ドクター高橋のアフリカ日記 3月29日 土曜日 Kuala Lumpur(クアラルンプール)国際空港
3番搭乗窓口前 名古屋国際空港AM10:40発のマレーシア航空57便は修理の部品の到着が遅れ、PM2:30発となった。「まあ、こんなものだろう。」と思った。空港内で使える昼食券1500円分をもらったから許してやろう。昼食前にビザ用の証明写真を撮りに行くことにした。国際空港内をうろうろ歩いて、カウンターへ。「国際線の中にはありません。国内線の中には機械がありますが。」と言われたので、国内線の空港まで歩いていくことになった。それにしても、制服警官が多い。ダークグリーンの制服はガードマンか、はたまた自衛官か。いつもこうなのか、アメリカとイギリスが戦争をおっぱじめたせいなのか。 15分間、荷物を背負って歩いた。登山用のバックパックにはTシャツ3枚、トランクス2枚、靴下2足、タオル2枚、うすい寝袋、蚊取り線香、ライター、歯ブラシ、常備薬、サンダル、双眼鏡。それから、400US$とトラベラーズチェック(T/C)100US$を4枚。(1US$=約120円、800US$=約10万円)パスポートは首からぶら下げた袋に入っている。少し汗をかいて国内線の空港に入ると、通路が狭くて、客が並ぶ列ができていて、駅の売店のような土産物屋が多くて、ごった返していた。そして、警官は同じぐらいいた。 機内食が運ばれてきた。チキンか、他の何か選んでくれ、と言われ、チキンを選んだ。飲み物はいかがですか、みたいなことを言われ、手で拒否した。食後、コーヒーにするか紅茶にするか聞かれ、「コーヒー。」と言ったらなんとかコーヒーが出てきた。受け取った後で、ありがとう、の言葉が出てこなかった。 クアラルンプール空港にPM8:15(現地)着。飛行時間は約7時間、時計の針を1時間戻した。飛行機を降りたとき、まず何か香辛料の臭いがした。4年前、兄貴と韓国に行ったときも、キムチの臭いがしたものだ。この国の食べ物の匂いがするのかなと思った。日本に初めて降りた外国人はどんな臭いを感じるのだろうか。 3月30日 日曜日 午前10時にはケープタウンに到着。そういえば、ヨハネスブルグでもケープタウンでも、飛行機から降りたとき独特の臭いがしなかった。朝早く着いたため食べ物屋が開いていなかったからなのかわからない。ケープタウン空港で入国。難癖つけられないかと心配だった。係の男が「returnなんとか」と言ってきたので、帰りの航空チケットを提示すると納得してくれた。「ここから戦いが始まります。」馬場の合図。トイレで清掃係の黒人のじいさんが、わざわざ手を拭く紙を取ってくれた。受け取らなかった。財布に50$。ジーパンのポケットに50$。靴の中敷きの下に、左に70$、右にVISAカード。首から下げている袋の中にパスポート、100$、T/Cの発行証明書。残りはバックパックの中へ。周りを見ながらすばやく。空港の両替所で馬場が50$T/Cを南アフリカRand(ランド)に替えた。1年前のガイドブックで1US$=9.76Rだったのが、1US$=7.6Rになっていた。空港の出口ではたくさんの男達が僕らを待っていた。「タクシー屋ですね、でも僕らはバスで行きましょう。乗合だけどそっちの方が安い。」馬場が乗合のシャトルバス屋と交渉しようとした。「運転手はいるのか」とか「僕らは2人だけどあと4人ぐらい他の人が来たらもっと安くなるのか」とかを何とか英語で話していた。ケープタウン市中心部まで2人で150R。年を取った夫婦と、若いカップルが乗ってきた。 市街地をめざし空港から西へ。正面のTable
Mountainが絶景だ。平たい塊が視野いっぱいに広がっていて、どうして頭がこんなに平らなんだろうと思った。横に走る線が重なって地層ができていてかつ切り立った断崖だ。長年にわたって砂が堆積した海岸が、何かの拍子に隆起して、雨や風で侵食されてできた地形なんだろう。それにしても1000m以上も隆起したということなのか。頂上の平らなところぎりぎりに雲がかかっていて、空と地上との微妙なバランスが保たれているようだった。 ケープタウン駅まで早歩きで10分の安宿、Overseas
Visitors Clubまでバスは送ってくれた。6人一部屋のドミトリーにベッドを2つとった。1人65Rが学割で60R。「900円。ガイドブックより高いですね。」馬場はそういった。これで荷物を置いて街を歩ける。ケープタウン市の中心部は日本の外務省が「注意して歩いて下さい」とおふれを出している、ちょっと危険な街らしい。アスファルトの道には踏みつけられたたばこの吸い殻が無数に散らばっていて、紙屑や葉っぱなんかも散らかっていた。店のショーウィンドウの手前には鉄格子や金属の柵がかけてあり、ガラスを割っただけでは中のものが取れないようになっている。日本にはないものだ。駅近くまですれ違ったのは数人。女と子供は一人もいなかった。土日に人通りが減るらしいとガイドブックには書いてあったが。僕ら2人はやっとインフォーメーションセンターにかけこんだ。赤い帽子をかぶった黒人の男は「今日は日曜だから銀行は開いていない。両替は観光客が集まるWater
Front(ウォーターフロント)がいいよ。」とおしえてくれ、タクシーまで呼んでくれた。今日の午後はかのネルソン・マンデラが収容されていたという世界遺産Robben
Island (ロベン島)へ行くつもりだったので好都合だ。タクシー2人で30R。両替。船が3時発のツアーチケットが取れたので、野外レストランで飯にした。ラムとジャガイモなどの野菜のグリル、それから南アフリカ産のワイン。ラムは今まで食べたことのないぐらい絶品だった。2人で200Rは高くない。野外レストランはここの他にも、2階にもあったり、シーフード店だったり、イタリア料理だったり、中華料理だったり。時計台があって、こじんまりとしたショッピングセンターもあった。広場では道化師が炎の輪をくぐりぬけていた。家族づれや老夫婦。風が冷たくない。夏を過ぎたばかりなのに歩いていて汗をかくことがない。昨日のテーブルマウンテンの裏側が見える。空と海と泊まっている船と桟橋と。白人どもがこの土地を我が物にしようとしたのが、なんとなく分かった気がした。 ロベン島へは酔った2人を含む50人が船に乗り込み約30分。馬場が2回トイレへ行った。刑務所あとのガイドはかつてそこに政治犯として入れられていた、黒人の男だった。大部屋は2段ベッドが20個以上置いてあり、コンクリート造り、学校の教室2個分の大きさ。そこで毎日ディスカッションを繰り広げた、というよりそれしかすることがなかった。ネルソン・マンデラぐらいになると、独房に入れられていた。18年間、たたみ3畳トイレ付きの生活。中庭のテニスコートにはマンデラの等身大ぐらいの写真が飾られていた。そこでマンデラとツーショットで写真を撮る僕と同じぐらいの年の、黒人女性2人。彼女らにとってマンデラは英雄なんだろう。アパルトヘイト撤廃開始が1989年。彼女らは人生の半分を、隔離されて過ごした。バスでロベン島を一周。野ウサギ、飛べない鳥の群れ、鹿に似た生き物など。野生動物も住んでいた。 以下、近日公開。
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