佐渡ヶ島

はじめての佐渡へ。そして、2009.5.29 二ツ岩団三郎に逢いに、やって来ました、相川町下戸山中へ。
佐渡の団三郎といえば、たぬき業界では、屋島の太三郎、淡路の芝右衛門と並び、日本三大狸に数えられるメジャー狸。

佐渡狸の大親分、相川町の紅葉山近くの岩穴に住み、島中の100匹の子分を支配していた。子分のうちの四天王に、「関の寒戸(さぶと)」「禅達(ぜんたつ)」「才喜坊(さいきぼう)」「おもやの源助(げんすけ)」らが。
人間を騙すことがうまく、よく島の人を騙していたが、島人たちは 団三郎狸のことを愛していたらしい。昔の相川では「いうこときかんと 団三郎狸がさらっていくっちょ」と、子供たちに。

それは、現在も変わらず、団三郎が住んでいたという岩穴のそばの「二ツ岩神社」では、毎月12日(4月12日には大祭りが)に縁日が行われ、善男善女が供物をもって各地から集まり、いろいろ祈願をとなえている。

というわけで、土地の管理人である 野村タツさんの案内で、車一台通れる小道を山中へ。小道入り口には、「二ツ岩大明神」の標識がありました。

さてさて、到着。赤い鳥居に「二ツ岩大明神」と。
参道には、「商売繁盛」「病気平穏」などと書かれた無数の鳥居が延々と続きます。祈願が成就するとその御礼に鳥居を奉納する習わしがあるためです。

鳥居のトンネルを抜けると、お籠りをする小屋があり、その先に大明神の堂があります。
岩がむき出しになった、少し異様な祠。祠は、四天王の一匹で、妻ともいわれる「寒戸」へ
と通じているようです。

さてさて、佐渡で解明できたことは、佐渡では「狸」のことを「貉(むじな)」とよんでいるということ。

貉は、本来はアナグマの異称。佐渡のは、アナグマは生息しないということ。
「両津郷土博物館」での、たぬき剥製の解説文です。

そして、佐渡博物館にて。
江戸時代、金銀の精錬に用いられた鞴(ふいご・火をおこすための送風機)に狸(佐渡ではムジナ)の皮が使われるようになったことは、知られていますが、その鞴が!

本州からムジナを移入し繁殖させ、やがて野生化、そんな中で ムジナ信仰が広まったようです。

こちらは、平成16年 羽茂本郷で捕獲された 色がわりのタヌキです。

佐渡紀行については、詳しくはこちらへ。

資料〜 富田狸通 著「たぬきざんまい」より 佐渡むじな大番付表を。また、佐渡団三についての考察を。

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中国、四国、九州では狸というが関東、東北、北陸では狢といい、また佐渡では団三(だんざ)ともいう。

 佐渡には 昔からニッ岩の団三郎(弾三郎ともいう)という有名な狸がいて、この団三郎は 佐渡の金山を根城に棲んで金に困った人は団三郎の神に頭を下げて祈願すると無利子で金の工面をしてくれた 貸元の大親分狸だったという。

無論約束は堅く、根が義理堅い狸のことで人間がかけ引きをするように、うっかり返済の日時を違えると、これはまた不思議な制裁があった。それでも追々人間が不義理をするのでとうとう金貸をやめてしまったのである。

 狸はよく木の葉を金に見せて人間を化かすというが 団三郎の貸していた金は 真正真銘の通用金で、それも不正不良のものでなく、昔から兵火にかかったり、或は天変によって埋れたものを拾い集めて貧しきものを助けていたというのである。

この伝説によると団三郎という名の狸は伊予の喜左衛門、讃岐の禿、阿波の金長らと共に大きな縄張りを持った狸だと思っていたらその化け狸の種子明かしの話を知ったのでここにその実録伝を御紹介する。

 

 それは私の学友で新潟県の師尾源蔵君(昨年物故)から手紙で紹介された佐渡の羽茂高校の教官である酒井進宥氏から聞いた話がこうである。

越後の小田茂平治という人の古い手記によると、明歴主年(約三〇〇年前)佐渡の奉行の御手洗四郎兵衛の時、金鉱の吹き分けに使用するフィゴの押皮にする狸が佐渡ケ島では思うように入手出来なかった。
そこで越後の国の団三郎という商売人か
ら狸の仔を買い入れて、それを佐渡で飼育繁殖して狸の皮を充したので金鉱吹分け作業の能率ほ大いに上がったのである。

狸の皮の御狸益を蒙った島民は 狸の詞を作って狸を氏神さんのように杷った。

また、のちに団三郎も佐渡に渡って大々的紅狸養業をひろめたので佐渡の狸は追々に増加し、団三郎は一躍、狸の大親分として島民の尊敬をうけるようになった。

フィゴの風を送る押皮ほ狸の皮に限られたもので、狸の毛皮は軟からず硬からず平均して風を送ることができるので刀鍛冶は殊にこれを吟味し、同じ狸でも佐渡ムジナと言って佐渡直のものが一番上質で珍重されたのである。

 

 元来佐渡ケ島には狸が少なかったことは、これでわかるのであるが、こうして金鉱鍛冶吹分けの必要によって ふえて来た狸の話を 相川町の石井夏海という人が江戸に出てこの理事情を馬琴に伝え、また江戸から 成尾庵という閑人がわざわざ島を探ねて 金山の繁盛振りを調査して帰り、あわせて狸繁殖記の有ること、無いことをおもしろ、おかしく八畳敷に広げたので、退屈していた馬琴は、これこそ特種子とばかりに、その軽妙な筆致が一度に溢れて ものされたのが有名な「燕石雑誌」となったのである。

 カチカチ山は 佐渡ケ島にあって土舟で沈んだ泥衛門狸は団三郎狸の先祖であるなどとの他愛ない伝説が生まれたのも、この頃のことである。

そしてこんなこと、あんなことがこんがりあって果ては狸養家の人間団三郎がウマク化け切って、佐渡狸の縄張りをうけもつ団三郎狸即ち「団三(だんざ)」で通用する大狸となったのである。

 

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