まんだら第三篇〜異名13
「いい撮るわよ、あっ、そんなふうに無理して笑顔しなくてもいいから。もっとおすまし顔で。そう、でももう少しだけ目を下にしてどこか悲しいそうに。ごめん、ごめん、泣きだしそうな表情じゃなくてね。ちょっとだけつまらなそうにしてみて。はい、そうよもう一枚。こころになかでね、そうねえ、テレビドラマ、あっ、みなしごハッチとか、うーんオーバーすぎるか、あのさあ美代ちゃんムーミン見てるでしょ、先週の見た。うん小鳥が死んじゃうやつ。じゃあね、最後にムーミンが崖から海に向かって嘆く場面、あれを思い出してみて」
伏せ目にした顔、額から両頬のあたりにかけてゆるかやにウェーブがかけられた髪は、奇妙な違和感から徐々に解消されようとしている。この場合の違和と云うのはあくまでおさな顔が一様に形容しがたい色香を漂わせているためであって、ドライヤーと豚毛ブラシでにわか拵えした、毛先にかけてそよいでいる趣きが際立つにつれてあべこべに、少女では充たされない妙齢への期待は先手を打って美代を未来へと送り届ける。
意識するまでもなく、ゆっくりとちょうどもの思いからふと我に返った素振りがなに気に悩ましい横顔となって心情を身にまとったふうに映ったりする。
「これで服装が整ってれば最高なんだけど、わたしの服どうやっても大き過ぎるから」
と、落胆しかけた声をもらしかけたのだけれど、ふと壁のすみにひっそりとかけられていたベージュ色のレインコートに目をやり、さっとハンガーからはずしながら、
「これでも羽織っていればいいわ。小さなからだもうまく隠してくれるし」
こうして有理の工夫によっていよいよ写真の撮影がはじまったのであった。
部屋の照明はやはり灯らないままカメラをぎこちなさそうに扱う格好であったけれど、気のせいか時折窓の外でほのかに暖かな風が運ばれているみたいに感じたのは、雲の間から少しだけ光線が送られて来たせいだろうか。
レンズ越しとは云え、そのすぐ内側には無防備な視線が、、、写真に集中していることでこちらに応対する義務が緩和されてしまった分だけ、有理の思慮は別のかたちで美代をこわばらせてしまった。普段とは違う何かが研ぎすまされて、それは夜中に刃物を研ぐと云った陰惨なうちにも清冽な視線が込められいるおごそかな様相で、いつかの大晦日に覚えた粛然とした寒気に触れたときを思い出させる。
いつになく静まりかえった辺りの雰囲気は引き潮にさらわれる自然の出来事として感じられて、今よりおさない胸のうちにはほこりが清潔に舞うよう、ことばとならない怖れや関心が軽やかにひろがった。潮が遠のいた彼方からはうかがい知れない存在が、しかしじっと自分たちの方へと見つめることも可能なちからを秘めている気配が濃密な意志でもあるかのように漂い、また兄から聞かされていた妖怪や幽霊の話しなどもその延長にあると云うふうにも信じていたのは、ひとえに世のなかの仕掛けになどまったく関知することなく、おぼろげな気分で日々の過ぎゆきに身をゆだねている年齢でいられたから。
ことばがあらゆる物事を定義しはじめる輪郭線を描くすべを知らない、さながら真綿にくるまれた心身で意識の明滅をつかさどってやわらかにしか手応えを受けとめれない、感性の芽であった。
それが幼稚園から学校にあがるころにもなれば、まずことばが最優先となり算数の暗記など筆頭に否が応でも教育の束縛から逃れるわけにはいかなくなる。まだ自己を明瞭に持つことを自覚し得ないから、乾燥した砂に水が浸透するよう原理的には抵抗を示さないわけだけれど、美代にとって学校とは授業を拝受するだけなどと到底思ってもなく、かと云って勉強をなおざりにしておく悪意をうちに宿しているのでもない、ただ自分とは性格も育ちも様々に異なる級友や、背丈が見上げるほどまで成育している上級生のなかに入り混じっている事実だけが、これからの未来への架け橋となっていて、それがどう云った意味あいで結ばれているのかは判然としないものの、入学式の際に肌で知った悲哀などとはまだ覚束ないけれど、何かしら観念し尽くした気持ちが嫌でも伝わるまわりの緊張にかかわらず穏やかに静まる具合で、集団儀式を絶対的に見てしまったようにこれからの毎日を受けいれる準備となり出発となっているのだった。
ところがこうして身内でもない年上の同性とふたりしての、かつて試しない遊戯から逸脱しかける不穏さを認めつつ陶酔に近いくすぐったくなりそうなこころよさへと介在する予期されない視線は、必要以上に自分の思惑を凍結させてしまう作用があり、それは有理本人も見通せない胸裏にたかまる熱意がこうやってひとすじの目で被写体と向かいあっていることで、実は冷ややかな理知が形成されようとしている緊迫が美代のうえへ覆ってくる。興味本位ながら指先と面が触れ合っていた今までの親しみと敬いが、レンズを介して一方通行と化して自分の方に、もちろん濾過された純朴さとは別様の乾いた風みたいに吹きつける。
そんな置いてけぼりをくってしまったようなこころもとなさは、相手に対して同様の空白を作り出そうとしてしまう。美代は有理がぬけがらとなっていまここに居ないのではないかと悲しくなった。
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