まんだら 第一篇〜記憶の町へ23


「じっとわたしの顔見つめてたからどうしたんだろうって、誰かと勘違いしているんじゃないかなとか、よく似たひとと思って見ているのか、ふふ、それからひょっとしたらわたしのことが気になっているのかなって」
「たしかに気になってました、さっきも話したけど僕の生徒らと同世代のようだし、それとさっき木下さんが言った女生徒とも飲みに行くことあるのかって質問、実はまだ一度もないんですね。男女おりまぜてや女性複数とは何度か機会はあったけど」
名古屋駅を発ってから小一時間もしないうちに磯野孝博は木下富江と云う十九歳の女性と席を隣り合わせにした為に、いつしか話題にも途絶えることなく談笑を交えながら列車に揺られていった、その様は傍から見れば年齢差のある連れ合いにも映ったことだろう。
さて事後を端緒にかえすと、不審な目つきをただされた孝博が直後に示したアクションは、彼女が手にしたままの文庫本へと留意をうながそうと努め、いち早く表紙に記されたジッドの「狭き門」を見てとるや、「あなたのような若いひとでもこんな古典を読んだりするのですね、感心なことです、この作品の精錬な気高い祈りにはこころ洗われるでしょう」そう深い共感を静かにもらしたあと、相手の反応を待つまでもなく「僕はこういう者です」と座席から姿勢をのばし律儀ながらも鷹揚な態度で名刺を差しだしたのである。
それは予察された。威厳と云う形式は敗北を知らないもの、そして様式は繰り返されることによって増々技巧にみがきがかかる。富江は手渡された一枚のうえにある東京の大学教授の肩書きにまず目を奪われて、それから首をあげて当の孝博と視線を交じらすのが億劫とでも言いたげな所在で、しかもそれは適当な返答させ思い浮かばない沈める花びらのように沈黙を守る圧迫ともなりかけた。
ややあって富江は萎縮しかけ当惑が先行した心持ちのままに、自分でも不甲斐ないと意識しつつ必要以上の手応えをその大学教授に対してこう伝えるのだった。
「東京の大学ですね、ここの外語大知ってます」それだけをいかにもこみ上げてくる勢いで言ってみたのだったが、そのあとに連なる言葉は見つからなかった。
そうすると孝博は相手の逡巡を見通すかの手際で、あとは長いものに巻かれろ式のこころの綾のうつろいを富江のなかに植えつけてあげればよかった。
「いやあ、よくうちの学校なんかご存知ですね、光栄です。教授っていっても臨時講師みたいなもので、最近、韓国語や中国語を専攻する学生が増えてきて、本来の研究分野は比較宗教学なんですけど、そっちにはまだまだ大先輩らが活躍してましてね、あっ、ついつい余計な話しを、、、それはそうとあなたが読んでいるそのジッドですけど、解説のところまで頁がめくられてくるところをみるともう読了されたんですか」
「はい、でもこの本はこれで二回目なんです、高校の頃に読んでさっき言われたように気高さみたなものにあこがれましたが、今度は少し違った感想が残りました」
孝博はゆっくりとまぶたをおろす仕草を見せてからさっと開眼し、探究者が独り書斎で内面と対峙したときに現れる閃光をもって富江の瞳の奥をのぞきこんだ、しかしそこには鋭い眼光と呼ばれる刺はなく、あくまで澄みきった水晶のようなひかりが放たれているばかり。
「そうですか、それは興味がつきないところです、ヒロインのたしかアリサでしたか、彼女に対する感想ですか」
「ええそうなんです、最初は無垢なたましいが天上に召されていく荘厳な美しさに感動したんですけど、今読むとどうもしらけてしまうだけで、なんの為にジェロームの求愛を断ち切ったのかが、よくわからない、いえ、わかりかけてきたことがあるんです」
「それは?」孝博はいつもの教壇からの質問をなぞっている自分にあらたな興奮を覚えた。
「それは結局、アリサの厭世感から来ているんじゃないかって、時代背景もあるのでしょうけど、親族のしがらみなどが全部うとましかったように思うんです、だから神様への帰依だけにすがりつきたかった、それは世俗を見捨てた傲慢さでもあるのじゃないかしら」
孝博の誘導にそって思いがけずそんな所見を述べてみると、富江は気恥ずかしさと一緒になって胸の底から吹き抜けてくる達成感のようなものを自覚した。それはこころの綾があらたな紋様をつむぎだそうと背伸びをして、実際にも少しだけ背丈が高くなった歓びであった。