まんだら第二篇〜月と少年30 「お手紙拝読させていただきました。返事が随分と遅れてしまったことお詫びします。もっとも返信無用とも思える文面でしたが、このように日にちを経てしまった理由はこれから申し上げる次第です。 貴女にはあたまがさがります。何よりも最初にこう言わなければいけない、、、自分の感情と信念をよく開陳してくれましたね。ありがとう、、、いや、感謝より謝罪しなければ、、、どうにも気ばかりが先行して思うように筆がはこびません。冷静なのは私などより木下さんのほうです。 あの写真が送られてきたとき、、、まるで完成間近の建物の設計図をあらためて見直す心境になったのは、申すまでもなく、貴女がおっしゃられた予期すべきものが待機していることを実感してしまったからなのです。 貴女と乗り合わせた列車内で、息子のことをかいつまんでお話したときから、わたしは一種の憑依現象にとらわれてしまっていた。他でもありません、晃一の生霊ともいえます。それはこういう意味でもあります。親ばかに聞こえるかも知れませんが、あの子の性格はわたしに非常に似ているし、実際思春期のわたし自身あのように偏狭な信念を十分に宿していたからです。息子との違いは時代もあると云えばあるのでしょう、反骨精神みたいなものは外部へと沸騰するまえに、鎮静してしまう作用を世間や社会は憎らしいくらいに機能させていたのです。臆病な精神を生成する空気と云ったものがわたしの環境を取り巻いていました。 ですから、偏狭さや自己愛などは、当然表にあらわにすることがかなわず、ひたすら内奥へと沈滞してゆくしか方法論が見当たらないわけで、そうなると意固地になって非常に微細なものをほじくってみたくなる。わたしの場合は語学や宗教学にのめりこめたお陰でそれが生業となって結実したまでのことです。 ところが晃一の世代では、思考と行動をさまたげている障害が以外と見つからなかった、父親であるわたしからして抑止力などなく、逆に自分が果たせなかった、もっともっと自由であるべきだったすがたを彼の裡に投影してしまったのでしょう。やりたいことを若いときにやってみる、その単純でいながら果たせない衝動を晃一はまるでその後の人生を棒にふってでも噴出させようとした。 今、単純と云う言葉を使いましたが、いえ、構造自体はそう簡単な造形ではありません。それが如実に窺えるのは、あの子の屈折した禁欲主義となって鎧のごとく身を緊縛する精神でした。 なぜそんなことをと思われるでしょうが、晃一がわたしの書斎から抜きだしては熱心に熟読した文献、それはフロイトから始まり、その亜流や現存在分析派はもとより、禅宗の研究や密教関連などをつぶさに学んでいた形跡があるからなのです。 高校の夏休み、読書感想文でマルキ・ド・サドと三島由紀夫を論じてみたりし、家内は担任の教師から『研究はおおいにかまわないが、異常性欲と徹底禁欲ならびに自己愛などと云う課題は高校生にはふさわしくない』などと苦言をいただく始末、わたしにはまさに性的なものが開花したときにこそ、自分のあたまも共振させるべきだと思うのでしたが、いざ、息子と向きあうと奨励は愚か、勝手に書物を持ち出してはならないなどと、なぜか口先は反対の意見を滑らしてしまうのでした。 もうおわかりでしょう、晃一は性を飼いならそうと試みていたのです。まるで犬や猫を飼育して順応させるように。 わたしは彼の実験精神を高く評価したつもりでした、心情的には共感さえおぼえてしまう。しかし、事情は成り行きを相当複雑のものに作り替えてしまった、、、一年前の夏、貴女に秘め事を強要してからというもの、わたしのなかではあのまちは貴女の棲むまち、通学のため名古屋で生活していようが、貴女の帰るまち、、、晃一が切望している場所と云うよりも、とにかく木下さんが存在する場所なのでした。 確率と言われているように、あの日以来、晃一はあのまちで必ずや貴女と遭遇することになるだろう、そのさきの肉体関係まで想像をめぐらせたかどうか、、、これは確率ではない、必然の悲劇の幕開けなのです。 一人息子にまつわる、そんな不穏な舞台装置、、、いえ、違います、わたしの指先が貴女の秘所をまさぐったときから、わたしは、晃一のすがたを借りて東京から飛び立ったのでした。心理学用語でいうところのまさに投影です。自由を取り戻すために、、、肉欲を再現するために、、、E.A.ポオの『Never More』を否定するために、、、それらすべてを欲するがゆえに」 |
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