「明日からは俺はオリックスの選手になる。だから−−。」

私のせいなの!?私のせいで伊勢さんがトレードされるの!?

「もう俺なしでも十分大丈夫だろ。俺が教えられるものは全部−−。」

違う!私はまだ伊勢さんから教えてもらうことが沢山あるのに!それなのに…!

「そう気を落とすな。引退した訳じゃ−−。」

引退した訳じゃなくても同じ球団じゃなくなるんだよ!もう逢えなくなるかも知れないんだよ!

「だから…、もう泣くなよ…。携帯の−−。」

そういう問題じゃないよ!そういう問題じゃあ…。

私が伊勢さんから教えてもらったもの…、自分だけの変化球…。

それだけじゃない…、投球技術やバッターの時のピッチャーの行動など…。

私は伊勢さんに沢山の知識を教えてもらった…。でも…、こんなことになるなんて…。

「こんなことになるなら…、こんな変化球なんていらなかった…!」


2003年2月 沖縄県宜野湾村 横浜ベイスターズ春季キャンプ地

私がプロになってからの2回目の春季キャンプが始まった…。

プロ入り始めてのシーズン…、去年は思った以上に充実に満ちたシーズンだったなぁ。

シーズンが始まって1ヶ月で1軍に上がり、日本シリーズにも登板。

オールスター前に、2軍に落ちたけど新人なんだから問題なし!

新人王は同じチームの白井さんに取られちゃったけど、年俸も500万円から400%増の2000万円になったし。あ、あんまりお金のことはよそう。うん。

さぁ、キャンプなんだから頑張って練習しないとね。さ〜て、伊勢さんは…っと。

う〜ん、いないなぁ…。ブルペンで投げてるのかなぁ…。

お、あそこに居るのは同期の坂本くん。仕方ない、彼に聞いてみますか。

「ちょっと、坂本くん。伊勢さん見なかった?」

「伊勢さんならブルペンで投げ込みしてたよ。ってまた伊勢さんか…。」

ちなみにこの坂本くん、私と同じく1年目から中継ぎのポジションを獲得して年俸も…、私より多かったりする…。

「当然!このキャンプで自分だけの変化球をマスターするんだからっ!」

そう、今の目標…。それは自分だけの変化球を作ること!

私の憧れの選手…、ヤクルトの橘みずき選手の変化球「クレッセントムーン」…。それに阪神の早川あおい選手の「マリンボール」…。

ダイエーの田中姉妹の「クロスカーブ」「クロスフォーク」…。女性投手は必ずと言っていいほど自分だけの変化球を持ってる…。

でも、私が投げられる変化球は一般的に投げられているシュートとシンカー…。野球界で女性投手が生き延びていくにはオリジナル変化球が必須と言われてる…。

そこで目を付けたのが同じチームで「神宮カーブ」が武器の伊勢さん!その伊勢さんからオリジナル変化球の投げ方などを教えてもらうってこと!

「それじゃ、ブルペンに行ってみるね!坂本くん、ありがとうっ!」

「はいはい、どういたしまして。」

坂本くんに感謝の気持ちを言うと、私は急いでブルペンに向かった。

「しかし…、伊勢さんもいい迷惑だろうなぁ…。楠は一度決めたことは遣り通さないと気がすまないからなぁ…。」


ブルペンに着くと私は周りを見渡して伊勢さんを探した。伊勢さんは丹念に変化球の練習をしていた。

「お、伊勢さん発見〜。伊勢さぁ〜ん。」

伊勢さんを見つけた私は、伊勢さんの元に駆け出した。

その姿を見た伊勢さんは少し後ずさりをし、

「また来たか…。キャンプ1日目からこれだとなぁ…。」

とぼやいていた。

「だって伊勢さんしかその変化球投げられないんだから仕方ないじゃないですか。」

「でも俺、シュートもシンカーも投げられないぞ?それに左投げだし。」

ふふふ、そんな言い訳で私が引き下がるとでも思ってるのかな?

「大丈夫です。伊勢さんスライダーは投げられますよね?シュートとスライダーは似てますから。」

似てると思う…、多分。変化的には逆だけどね…。

「と言ってもなぁ…。お前、シュートをオリジナルにしたいんだろ?俺の球はカーブだからなぁ。」

むむ、そう来たか。確かに「神宮カーブ」は名前のとおりカーブの改良版。シュートとカーブは握り方が全然違う。

ただ、ここで引き下がると私の夢が終わってしまう…。私は何とかして伊勢さんを納得させる策を練っていた。

「しかし…、何でそこまで自分だけの変化球が欲しいんだ?今の球種でも十分通用すると思うが。」

私は伊勢さんのその問いかけに私の思ってることを投げかけた。

「女性投手はオリジナル変化球がないとプロでは生きて行けない!」など少々、大げさに言ってみた。

実際、阪神の竹内渚選手はオリジナル変化球がないけど活躍してるしね…。去年だけの珍事じゃなかったら。

私の話を聞き終えた伊勢さんは少し考えながら、

「う〜ん…、そういうことなら…。仕方がない、やってみるか。」

やったーっ!ついに伊勢さんが重い腰を上げたーっ!

去年のオールスター明けから頼んでて、ついに承諾してくれたーっ!

「ほ、本当ですか!?ありがとうございますっ!」

「ただし!」

ただし?ま、まさか…「その代わりにチョメチョメやらせろーっ!」とかじゃないよね!?

たしか、伊勢さんは未婚のはず!その可能性は十分ありえるかも…!

「教えるからには完璧に教えるからな。音を上げるなよ。」

なんだ…、そんなことか…。しかし、音を上げるなとな!

「私を誰だと思ってるんですか!横浜の中継ぎエース、楠美咲ですよ!?大丈夫、やれます!」

自称・中継ぎエースだけどね。いや、今の中継ぎ事情だと本当にエースなのかも!?

速球が売りのモリスさんは高年齢だし、坂本くんは…。むむ、彼は強敵ね…。

あ、そういえば坂本くんはサウスポーだ!モリスさんも左投げだし。

と言うことは右腕の中継ぎとしては私が一番のはず!そうなれば横浜の「右の」中継ぎエースってことに!

「ま、それだけやる気があれば大丈夫か。それじゃ、練習は明日から−−。」

「今からです!このキャンプ中に少しでも習得しておかないと!」

そう私が言うと伊勢さんは少し間をおき、

「俺の練習はどうなるんだよ…。」

と少しあきれた雰囲気で言った。

「現役生活、私より長いんですから大丈夫ですよ!」

「いや、お前2年目−−。」

「さぁ、師匠!変化球の極意、教えてください!」

伊勢さんは一つため息をして、

「やっぱりやめておけばよかったかも…。」

と呟くように言った。

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