三十三
巡礼などと大層な題目を掲げてての道中であったが、当たり前に、あくまで観光もどきの道中であった。それでも胸中では神秘的な景観にふれ、何らかの異化作用などをと期待しなかったわけではない。何分、私にとっては久々の遠出ということもあり、未知への場に向う行為自体が、とても新鮮に感じられたからである。
そして行く先々でカメラのシャッターを切った。同行の友人も又然り。それは肉眼を通して風景なり色彩なりを、鑑賞し享受するといった現実とは異なる、もう一つの世界の様相を、しっかりとからめとりたいという欲求に裏打ちされていたからに他ならない。詰まるところは欲が深いのであろう。それでもレンズの向こう側に現れ出る、別世界はいつも速やかに逃げ去り、決してたやすくつかみ捕れるものではない。
私たちは常に物語りの中で生きている。それは大いなる理を欲する心性、もしくは身悶えし、震える神経と言葉を換えてみてもよい。夢見てやまない戯れこそ、いつも物語りを中心に存在し、汲めども汲みつくされない無限の歓喜を求めて行く力であるから。
熊野の地にはいにしえより、大きな大きな物語が語りつがれ人々を圧倒してきた。例え自分自身が微発光であっても、雄大な山嶺から見下ろすまなざしには、きっと限りない存在のかがやきが映しだされていることだろう。
同行というよりも、導いてもらったと形容した方が的確である、友人M氏に感謝を述べさせていただき、この旅の終わりとしよう。
「御朱印帳まで、懐手の研究熱心さには頭が下がりました。本当に良い一日でした、ありがとう!」