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戦前日本の対中国政策の検証(1)

先に書いた『西尾幹二のインターネット目録』での議論を踏まえ、改めて満州事変・支那事変・大東亜戦争」について考えてみた。

単純に満州事変は「侵略だった」とか「自衛だった」とかいう議論は展開したくない。
ここでは私なりに戦前の日本の中国政策を検証してみたいと思う。

私が注目したのは「平穏な」時期である。
1905年からの20年間は、満州地区は「平穏」だった。
この間何があったのか。
1. 1905年:日露戦争後南満州での利権獲得(南満州鉄道)
日露戦争(1904.02〜05.09年)は日露両国が朝鮮の覇権をかけた戦争だったが、地上戦での主戦場は満州だった。
海戦では圧勝したものの地上戦では日本(軍)は辛勝だった。
これ以上の戦争継続は不可能という段階で、アメリカが斡旋に乗り出し、休戦会談が開かれ、ポーツマス条約が結ばれた。
この条約でロシアから譲り受けたものは遼東半島の租借権と奉天―旅順間の「南満州鉄道」(およびその周辺と守備隊駐留)だけで、支配権は清国(中国)にあるはずだった。

また、日本の戦費調達にアメリカが協力したが、いわば代償として満州における「門戸開放」を求めていた。

ところが現地に留まった日本軍の動きはこの双方に反するものだった。
日本軍は「軍政署」をあたかも日本の出先機関のように見做し、中国(清)の主権を認めるものではなかった。
その上「門戸開放」どころか「閉鎖」の動きが顕著になってきた。
これによりアメリカの対日感情が悪化し、その後の火種になった。

軍人は満州を「占領」しようとしているかに見えたため伊藤博文などは厳しく批判したが、小村寿太郎などは占領を主張した。
結局満州を占領し、韓国のように併合こそしなかったが、満州国という傀儡国家を建設するにいたった。

簡単に言えば、その後の歴史はこの満鉄を守ろうとして、日本軍の占領地区を次々に拡大し、遂に全面戦争にまで発展し、最後に大東亜戦争に大敗して軍国日本は滅びたのである。

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日米間に火種は残ったもののその後約20年間、「満鉄」は順調に発展する。
その間満州の「外側」では大きな事件が続いて起こったが、満州には「火の粉」が飛んでこなかったからである。
2. 満州の「外側」での大きな出来事(1905年〜1926年)
【中国内戦・・群雄割拠】
アヘン戦争(1840―42)に始まり、日清戦争(1894―95)、義和団事件(1899―1901)などで清国は末期症状を呈していたが、遂に1911年孫文(1866−1925)らの起こした辛亥革命によって清は滅び、新たに「中華民国」が誕生した。
しかしこれによって中国が変わったわけではない。
新しい国の指導者(大統領)は孫文ではなく、国民に人気のない袁世凱だった。
袁世凱の治世は混乱し、失意のうちに彼が死ぬ(1926年)と各地に「軍閥」が割拠し、「群雄割拠」(中国内戦)の時代へ突入する。

満州は張作霖という軍閥が支配しており、日本とは「良好な」関係を保っていた。
中国内部が混乱している間は、幸か不幸か満州地区は平穏だった。

しかし1926年、蒋介石が張作霖以外の各地の軍閥を平定し、中国統一達成が間近になると様相は一転し満州は俄然騒々しくなる。

【北伐・・統一運動】
1926年、中国の南半分を掌握した蒋介石は残る「敵」、張作霖討伐に北上(第1次北伐)を開始した。
しかし南京で英米軍と衝突したり、国民党で内紛を起こしたり、共産党を弾圧したり、日本軍に牽制されたり(第1次山東出兵)で北伐は不発に終わった。

