始まり
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本事業は、県都である津市と亀山市に亘る農業水利事業です。農地3,600ha余りを受益とし、二級河川安濃川がその中央を貫流する地域です。
事業実施の発端となる安濃川は、この地区最大の河川ですが、布引山地の錫杖ヶ岳付近を源に、耕作地帯である芸濃、安濃地区を流下し、津市の中心街を貫け伊勢湾に注ぐ流長は23.9kmと短く、河川勾配が急で滞留時間が短いことなど、その特徴からも鉄砲水がでるので有名でした。下流に位置する城下には、脅威であったにちがいありません。
一方、灌漑への引水はというと、前述の特徴に加え、流域は背後の山が浅く干ばつ時の流量が非常に少なかったため、水不足による水論が頻発していました。
ある時は豊かな収穫をもたらす“恵みの水”として、またある時は全てのものを押し流してしまう“恐ろしい水”として、常に私達の生活と共に在りました。
〈参考〉
安濃川 :二級河川、旧津市に入り塔世川と
名を変える。
幹川流路延長:23.9km(法定区間)
水源標高 :677m
水質 :環境基準でA類型に指定されており、
御山荘橋地点で観測が行われている。
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考古学に学ぶ 〜 歴史的景観の変遷は、土地利用原則の変化 〜
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この地域の考古学調査によれば、伊勢湾で最初に大規模な米作りが始まったのは、津市街地の西郊に広がる納所遺跡からだったようです。津市の米作りの歴史は納所遺跡が起源であり・・・ つまり、この地域の米作りの歴史は安濃川から始まったと言えましょう。 |

安濃川と第三頭首工

納所遺跡から出土した弥生の琴
(米作りが始まった頃に既に楽器を作っていたことからも、非常に高い文化をもっていたことが想像されます。)
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津の歴史は、いつ始まったのでしょうか。それは現在のところ、約2万年前まで遡ります。その頃は旧石器時代と呼ばれている時代で、人々は狩りをしながら暮らしていました。
1万年くらい前になると気候は暖かくなり、たくさんの動物が住む豊かな森ができました。縄文時代の始まりです。人々は山菜や木の実を採りながら狩りをして暮らしました。さらに、簡単な農業も行われていたようです。
そして2千数百年前、弥生時代が始まると、食生活のうえで革命的な変化が起こりました。“
稲の栽培 ”です。大陸から伝播された稲作のため大地は造成され、日本の風景が大きく変わりました。“ 水田風景 ”の誕生です。
土地改良のルーツはここに始まったのでしょう。
生活の場は、旧石器時代には丘陵や台地を立地条件としていましたが、縄文時代になると次第に平野部に住むようになり、更に弥生時代では平野部に集中しています。遺跡の立地条件の変化は、主な生業が稲作になったことによるのでしょう。これによって生活はより安定したものとなりました。人々は協力して灌漑用水を開削し、水田を形成し、豊饒を祈る祭祀を行いました。
この様な弥生文化は伊勢湾沿岸部の平野各地にも波及し、主要河川の沖積平野に大規模な拠点的集落が形成され古代の国が生まれました。安濃川の辺では、津市の大集落跡である“ 納所遺跡 ”がそれであります。この遺跡を拠点として流域各所に小規模な遺跡が出現し、やがて安濃川流域全体に広がっていきました。
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歴史を語る安濃川 〜 水利と治水の礎 〜
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稲作農耕の必須要件は水利であり、生業として安定的な用水の供給が必要です。江戸初期、安濃川には48ヶ所の井堰があり、津藩ではこれを定井手として公認していました。しかし、水不足による水論が幾度となく頻発した原因は、旱魃と水の配分だったようです。水利のいかんは“ 一村の存亡に係わる重大事 ”でした。
上流に眼を向けると、そこは昔から水利に乏しい土地柄の意味で“ 無涓の里(むけんのさと)”と呼ばれていました。潜入蛇行する安濃川は灌漑の用をなさず、広い沃野は生産性の低い畑地でした。しかし沃野の水田化のために安濃川より取水する必要があり、延宝3年(1675)津藩により井堰や溝手が開発されました。
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津藩三十二万石初代藩主、藤堂高虎
慶長13年入封(1608〜1630)
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一方、今なお息衝く藤堂藩の街づくりには、随所に安濃川に対する警戒心が表れています。河口付近から上流にかけての約6kmに及ぶ堤防。当時としては最高の土木技術を駆使したと思われます。
そして、最も脅威であった安濃川には土手を築きました。土手は南側だけに作られ、万一の場合には北側に溢れるようにさせました。粘土質で出来た頑丈なものですが、さらに強度を持たせるため上流20kmの間には篠竹を植えました。
さらに、仕掛けとして穴倉川が合流する城下の手前に三泗堤防をつくりました。この堤防は現在でも他のところより1mほど低くなっており、そこから増水した水の一部を三泗川を介して岩田川に分散させてしまおうというものでした。
なお、このことで影響を受ける農耕地帯があり、いざという時に洪水から城下を守ってくれるとして無税という特権が与えられたのです。
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第三話 都市と農村の共生 〜 移りゆく時代背景と土地改良 〜
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大正3年(1914)以降、安濃川を並走するように、市街地から安濃を経由し芸濃の間に安濃鉄道が軽便鉄道として建設されました。しかしこの時代、安濃鉄道は旅客収入に依存していたため、農村地帯であることから農繁期には旅客が少ないなど営業不振により昭和19年(1944)に全線休止となりました。農耕地帯である影響を色濃く受けていたようです。
しかし、昭和30年(1955)頃から始まる経済の高度成長は必然的にインフレを伴い、所得生活水準の上昇を引き起こします。農業だけで急激な生活水準の上昇に対応することは容易ではなく、1960年代になると兼業農家が増えてきました。農家をわずかに続けながら兼業所得で生計をたてる… 農業の在り方が変貌したのです。
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大正3年(1914)頃 軽便鉄道開通
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昭和46年(1971)台風23号の被害状況
安濃町曽根橋の崩壊
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それまで碁盤目主義といわれる明治32年の耕地整理法を嚆矢とし、主客転倒して水を中心とする工事を目的とする土地改良法が昭和24年(1949)に制定されました。その後、経済の高度成長(1955〜1973)にけん引されるかのように、土地改良の建設の時代が始まります。
安濃川を水源とする水田は、僅かに1,400ha程度でありながら22箇所の井堰で反復取水し、洪水の度に流失し、そしてまた修復するという状態で、井堰の維持管理に年々多大の経費を費やしていました。そして、昭和46年(1971)の23号台風によって安濃川の各井堰に甚大な被害を被ったため、この災害の復旧と併せて事業計画する必要があり“ かんがい排水事業 安濃川地区 ”が先行して採択されることになりました。
一方、安濃川以外の水田は約100ヵ所におよぶ溜池とわずかな小河川が水源で、あとは天水が頼りといった状況でした。畑に至っては水利施設が皆無であり、本事業はこれらの不安定な水利条件を解消するため、“ かんがい排水事業 中勢地区 ”に拡大し、上流部を国営、末端部を県営で実施するほか、水源に安濃ダム、有効貯水量980万トンを昭和56年(1981)着工し昭和60年に完成しました。安濃川22カ所の井堰を4ヵ所の頭首工に統合整理し、その他新規利水地域には120kmに及ぶ用水路と末端分水工270ヵ所余りを新設。

