コメント
鈴鹿川は、万葉集で「八十瀬」と詠まれ、蛇行する流れに数多くの浅い瀬を持つ川として表現されている。
その後の和歌においても、「鈴鹿川」と詠めば「八十瀬」となるほど頻繁に引用されている。
特に、京の都から伊勢に下向する斎宮やその女御にとり、鈴鹿峠はほぼ行程の半分にあたり、また伊勢国衙などに出向く人々とともに、まさに異郷の地への関門であったと考えられる。京への思いを絶ちつつ峠を越え、ほぼ鈴鹿川の源流部から中流域まで曲がりくねった川に沿って延々と下り、幾度となく袖をぬらしつつ川を渡り、伊勢へ向かったのであろう。
通常、どういった川であっても、上流部であれば谷に沿って蛇行し、数多くの瀬があるものであるが、なぜ鈴鹿川で特にそういった表現をするようになったかは、京から東行するメインルートが鈴鹿川に沿って開かれていたことと、斎宮の伊勢下向が大きな要因と考えられる。当時、そのような場所を斎宮などの貴族・役人が通る所といえば、京から伊勢に向かう鈴鹿峠からのルートが最も代表的なものであったのであろう。 |