1928年、第2次北伐を開始、日本軍との衝突を避け、済南市を迂回して北上した。張作霖は北京にまで勢力を伸ばしていたが、蒋介石軍とはまともに戦わず撤退した。
これを歯がゆく思った関東軍参謀河本大作大佐は、列車で帰還途中の張を奉天近郊で爆殺した。これを奉天事件(張作霖爆殺事件)という。
しかし日本では河本による暗殺を認めず「満州某大事件」として処理した。

しかし、張作霖のあとを継いだ息子の張学良は、日本政府の発表とは違い父親が日本軍に暗殺されたことを知り激怒、日本軍に反旗を翻す。張学良は蒋介石に恭順、ここに中国統一が達成された。時に1928年のことである。

【第1次世界大戦・・山東省】
言うまでもなく第1次世界大戦(1914〜17年)はヨーロッパを主戦場としたが、遠く離れた日本も対独参戦、山東省のドイツ軍を撃破、代わって日本軍が進駐した。
このとき、1915年「21カ条要求」を突きつけ中国人の反発を買い、民族運動を刺激、1919年「五四運動」に発展する。

この部分は満州とは別問題だが、「北伐」が活発になるにつれ、山東省は北伐を妨害する場所としての意味を持ち始める。これが日本の運命の分かれ道だったといえよう。

【国共対立と合作】
1912年、国民党結成、1917年カラハン宣言などで孫文は「容共」に転ずる。1924年第1次国共合作なるも、1927年蒋介石の「上海クーデター」で国共合作崩壊、以後国共内戦に陥る。
1936年「西安事件」で第2次国共合作、以後国・共共同で日本軍と戦う。

中国問題は国民党(蒋介石)、共産党(毛沢東)、日本軍の三つ巴の争いとして考えなければならない。

【民族運動】
1919年「五四運動」・・「還我青島」

【北京議定書】・・参考
義和団事件(1899-1901)後、清国政府と列強(イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、ドイツ、日本など11カ国)との間で結ばれた条約。
後々まで尾を引いたのが、北京公使館区域における外国兵常駐、北京と沿岸間の外国軍常駐を飲まされたことである。
これによって、中国には外国の兵隊が駐留していた。九カ国条約(1922年)まで有効だった。

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第一、中国の内戦
辛亥革命で清が倒れた後各地に軍閥が割拠して、主導権争い=内戦状態に陥った(群雄割拠)が、蒋介石が実権を握り中国の南半分を支配する(1926)ようになって、北伐を開始した。北伐というのは群雄割拠の時代に最後まで残った軍閥、張作霖を倒そう(降伏させよう)という統一運動である。
張作霖は満州地域の支配者だったが、当然日本(満州鉄道、関東軍など)と「友好関係」というより非敵対関係にあった。

第二、山東省(の「一部」)への日本の進出
第1次世界大戦で連合国側に加わった日本がドイツに参戦、山東にいたドイツ軍を降伏させ、代わりに日本軍がそこに駐留するようになった。
山東省への日本の進出は、基本的に満州とは関係ない。
そのとき「21カ条要求」を突きつけたため、民族運動を激化させ、「五四運動」を誘発した。
中国人にとって見れば「満州だけでなく、山東までもか」と映ったのだろう。
しかし、ワシントン軍縮条約を初めとする国際協調時代にここから撤兵した(1929年)。

第三、ロシア革命による共産党の動きである
孫文はソ連に接近したが、蒋介石は反共だった。しかし、国共は合作と内戦を繰り返し遂に「西安事件」で合作する。これは1945年の日本敗戦まで続く。その後はまた内戦になり、最終的に共産党が勝利する。

満州をめぐる情勢が平穏な時代は、以上のように要約されるだろう。

ちなみに、善悪の判断を抜きにすれば、満州の経営は日本人に手によらなければ、中国人だけでは出来なかっただろう。
その間、満州地域は大いに発展し、大量の中国人が流入し当然トラブルを多発させた。
一方的に日本の「侵略」とはいえない。

さて話が前後するが、北伐と中国統一前後の動きに移ろう。(続く