デイドリーム ジェネレーション

 ピンポーンと、来客を知らせるチャイムの音が家の中に響いた。夕闇に包まれた、閑静な住宅街の中の、周りとそうかわらない造りのごく普通の一軒家に、一人の男が訪れていた。
 両親は仕事でまだ戻らない。一人で留守番をしていた、その家の住人である楯岡守は、しかし今いる自分の部屋から出て来客を迎えようとはせず、ただ机に向かったまま頭を抱えていた。『来客』は、放っておいても勝手にこの部屋までズカスカと入ってくるだろう。
 その通り、ほどなくして守の部屋のドアが開かれた。
「チィーッス。調子はどうだ?」
 来客というのは、黒縁メガネスタイルは未だ健在、鶴岡信国。ドラマ『幽☆遊☆白書』での共演仲間だ。役の上では、決して仲のいい関係とは言えなかったが、実際には頼れる兄貴分として、守は絶大な信頼を彼に寄せていた。
信国に調子を聞かれた守は、頭を抱えたままのポーズで、辛うじてこう答えるしかなかった。
「……ちくしょう、サッパリわかんねー。問一からしてわからん」


 守は勉強中だった。自分の勉強机にライトをつけ、目の前に教科書やらノートやら筆記用具やらが散乱している。そのノートの中身を見ると、ぐちゃぐちゃに書いてあったり、消しゴムで思いっきり消してあったり、その拍子にノートの紙が破れてしまったりで、かなり難航していることが一目で分かってしまう有様だった。
「せいぜい頑張りやがれよ、この裏切り者めが」
 信国は淡々とした口調で言い放つと、まるで自宅にいるかのように堂々と床に腰を降ろした。
 中学三年の冬。高校入試を3ヵ月後に控えていた。そんな守の勉強を見るために、信国は一年も昔に終わった共演仲間のもとにわざわざ、自分の仕事がオフの時にはこまめに顔を出すようになっていた。
 幽白の収録は、およそ3年に及んだ。守はその頃小六〜中二で、収録で多忙すぎる日々を送っていた為にほとんど学校には行けなかったので、今になってからの受験勉強というものは相当キツいものがある。
 参考書を見ても教科書と睨めっこしても全く書いてあることが理解できない。仕方ないので守はまず、年上である天童悟志を家に呼んで勉強を見てもらうことにした。が、そもそも二人は恋人同士。狭い部屋の中で二人っきり、という抜群のシチュエーションに、勉強など身が入るはずもなく以下略。翌日、悟志より『無事高校に受かるまで会わない』という半絶縁状を叩きつけられてしまったのだった。
 意地でも高校に受からないと男が台無しになってしまう!と悟った守は、代わりにおそるおそる信国にお願いすることにした。実際、信国は多少口が悪いものの、分かりやすく教えてくれてとても助かっている。もしこれが陽平だったら、勉強どころか女の話で一日が終わってしまうか、最悪エロビデオ鑑賞会が背後で行われてしまうところだった。
「おーい、こっちのビデオも見ていいのか?」
 信国は守の勉強を見てやる報酬の一部として、守所有の本や映画・ドラマのビデオなどが見放題になっていた。テレビは守の部屋の中にあるが、そのまま使うと音声だけでも勉強中の守の邪魔になってしまうので、わざわざ信国はMYヘッドホンを使用するくらい、気配りが細かい男でもあった。
「ああ、いいけど、そのカゴの中身はだめだぞ。指一本でも触ると殺されっから」
「……ったく、ホモは死ねっつーの」
 信国のカンは大当たりだった。彼が指したカゴの中身の主は悟志。悟志が半絶縁状を出すことになる直前まで、彼も信国同様この部屋にちょくちょく遊びに来ていて、守の部屋にテレビやビデオデッキがある上になかなか居心地のよい環境を気に入り、そしてビデオテープ等私物を置きっぱなしにしたままになっていたのだった。
 信国の『ホモは死ね』という口癖は決して本気ではなく、むしろ時には守と悟志の関係に力を貸したこともあった。ただ、このメンバーの中では最も世の中を冷静に捉える気質の信国にとって、二人の行く末が当事者以上に心配になってしまうのだろう。

