戻る戦前日本の対中国政策の検証(2)
3. 北伐、満州事変、満州国建国 北伐は満州の日本軍(関東軍)を動揺させた。
前述のように当時満州地区は張作霖が支配していた。
その張を討つのが北伐の最大の目的だから、日本との衝突は予想できた。
張作霖は北京で蒋介石の北伐軍と対峙したが、満足に戦わずに奉天に戻ろうとした。張が奉天に到着する寸前、彼の乗った列車が爆破され、彼は死亡した(1928年)。
これを奉天事件=張作霖爆殺事件という。
爆破の犯人は関東軍の河本大佐であったが、日本政府は軍の圧力や政治家の思惑などに負けて真相を発表せず「満州某大事件」と誤魔化した。河本への処分は「管理責任不備」ということで予備役にまわされた。これは極めて軽い処分で、その後「何をやっても許される」という雰囲気が軍人の間に醸成された。
河本らの狙いは張作霖を排除すればその息子である張学良があとを継ぎ、(関東軍の)言うことを聞くと思ったからである。
しかし張学良は父親が暗殺されたことを聞き激怒、1928年12月蒋介石の軍門に下ったのである(易幟=えきし=青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)。
張学良への評価は二つある。
ひとつは、この時点では張学良は日本との衝突は望んでいなかった(逃げ回っていた)、という評価。
逆に、日本に対する敵対的な行動を取るようになり、南満州鉄道のすぐ横に新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満州鉄道を経営危機に至らしめた、「反日」という評価もある。
山東省に駐留する日本軍は、中国人には恨みの対象だったが、同時に「北伐」に対する防波堤でもあった。
しかし、上述のように、1929年日本軍は山東省から撤退し、この問題は片がついたかに思われた。
なお、これと同時に同年、蒋介石の「中国国民政府」を承認した。
ところがこの1929年アメリカで起こった大恐慌は日本にも波及し、生糸価格は暴落し、農村は疲弊した。日本人の多くはこの日本の苦境から逃れるには満州は「生命線」であると考えるようになり、蒋介石の動きに神経質になった。
1930年「ロンドン軍縮条約」が結ばれた。
これは海軍の補助艦(主力艦以外の巡洋艦、駆逐艦など)の対米・英比を定めたものだったがこれに不満を持つ軍部と一部政党が結託して「統帥権干犯」問題を引き起こした。
経済的困難の中で建艦競争を避けることは日本にとっても有難いことだったが、軍人や政争の具として利用した一部政治家などは反対し、軍人などによるテロ、クーデター未遂事件が続いて起こることになる。
こういう国内事情を背景に、関東軍がまたしても重大な事件、柳条湖事件(1931年)を引き起こした。
張学良の新線敷設に対し危機感を持った関東軍は再三に亘り抗議するが聞き入れられず、石原莞爾(いしわら かんじ)、板垣征四郎の指導のもと、謀略を決意する。
1931年9月18日の夜22時過ぎ、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊される事件があった。駐留していた関東軍はこれを中国側の張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移った。
ちなみに柳条湖は張作霖爆殺事件の現場でもある。
翌1932年初めには日本軍は錦州、ハルピンを占領、同年3月には遂に「満州国建国」に至った。
「満州国」というのは奉天省の北と東、黒竜江省・吉林省の3つの省である。
この間、張学良・蒋介石とも日本軍とは戦わなかった、という説もある。
共産党対策に精一杯で、日本と戦う余裕がなかったらしい。
次の白地図は『自作中国歴史地図集』
http://www.rockfield.net/kanbun/classicmap/
より拝借した。地名の記入や塗りつぶしは筆者による。
地図で見るとわかるが、1905年日本が獲得した場所は奉天―旅順間の鉄道(図の満鉄)とその周辺という限られた地位だった。そしてその地域の守備隊が関東軍だった。
しかし奉天省(図の@)・黒竜江省(A)・吉林省(B)の広大な地域である「満州国」に対し、中国人が反発したり、欧米各国が警戒感を示すのは当然だった。
翌1933年には奉天省の西「熱河特別区域(C)」を非武装(緩衝)地帯とした。
一方、北伐の出発点は広東州の広州だった。(地図、南のほう)
蒋介石軍は北上して、満州(上記の満州国とほぼ同じ地域)へ張作霖討伐に向かうのである。
山東省はその途中にあり、ここで日本軍は蒋介石軍の北上を阻止しようとしたのである。
「満州国」建国には中国は激しく抗議した。
国際連盟は調査団(リットン調査団)を派遣し、実態調査を行った。初め反対していた日本もこれに協力した。
この報告書は次の諸点を勧告した。(エンカルタ2007)
@ 満州事変の発端となった柳条湖事件を正当な軍事行動ではないと断定する
A また、「満州国」建国を民族の自発的な独立運動の結果とはみとめない
B そして満州を自治政府とし、日本をふくむ列強の共同管理下におくこと
Bについては、満州を中国の完全な一部とすることを認めていない。したがって、1905年の「南満州鉄道とその周辺」への「後退」も求めてはいない。
そういう意味で、日本にも一定の「配慮」をしている、といえよう。
しかし、日本はこの提案をみとめず、1933年2月の国際連盟総会で42対1の大差で報告案が可決されると、3月に連盟脱退を通告した。なお、脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日である。