人力列車 海を見下ろす斜面には鬱蒼とした茂みがあり、山間からしばらく隔てたにもかかわらず木立の影は、視界を暗鬱な一日へ手招いていた。絡まりあった梢から覗ける逆光に照らされた緑は遠く、眼下の海面にきらめく星々に支配されているのかと感じてしまう。うっすらまぶたを閉じ、口もとをすぼめてみる。夏の日はすでに冬支度へ急いでいるのだろうか、鼻孔に通じた空気は吐息となり、やがてかすれた音をたてた。 太陽を直視する。散った彼岸花が想起され幻惑のなか列車に乗り込んだ。沿線に朱が群生するのはきっと旅を求めているからに違いない。懐疑する必要はなかった。燦々とした光線を受けながら列車は海の上を走ってゆく。車両の数が知れないように乗り合った人々の顔も同じで、誰もが無言に車窓に寄りかかっている。離れ小島がこちらに近づいてくる錯覚におちいったとき、「これは船ではないのか」そう訝ってみると、急に足もとに神経がいってしまった。座席の下は歩幅ほど底抜けしていて、いや切り取られているみたいで、しかも自転車のペダルが据えつけてあり、ほとんど無意識のうちにそれを漕いでいた。隣の客席をうかがえば殊更に気をせいている様子もなく、ガラス越しの海原に想いを沈ませている面持ちで、膝を上下させている。 針の穴に糸を通す慎重さはそこにはない。ただ何となく縫い物がしたくなった、気まぐれに等しい気分で旅情を育んでいるだけ、そう映った。 まばゆい光が目を射る瞬間瞬間に少しは眉間にしわを刻んだりするのだが、透明な鏡のまえでは当たりまえのように、ペダル漕ぎの労苦は微塵もあらわになることなく、瞳からあふれだす輝きは無償の時間へと流れ去っていた。「すべて海の底に沈んでしまうから」そういう屁理屈でさえ神話に匹敵している気がして、今度は空高く上昇していく予感を抱いたのだったが、蒼海はどこまでも限りなく続いている。 どれくらい潮のしぶきを浴びたのだろう、鬱屈した光景からいきなり水平線まで運ばれてゆく大胆な跳躍に限界を感じてきた。緑が遠くに見えたのと一緒で、海底もとても深く思えだし、陽光の気高さにひれふしたかった。だが、光線はそれほど深海に関与しない。四方へひろがる大洋に倦怠が芽生え始めた気まずさを糊塗する為、願いはより厳粛な包装で沈みこんでいく。陽の及ばないところまで、音は閉ざされ静謐が奏でられるところまで、空き缶に芸術の神が宿り、聖なる水棲動物が白夜を恋慕うところまで。 車掌らしき声が車内に伝わった。 「これより上陸いたします。ペダルの負荷には変化はございませんが、石ころなど跳ねることもありますのでご注意ください」 以心伝心とはこの情況を指し示しているのか、それとも旅先案内人としての務めをまっとうしているに過ぎないのか、ともあれ小島に見入る思惑が段々その様相を変化させるよう、列車の運行は窓の向こうに新たな景色をなびき、乗客の意識に颯爽とした風を送りこんだ。 潮の浮力と地面の反撥はひとつの次元に思えるほど、水地の切り替わりに違和感は生じない。足先にかかる重みも確かになく、ペダルは機嫌をそこねることないまま、波しぶきの季節を過ぎやり、人気のある密度を実感しに舞い戻ってきた。見知らぬ町、見知らぬ顔が待ち受けているのをいたわりのこころと交差させたく願い。 思わず両足に力が入る。それにしても海と陸では匂いが異なるはずなのに、一向に下方から香ってくる気配はなくて、おそらくペダル漕ぎに掛かる体力を緩和させるのに他の感覚を遮蔽しているなど、適当な了解をしていまい、なるほど嗅覚どころか耳にするものもなく、旅につきものである行楽弁当も用意されておらず、味覚までもが等閑にふされている現状を不思議がることもなかった。こうまでして人力で稼動せざるを得ない理由も皆目わからないから、地に足がついてない不如意を遠まわしに告げられているようでどことなく煙たかったけど、伏し目勝ちな目は朦朧とした意識を保ち続けている。 ようやく目が醒めたのは窓の外に見慣れた道筋が認められたからだった。それは近所の町並みであり、生家へとたどる一方通行の路で、交通規則に従っているのだが、果たして列車がこんな狭い道路を走り抜けていいものやら安穏な気分でいられなくなったせいで一気に身がこわばってしまった。そして、脈絡など通じさせなくてもかまわないのに何故か「出るぞ、出るぞ、たぶん出るぞ」と、呪文のごとく肝だめしみたいな浮ついたおののきを準備していたら、案の定その姿がありありと網膜に飛びこんで来た。 生まれてこのかた、どんなホラー映画よりも最強の悪夢がその白昼のひとこまだった。銭湯から出てきたと思われる上半身のない相撲取りがゆっくりと反対方向から歩いて来る。黒いまわしは汗をかいたのか濡れており、へその下を残した臀部と両脚だけが影を残すことも忘れたように無言の圧力をかけている。まわしの上の切断面は決して現実的な崩れ具合を誇示していなかったが、丸太でも切ったあとに肉汁が湧いて出て、内臓が一部とめ置かれたふうな赤々とした異形には、吐き気を通り越し瞬時にして凍結作用に転じてしまう戦慄が備わっていた。 相撲取りと絶対に目を合わせてはいけないという、心理が直撃される矛盾も巻きこみ、臓物と血糊が抑えられた肉塊の存在は白日のもと完全なる金縛りをさずけていった。 「どうして列車から降りるんだ、、、」 叫んだときは遅かった。強烈な悪夢を甦らせるだけでは足らず、再びその場に佇もうとしている。その目に、その緊縛の身に帰ろうとしている。 海を見下ろす要領で意識が分割してくれれば救いようのあるものを。列車に乗るには早かった。 2011.11.29 |
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