まんだら第二篇〜月と少年43


「彼女は確かわたしの夢は見れないはずと言ったはずだが、、、それにしても夜の川ってこんなにも不気味なところなんだな」
磯野孝博はひとつの決意を抱いてここまで、息子に意見されるまま素直にしたがい、それはあたかも巡礼でもあるごとくに恐る恐る、けれども考える余地などないに等しい夢の傾斜に乗って、突然降ってわいた事件のようにこの場所を選択した。もやは孝博の頭脳は理科室などにそえられるている頭蓋骨の標本くらい生硬な魂を宿していた。呪詛でぬりこまれた単一でしかも胆の定置も明瞭になった、身の軽さはまさに砂塵吹きすさぶ地にさらされ渇ききった髑髏である。あるいは無傷の化石のように生きたまま時間を喪失した生命体であった。それ故に留意すべき点は一途にしぼられる。
さきほどまでの湯船のぬくもりや、夏の川遊びの心地よさをここでは捨てさること、あの癒されるような魔手に気を許しては、せっかく身軽な魂で飛びこんだ決意がふやけてしまう。
「涙にも血にも救いを求めてはいけない、骨だけで十分さ」
そのあとに続く文句を孝博は先手をもって、箇条書きを読み上げる心意気で声に出してみるのだった。
「これはおれの夢の現実である。木下さんが先回りしていることも、それを伝達する晃一の言葉には応じたつもりだが、そのあとの展開はあくまで自分の意志と傾斜を信頼しなければならない。仮面を当てはめてみるまでのこと」

この川の流れは手を延ばせば届きそうなくらいの近さで港へと運ばれている。聞くところによれば、過失によって川底に転落し溺れかけ九死に一生を得た。ひとは死に直面した記憶を決して忘れはしない。そこでの時間は永久凍結され、普段のこころの動きをつかさどる範疇から慎重に隠蔽を得た鎮魂によって日々の時間へ障りないよう祈願される。
あくまで現実の日常において、、、日のあたる陽気で物おじしない清々しい時間において。それは夢見が当人でなくとも、何らかの関わりを持つ限り封じられた忌諱には変わりなく、つまりはこの夢世界においても邪心は純粋に保持されている。邪心と云う呼称が適当でないなら、怨念でも憎悪でもいい、だから成仏などと思い上がった了見で対すれば、青白き相貌であることに気がつきながらも、細心の用心を怠った結果として、間違いなくすでにひとつの魂魄だけでさまよっている吸血鬼に首筋を食いちぎられてしまうと云ったおぞましい惨劇を招くであろう。気骨とは戦慄と共存するための手段なのだ。そして呪詛とは相手を懲伏することではなく、己を愛する逆説的な防衛であるから。
孝博は富江の恐怖を想像した。黒々とした水流にのみ込まれる焦燥から逃れようとすればするほど、目にもこころにも見えない川底にうごめく夜の番人を呼び寄せてしまい、一層深みへと引き込まれていく本能を直撃する不安を増幅させる。おそらく過剰に反応する手足なども含め、満身創痍でこころの闇もさることながら疲弊しきったからだからは体温が奪われ、意識低下するとともに恐怖心も緩和されていったかも知れないけれど、それは当日催された打ち上げ花火が、まるであの世の夜空で華ひらく死への点火へと幻惑されることで、まさに燈明が漆黒に灯されることとなる。
その夜、月あかりは本来のひかえめな役割から免責されながらも、きっと不運に見舞われた哀しみを嘆いていただろうが、天空を彩る火花の炸裂のあいまあいまに、優しいまなざしを投げかけたことにより却って、静寂と火焔の攻防にも似た情景を醸し出し、戦渦における極度の緊張へと身もこころもさらわれてゆくのであろう。
「木下さん、貴女は地獄を、そっくりそのままそのすがたに宿し、ここに現われるはずだ。どうしようもなく悲劇的で、現実的な仮面の装着を余儀なくされて、、、」

浴衣姿をさらった夜の流れの向うがいまにも透けて現われそうな、霊魂を呼び寄せる忌まわし気な心性が孝博を支配した。そのときであった。背後から突然男の声が、とても落ちつきはらい、そしてすべてを見守っているとでもいった低めの響きとなって耳へと伝えられた。
「ここで何をしているのですか。わたしと同様に研究にいらしたのでしょうか」
振り向き様にその男の面をまじまじとうかがう寸暇を放擲するように、孝博はすかさず反対に質問を投げかける。
「あなたはどなたなのです。ここはわたしの夢なのですよ」
きっぱりと、押し売りを拒否するときに似た語気をもって、一声を放ったのち、不快な印象はそのまま留め置きながらも、ここに至るまでの道程をつまびらかにしてみたい欲求が突き上げてくるのを禁じ得なかった。
すると夜目にも同年輩と映る相手の返答が、すぐさまにも判明してしまう、それは直感と云うよりも毅然とした証しのような確信でのみ込めてしまうのであった。案の定、男は、
「わけはお聞きしません。確かにあなたの夢だ。そして、自分は自分の意思でここにたどりついたまでのことなのです」
「誰なんですか、あなたは」
「エンドウというものです。超常現象を趣味で研究しています」
孝博は狐につままれたような顔をしたままもの言えず、富江の出現を待つことさえ忘れてかけてしまうのだった。