林性寺でお話しした主な内容


 戦国時代の三河の武将・仁木義長は三河国の守護をして、また海を渡って伊勢国の守護をしていました。その5代末裔(まつえい)の利長がこの地に住みあの山に城を構えました。せやで、あそこを城山と呼んでいます。時間がないので行きませんが途中に空堀と頂上にはわずかに土塁(どるい)の跡が残っています。山城に土塁は作らないものですが、この形は伊賀型と言われより用心深さが感じられます。
 で、その利長は仁木の名をこの地名を取って榊原としました。これが榊原姓の発祥といわれ全国の榊原さんのふるさとになっています。
 何のために出来た城かというと、南北朝時代ここは南朝の北限で隣の美里は北朝、榊原は南朝の北畠に属し、北朝の見張り役だったのでしょう。
 ここで名乗りを上げた榊原氏から、仁木のふるさと三河へ渡り松平を頼りました。三河榊原の初代は清長(きよなが)とされていますので、清長が三河に渡ったのでしょう。清長の子が長政でその子が康政、あの徳川四天王の榊原康政です。康政は多くの手柄を立て譜代大名として上州館林(たてばやし)に入封(にゅうふう=就任)しました。それから代々榊原氏は姫路城、越後高田城と明治に至るまで続きました。石高は15万石。

 地元に残った榊原氏は北畠没落後は浪人になったようです。
そうそう、城山から話が脱線しました。ごめんなさい。
 地元の榊原藤三郎が亡くなったとき占いで「戌亥(いぬい)の方角20間のところに葬りなさい」と、この場所に葬られたのです。戒名が林性浄智居士だったことから頭の2文字を採って林性寺というお寺をこの場所に建てました。
 説明が長くなりましたが、お堂の中にはお位牌がありますし、墓地には藤三郎と思われる墓石もありますのでご覧になってください。