*  *  *  *  *

 幽白の放送が終わって一年が経っていた。
 信国はその後もそれなり順調に芸能活動を続けていた。陽平に至っては映画の主演だとかでマトモに会っていない。元はモデル出身で演技に関してはまるで素人だったはずの悟志は、幽白での蔵馬役として驚異的な成長を見せ、今ではドラマを始め多くの仕事に追われている(らしい)。美保はアイドル歌手として、歌番組やバラエティー番組で華やかに活躍している。
 そして自分―――守は。物心ついたころからずっと続けていた芸能界から、ぱったりと姿を消したのだった。信国から冗談交じりで『裏切り者』と呼ばれるゆえんもこのためだった。


 守にとって、幽白という仕事はかけがえのない仕事だった。悟志はもちろん、陽平や信国といった気の合うメンバーに囲まれて、日々演技を磨くことのできる毎日は何物にも代え難い時間だった。スタッフにも恵まれ、人気のあまり番組は異例の3年間に及んだ。
 できることなら、このままずっと続いてほしかった。守は強く強くそう願った。
 が、そもそも守は飛影役。中学生になり、成長期に入った守は、これ以上『チビ』が大前提の飛影役を続けることが難しくなってしまった。かといって、守が出す強烈な『飛影』に匹敵する程の演技力を持った代わりの少年などいるばずもなく、幽☆遊☆白書』は人気絶頂のまま幕を閉じたのだった。
 守がその事情を知った時、誰よりも続行を望んだ本人が続行不可能にしてしまったのだと、世の不条理を思い知らされ一人泣いた。
 やがて最終回が放映され、一時は終わりを惜しむファンの声が絶えなかったが、ほどなくして『幽白』という流行語も気付けば世間から聞かれなくなり、そして代わりに新しい流行が幾つも生まれ、また消えていった。
 それが当たり前なんだと、いくら頭のなかで分かってはいても、気持ちはついていかなかった。なんでこんなにも早く、みなあれだけ好きだったものをすぐに忘れてしまえるのだろう。オレは嫌だ!オレは例え、子供だとバカにされようとも、あの『幽白』をずっと一番大切にしていきたいから。
『明日もここにいる』
 とても新しい仕事を受け入れることは出来ないと思ったから。芸能活動から一切身を引くことにしたのだった。


 テレビドラマ『幽☆遊☆白書』はEDが何度か変わった。ある日『デイドリームジェネレーション』というED用の撮影を行った時、守は理解した。もうすぐ、この曲で幽白は終わってしまうのだと。もう間もなく、『目を開けて夢を見る』遠い日々が訪れるのだと。そのEDは完成しても、守にとっては見ることも曲を聴くことも耐えられないままだった。
 そしてとうとう訪れた幽白ラストの仕事は、劇中に使用される写真の撮影だった。最後の最後ということで、役者達はもとより、スタッフ全員にこれまでにはなかった不思議な雰囲気が流れていた。
 幽助・桑原・蔵馬・そして飛影の四人がカメラの前に並び、何枚かを撮った頃。
「スイマセン、目をつむってしまいました。もう一度お願いします!」
「スイマセン、今のはちょっと表情が……」
 普段なら見事な演技をこなし、滅多にテイク2など出さないはずの守が、何度もやり直しを求めた。当然時間は延びに延びたのだが、守の表情はますます硬くなってしまうばかりだった。他の三人は気付いていた。守は『幽白』の仕事を終わらせたくはないのだろうと。そしてそれは、自分達も同じだったので何も言えなかった。
「いい加減にしろ!」
 監督の怒鳴り声がスタジオ内に響いた時、守は既に半泣き状態だった。最終的に、実際に使用する写真は始めのうちに撮影した数枚の中から選ぶことにし、監督の指示によってそのままクランクアウトとなった。盛大な打ち上げパーティーが用意され、失意の中で力なく歩く守に、悟志はそっと歩み寄って呟いた。
『オレの分も、ありがとう』
 その時、守は堪えていた感情を抑えきれず、悟志に抱きついて大声を出して咽び泣いた。悟志は何も言わず、ただ守をやさしく抱きしめていた。
 守の、役者としての最後の日だった。