安濃ダム 昭和58年頃
国営かんがい排水事業が昭和47年(1972)着工、365億円の巨費と19年の歳月を経て平成3年3月(1991)に完成。
県営かんがい排水事業が昭和48年(1973)着工、108億円の費用と30年の歳月をかけ平成15年3月(2003)に完了を迎えました。
殊に、昭和46年(1971)事業実施の大局において、農業用水の安定補給量の確保とともに防災的見地での役目を具備。

河芸地内、末端分水工試験通水の状況
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明日への水
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従来、新しい施設をつくることが土地改良事業の中心だった時代、建設の時代から、管理体制、そしてその更新整備体制をどう構築し、円滑に進めていくかということがより重要な管理の時代とも言うべき段階に来ています。昨今、公共事業の見直しということが日々言われる中、非常に大切な農業・農村の基盤について、これから様々な批判というものに対してしっかりとした答えを出していかなければなりません。
これまでの碁盤目主義や利水中心の事業といった従来に将来が拘束されぬよう、広い視野と新しい感覚をもって次の段階へ踏み出さなければなりません。
棚田米がおいしい理由を生産者に尋ねると、例外なく「きれいな水」と返ってくるそうです。
このように“ きれいな水で育てられた米 ”という拘りが見られるようになったことには、そうでないものとの選択が求められる時代が近づいているのかもしれません。そのような時代に対応するためには本事業の受益であることが必要です。それは安濃ダムの水質がとても良いからです。
健全な水循環がもたらす環境回復機能や、食料の生産と同時に水の住処でもある国土を保全し、温暖化抑制並びに治水機能をも果たしていることなど、多面的にも影響を及ぼす大切な農耕文化の行方は、私たち“ 水土里ネット ”が水先案内人として存在意義を示さなければなりません。ますます地域とのふれあいを大切にその役割と姿を創造していきたいと思います。
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遠く霧立つ山並、岩清水が木立を縫い、自然の懐に抱かれる水が生命を育む川と成る。
私たちはいつまでも変わることのない、この生命の流れを守っていきたい。 明日への水に願いをかけて〜

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