まんだら第二篇〜月と少年40


孝博は素直に従った。富江の言葉にではない、夢の言葉に対してである。
過失と裏切りと用いながらも、信頼と治癒をつかさどる、己の王国、あるいは過剰なる鬼門。
紋切り型を地でゆく鍵の象徴など、孝博は文献のなかだけで考察するべき対象であり、さながら家族だんらんのクリスマスみたいな宙に浮いた気安さと、時間の連鎖からくる重圧に縛られる気まずさは、ただ双方で反撥しあっている加減だと辟易していたから。
だがここで孝博が居残りをきめこんだわけはもっと別のところにあった。それは富江の夢を拝見してみようと願う小さな戯れであり、体温をもたない晃一の手が語る思惑が己の意識分配のなせる業であることを了解するように、富江の仮面をその、のっぺらぼうとやらの顔面に当てはめてみることで慰めに近い異相へ歩をすすめてみようと試みたのである。
決して類型や形式や画一性が醸し出す、洗練を目論みる挫折精神を蔑んでいるわけでななく、むしろ頓挫しかける危惧を予測し、均一へと圧縮をかけるがごとく精進する姿勢は、金の延べ棒を作り出す単一でありながら価値感も維持し続ける、継続の美学が日常へと降り注ぐ陽のひかりと化しそれ相応の充足をうながすからであった。貨幣は通俗でなければ流通しない。これは重要な理に違いない。

高みの見物にも似た安逸さは、夢の舞台を随分と居心地のよい環境へ転化させる。
孝博が手渡した木製の鍵にようなものは案の定、富江の看護士を彷彿させる手つきによってふたたびベッドのうえの晃一に還元された。注射針を打つ手先を彷彿させる鮮やかの真っ白な眼帯に小枝は突立てられると、その時点で孝博は再度、夢見の冒頭に巻き戻され「だんだんとのびてくるんだ」という悲痛をにじませた小声に回帰されることで、晃一が全身から発している憐れみが倍加し、それとともに孝博の霞がかった意識は意図的な回廊を構築させようと企てるのだった。
夢の途上の覚醒も又しかり、それは泥酔きわの人間が、ときおり平常心で時間を顧みるように、間近の様子をうかがうと云った、健康的な生理現象であった。
孝博は苦笑を顔面にも懐にも隠しきれない、こぼれだしてしまう展開を思い浮かべながら、富江と晃一とが演じる喜劇を鑑賞することに専念した。予想から逸脱してくれることにわずかな期待を抱くことで、桎梏からの微少な逃亡が許されるのなら、夢はか細い切り傷によって、大きく震えることだろう。
「富江さん、さあ、拝見しよう。その目に痛ましく突き立てた鍵とやらはどんな効果を、わたしの夢全体にもたらしてくれるのだ」
「父さん、見て下さい」唐突な息子の反応は父を見事に裏切ることで、合格点を獲得する信頼を勝ち得えた。半身をもたげた晃一は、何と先刻自身で抵抗をあらわにした行動を速やかに実行したのである。
死人を死人たらしめていた刺は、誰よりも容易にあたかもくじ引きするような賭けの、あるいは模擬演習における緊迫感の低下のもと、晃一から離れ去った。
孝博は形状によって構成される、物語の神髄を予察し予定調和に納まりゆく、美学を再評価するこころづづもりであったのだ。何故ならば、夢の夢とは覚醒と分ちがたい真理で、もの言わぬ仏像のように静かな尊厳をこの世に蔓延させているからである。ウィルスのように目には見えないけれども、抹香の雲煙でもって地上から天上へと、風船のごとくそれは運ばれていく。
さて孝博は実証を得たのであろうか、、、彼の夢想は平板な修羅を思い描いており、返り血が噴出する様が舞台装置でもって誇張される場面へと開示されるはずであった。息子の右目からはとめどもない流血があふれ出し、辺りは塗りこめられた赤光の反射に染まりゆくのであり、それでも崩れ落ちない我が子の偉容をしっかと抱きしめながら、夢見の主人公たる己にようやく様式美で統一化した落涙を容認する。
そうして涙目で霞んでしまう富江のすがたに向かって、曇り空を見遣る目線のまま佇み、涙は夢の皮膜を浸透し持ち越されるのであった。
ところが夢の現実はたゆまない創造精神は、ものの見事に咲乱れる花園の芳香で孝博を裏切ったのである。取り除かれた眼帯は清廉な白さのまま、ただ一点が、それは針を突き刺してみたあとで赤い水玉のように浮き上がってくるほんのわずかな赤味を、その中央に克明に色づかせつつあった。しかも、どくどくと脈打つ血液を想起させない、かと云って白地に赤くの国旗みたいな、あまりに明徴なしるしではなく、苦笑いをもって例えられるのは、あの弁当、白米の中心に鎮座する日の丸弁当に他ならない。それくらいに出血は微量であった。