*  *  *  *  *

「ここがxだろ、だからそこにこいつを代入して……」
「あ、そうか、なるほど!」
 信国の得意分野は数学らしく、分からない問題は根気よく守に教えてくれた。同じ役者をやってきて、自分なんて全くといっていいくらい勉強は出来なかったのに、信国は演技とそれなりの勉強を両立出来ていたのだから、尊敬に値してしまう。
 悟志がちょっとだけ教えてくれたあの時は、本人もかなりたどたどしい雰囲気だったっけ……『あれ、ここどうだったっけ?本気で分からないや』なんて……彼の白い指先が動くのにうっかり気をとられてしまったっけ……。そしてその後……。
 そんなことを思い出してしまうと、勉強中だというのにどうしても悟志のことが気になって仕方がなくなってしまった。問題と睨めっこし、ノートを徐々に鉛筆の線で埋めてゆく。そうだ、この問題が終わったら、ちょっと外の空気を吸いにコンビニに行ってこよう。そして……。
 守はパタッとシャーペンを倒すと、机から顔を上げた。
「ちょっと出かけてくる。コンビニだけど、何かいるもんってある?」
「そんじゃ、おでんのチクワとトウフとタマゴ、おごれや。それとポテトチップもな。サボってないでさっさと戻れよ、コラ」
「ラッジャー」
 信国はテレビから視線をそらさずに夜食の注文。これも報酬代わりになっていて、全て守のおごりになっていた(でも信国だって結構くいもん持ってきてくれるし!)。役者の仕事で稼ぎまくった身ではあるが、自由に使えるお小遣いは普通の中学生とそう変わらない。おでんの具×3コにスナック菓子とは、ちょっと痛いが、……まあいいか。
 守はジャケットを着込み、サイフとケイタイをそのポケットに突っ込んで部屋を出た。
 家から一歩出た外は黒の世界。そこに街灯が規則正しく並び、光が滲むように周りを照らしていた。吐く息が白い。
 路地から大通りへ出ると、少し歩けばもうそこにコンビニが見えてくる。時々車が行きかう音だけが背後に聞こえた。
 他に人などいない。空は重く、空気は肌を刺すように冷たかった。
 まるでこの世に生身の人間は、自分一人になってしまったような感覚。無性に孤独を感じた。いや、悟志だって信国だって陽平だって美保だって、みんな自分と繋がっていることくらい分かっている。それでも苦しいこの孤独はきっと……自分が世の中から取り残されてしまったような感覚なのだ。芸能界から。かつては自分を応援してくれた多くのファンから。自分自身の希望から。
 ただ自分の歩けるように歩いていただけだ。そう決めた時から分かっていたつもりだったけれど、苦しくて苦しくて仕方がなかった。
 自分の望みは。ただあの時に戻りたい。それだけを強く抱きしめてるしかオレは出来ない。切ない。トゲが刺さるように胸が痛い。
 店内から漏れるライトからは壁で陰になった、コンビニの空いた駐車用コンクリートブロックに腰を降ろすと、守はケイタイを手に取った。電話をしたくて、コンビニに行くという口実をつけて家を出たのだ。
 半絶縁状態とは言っても、会えないだけで実は電話は結構していた。自分自身に負けそうになる度に、何度も悟志に電話を掛けた。忙しくて迷惑かもしれない、と思いつつも。でも電話に出てくれる悟志の声と励ましは守にとって最高の癒しになっていた。
 どうか、オレを助けて、悟志……。

*  *  *  *  *

「あれ、守って高校受験するの?」
 夏が終わる頃、守の家に遊びに来ていた悟志がそう聞いた。ちょっと意外な表情だったと思う。なぜなら、中学生である守は芸能活動に理解のある私立校に通っていて、普通の子供なら必ず通るであろう受験という名の難所もなくそのままエスカレーター式で高校に入ることができるのだから。
「うん、今の学校じゃなくて違う高校に行くんだ。ゲーノージンじゃなくなったし」
「あ、そっか……本気でもう業界はやめるんだー。だからと言っても別にそのままいてもいいわけだし、わざわざ受験なんてねぇ。まぁ、守らしいかもだけど」
 守のベッドの上には、色々な高校のパンフレットが散乱していた。どれもそうレベルが高いものではなく、今の守の成績でも頑張れば何とか受かりそうな程度のところばかりで、悟志もそれらを色々見比べたり、校長の顔写真にラクガキしたりして遊んでみた。
「じゃあ、この辺りの学校から選ぶわけ?あ〜オレにもそんな時代があったっけなぁ。懐かしい」
「悟志はさ、どんな高校に通っていたんだ?あんまり聞いたことなかったし……あ、…わりぃ……」
 興味津々で悟志に詰め寄ろうとした守は、ふと大事なことを忘れていたことに気付いた。そうだ、しまった……。
「うーん、あんまり行っていなかったから、どうもこうも分からないんだよね。普通に行けてたら、結構楽しかったんじゃないかなと思うけれど。てゆか、別にそんなこと守はわざわざ気にしなくていいけど」
 悟志は高校を中退していたのだった。悟志は自分から学校の話をすることはあまりなかったからつい頭の中から抜けていたけれど、幽白収録の中盤では既にそうだったはずだ。思えば周りの人たちも気を使って、悟志の前では学校に関わる話題は避けていたっけ。
 役者としては全くの素人で守以上に練習時間が必要だった悟志は、ほとんど学校には行かなかった。守同様、自分の仕事があまりにも大事だったのだ。そもそも受験の頃は、まさか自分の芸能活動がこれほどまでになるとは夢にも思わず、そこそこのモデルの仕事ができる程度という基準でこの学校を選んだのだった。当然、進級も絶望的だっただろう。
 この世界では、まともに学校に行けずに留年、というパターンは珍しいことではない。しかし悟志には、その『留年』という選択肢は全く考えず、ましてや転校も頭になく、より演技を身につけるため潔く学校をやめたのだった。『だって学校なんて年くってからでも行けるじゃん』平然とそう言い放った悟志は、もう立派なドラマ俳優だった。周りから『外見の割りに中身は男らしいなぁ』とも言われた。
 最終学歴が『中卒』だなんて今時目も当てられないけれど、悟志は今や立派に自分の仕事を果たす大人になった。そんな悟志のことを、守はとてつもなく尊敬していた。
 そして守は決めたのだった。悟志が行けなかった高校を、悟志の分まで楽しんでこようと。

