冷麦って云うのは、きゅうりとか錦糸卵とか載った冷たい麺です。冷やし中華の和風版ですか。それと焼き飯も半ライスのこじんまり量でして、こう暑くなりますとやはり炭水化物をしっかり採っておかなければなどと思いまして、それに冷たいものと温かいものってバランスもいいじゃないですか」
この部屋に備わるソファやカーテンの布地から湿度が発散されているのだろう匂いを、想い出そうと磯野は努めてみたのだけれど、それがどこで嗅いだものかはつかみ取れないまま、強風に乗って聞かされた意表を着かれるそんな献立に和まされ、まだ少し汗に濡れた皮膚もひんやりとした感触にさらされていった。
ビールでもと勧めたれたが、先きに手元に置かれた麦茶で十分ですからと、恐縮しつつも意思をあらわにした後で、
「それでは、少々お待ち下さい。今、こしらえて来ますから。もう段取りは済んでますから、すぐですから」
と、軽快な口調で台所に姿を消した久道の思いもかけない陽気さに唖然としながら、増々、汗が冷たくなって引いていくのを磯野は時を数えるように知った。
この場でひとりになって始めて覚えるこそばゆさで己を解放させてみたくなる放埒な思い。あらためてこの部屋の匂いが衣類の陳列された洋品店を彷彿させる、あの真新しい繊維が浮遊し冷気と交じり合った清潔さを運んでくる初々しい微風によく似ていると感じる。真夏の外からは隔絶されても、季節に即し慰撫する使命を心得ているかの淡い、そう原色が潔く退色したとでも云える、薄桃色や水色や吸い込まれそうな若葉色で清涼を醸し出す、白昼の岩屋が持っている隠れ場のような居心地。
嗅覚と云うものがどれほどこころの底辺まで沈潜し、記憶の貯蔵庫の扉を開けるのか、磯野孝博は数年ぶりにその謎を探ってみたい欲求に駆られたのだったが、反逆作用とも呼べる現実的な情況は残念ながら彼が目のあたりにしているこの室内、つまりは視線が配分する未知なる日常の方向へと否が応でも連れ戻してしまうのだった。記憶の彼方に別れを告げることもなく、、、
おそらく事務室を兼ねた客間であろう十畳はゆうにありそうな広さ、低めのテーブルを囲んだ布張りのソファ、レースのカーテンに遮られているけれど本来は外光を直接受けている幅広な机、その両脇の壁に添えつけられた天井まで届きそうな書架、ここからでも眺められる孝博もよく知る専門書を扱う出版社の書物。立ち上がって端からつぶさに見てとりたい気持ちを引き締めたのは、彼自身もよく分からない穏やかな余裕が静かに警鐘を鳴らしている為であって、決してここに長居するわけでもないのに何故か、満ち足りてしまい、こうして遠藤の住まいまで訪ねてしまったと云うことで、糸口を即物的にとどめ置こうと懸命になっているのであった。
そして、あながち的はずれではないと推測される、あまりに唐突な連絡が思いがけない快諾へと結びついた意味。書架以外の壁面にびっしり張りつけられたペナントの織物が見せつける光景、それはまだ茫洋とではあるが大胆な無邪気さを裏側から支えているような気がしてならなかった。
この無邪気さは、冷麦や焼き飯と云った昼飯によって脱力感を生み出し、親和へと歩み始める。台所から香ばしい炒めもの油分が漂って来て、ようやく孝博はさきほどからの清涼な冷気の発信源を見出したのだった。