*  *  *  *  *

「守がさ、オレの代わりに高校に行くっていうの、ちゃんとマジメに行くっていうの、嬉しかったんだ。だから頑張って欲しいよ」
「うん」
 コンビニから背を向ければ、そこは自分と電話相手だけの世界だった。
「高校受かったらさ、一番にオレに教えてよ。制服も一番に見せろよ。高校生の守かー。あんま想像出来ないけど、カッコよさそう!ふふ」
「……」
 守はちょっと赤面した。普段の悟志ならこんなこと真顔で言えるはずがない。きっと電話だから言えるんだ。きっと悟志だって顔を赤くしているに違いない。だって口調が少し震えている。
 ああでも、悟志の声には、悟志の言葉には本当に癒される。普通に会っていた頃にはこんなにも思わなかったのに。
「オレはこの世界で頑張って、守は守の世界で頑張るんだね。オレさ、守みたいになりたいんだよ。守はオレにとって一番のセンパイみたいなもんだったからさ。守ぐらい迫力ある俳優になりたいんだ。だからオレも頑張ってもいいかな」
「……悟志ってすごいと思う。でも、オレが寂しいのって変なのかな、やっぱ……」
 幽白でない作品に頑張ることが出来るのってどんな気持ちなのだろう?頑張れば頑張るほど、人気が出れば人気が出るほど、幽白のことが世の中から忘れ去られてしまうようで。本人も忘れてしまいそうで。
「正直に言うと、この世界に守がいないのが寂しい。どんな仕事を引き受けても、もしその先に守がいればって、いつも考えるよ。陽平や信国には会えてもそこに君もいなければ意味はないのに、会えないのが当然になっちゃった。それはとても寂しいことだと思う」
 悟志は『寂しい』の意味をちょっと取り違えたらしい。だけど。
 ……ごめんな、悟志……。自分の決めた道を後悔してしまいそうになる。
「あ、ゴメン、もう行かなきゃ。じゃあね、守。大好きだよ」
 そのとたんに通話が切れた。今も撮影の合間だったのだろう。たった一言のその殺し文句に、守はしばし携帯を握り締めたまま悶絶してしまった。お、オレだって悟志が大好きだっつーの……。


 守は帰路を急いだ。早く帰らないと、また信国にどやされる。って、もう悟志と電話してたこともバレてそうだよな。なんか適当に言い訳でも考えないと……『チクワが切れてて補充するのに時間がかかったんだよ』とか。やっぱバレバレか……。
 早足で、でもおでんの汁をこぼさないように慎重に、悟志の言葉を忘れないように心に留めながら。誰よりもオレのことを知っていて、誰よりもオレのことを心配してくれるから、悟志の言葉は絶大な勇気になる。空を見上げてその先に、真っ白い息を大きく吐いた。
 さあ、悟志に負けないようにオレも頑張れば、冬が終わって悟志に会える。その時どうかオレは、もっと大人になって悟志に近づけていますように。
 叶うならば。ただあの時に戻りたい。その想いは決して捨てられない。ずっとずっとオレについて回るだろう。切ない。トゲが刺さるように胸が痛い。それでもいい。オレは例え泣きながらでも、自分にしか歩けない道を、先の全然見えない道を、それでも堂々と歩き続けるんだろう。


END